第5話:前に進むための涙①


 見上げた空は、もうすぐ雨が降り出しそうな雲行きだった

 全身を撫でる夜風は湿気が含まれていて、ズンと重たい。香ってくる空気にも、雨の匂いが混ざっている。多分、あと一時間もしないうちに、灰色のアスファルトは濡れはじめることだろう。


 その中を彷徨うように歩き続けた隆司の足が、見慣れた扉の前で止まる。しかし、今日はいつもの溜息が出てこなかった。

 何も考えることができない隆司は、表情を少しも動かさないまま玄関の扉を開けて部屋の中に入る。するとリビングに入ったところで、洗濯物を畳んでいた湊が驚きの声をあげた。


「隆司さんっ? びっくりした、音が全然しなかったから帰ってきたこと気づきませんでした」


 畳んでいた洗濯物を置いて立ちあがった湊が、小走りでこちらに向かってくる。けれど隆司は、そんな湊に「ただいま」の一言すらかけることができなかった。


「隆司さん?」


 持っていた鞄を放りだし、無言のまま湊の横を擦り抜けると、そのまま奥のソファーに腰をおろす。普段だったら帰宅後すぐに自室で着替えるのに、今夜は煙草の香りが染みついたスーツを脱ぐことができなかった。


「何か……あったんですか?」


 隆司の異様な様子に、ただならぬことが起きたと悟ったのだろう。床に膝を着いた湊が、心配そうに見上げてきた。

 ただ、それでも隆司は口を開くことができない。

 少しの間、沈黙が続く。すると湊はゆっくりと立ちあがり、隆司の隣に座り直した。


「僕、ここにいますから必要になったら声かけてください。あ、でももし一人になりたいのなら、外に出てますね」


 警察官に守秘義務があることを知っている湊は、それ以上強引に聞き出すようなことはしてこなかった。

 何も言わず、やりかけだった洗濯物の続きをはじめている。

 不思議とその姿に、思考が動いた。

 

 自宅に帰ってくるまで虚脱感に囚われたまま、何も考えることができなかったのに、いつもどおりの湊がそこにいるだけで感情が勝手に動きだす。

 もしかしたら、誰か――――そう、仲間内以外の人間と話をしたかったのかもしれない。数時間ぶりに戻った思考で答えをだすと、隆司はゆっくりと閉ざしていた口を開いた。


「……今日、この近くで起こった立てこもり事件のニュース見たか?」

「え? ああ、それならさっき見ました。人質は無事に解放されて犯人も捕まったけど、警察官が一人犯人に撃たれたって…………っ! もしかして、撃たれたのは隆司さんなんですかっ?」


 瞬間的に顔を真っ青にした湊が、洗濯物を放って隆司の全身に視線を巡らせる。


「バカ……撃たれてたら、今ここにいるわけないだろう」


 的外れなことを言う湊に、弱いながらもいつもの皮肉で返す。そんなやりとりにまた、心が解れた。

 今なら、話せそうだ。


「撃たれたのは俺の先輩だ。……俺のせいで撃たれたんだ」

「隆司さんのせい?」


 隣で湊が息を呑む。


「詳しいことは話せないが、俺が誤った行動を起こしたせいで撃たれそうになって……それを先輩が庇ってくれた」


 それは数時間前。隆司や田島を含めた刑事達が、女性を人質にとった犯人と対峙していた時のことだった。

 犯人は長時間の籠城による疲れと、田島の誠意ある説得に投降の意志を見せはじめていた。その時、ほんのわずかだが犯人の気が緩み、人質を助けられるかもしれない機会が訪れたのだ。

 人質立てこもり事件が発生した場合、最優先するのは人質の安全。その言葉を頭によぎらせた隆司は、人質を助けようと思わず飛びだしてしまったのだ。その行動のせいで警察に裏切られたと激高した犯人は、隆司に向けて発砲。弾は、隆司を守るために前にでた田島の腹を貫いた。


「先輩……田島さんには、前に言われてたんだ。立てこもり事件は緊急事態にならないかぎり、犯人が自らの足で投降するまで下手に行動を起こすなって。なのに、俺が早まったせいで……」


 今回の失態は、全て自分の未熟な判断で動いてしまったことが原因だ。

 頭の中で、刑事課に配属されてすぐに言われた、「事件は理屈だけじゃ、解決できない」という田島の言葉が反復する。自分はそれを頭に入れているつもりで、実際は全く分かっていなかったのだ。

 病院に運ばれた田島は一命を取りとめたものの、怪我の状況が悪ければ刑事が続けられなくなるかもしれないと言われている。

 田島にとって刑事という仕事は、自らの命や家族と同じぐらい大切なものだ。それを自分が奪ってしまうかもしれないと思うと、震えがとまらなかった。


「先輩が刑事をできなくなったら、俺のせいだ」


 病院に駆けつけた田島の妻は、不安を声に出して泣いていた。連れられてきた幼い子供は隆司に純真な目を向け、「お父さん、刑事さんできなくなるの?」と聞いてきた。

 そんな二人の姿が、記憶に焼きついて離れない。

 睨むと犯人すらひるむと言われる強面をクシャリと崩し、隆司は苦悩を浮かべる。

 その時、今まで黙って話を聞いていた湊がおもむろに口を開いた。


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