第4話:先輩刑事


 世の中は禁煙ブームだというのに、古い建物の壁からは常に染みついた煙草の香りが匂っていた。


 刑事を生業にしている人間には、愛煙家が多い。事件が起こる度に溜まる、発散しきれない鬱憤を手っとり早く解消するには煙草がちょうどいいらしい。

 しかし、それでも時代の波は確実に押し寄せていて、隆司のように喫煙者への風当たりがきつくなってから成人を迎えた人間は、苛立ちの捌け口に煙草を選ばなくなってきている。どちらかといえば、酒や趣味に走ることが多いだろう。そのため、今、煙草を吸っているのは一定の年齢をこえた人間ばかり。


 そんな状況の中にいる隆司はというと、勿論、時代の波に乗っている方の人間であったが、悲しい話、着ているスーツからはいつも煙草の匂いが離れなかった。

 原因は、常時煙草を咥える人間が隣にいるからだ。


「――――で? 三十前に独身寮を出た将来有望君には、どんな彼女がいるのかな?」

「いきなり何ですか? というか田島さん、一応言っておきますがデスク周りは禁煙ですよ」


 朝からずっと書類作成に勤しんでいた隆司は、声の方に顔を向けると、口の端に煙草を咥えたまま二カッと笑う田島を見て目を細めた。 


 田島二郎警部補は、この道二十年のベテラン刑事だ。彼は隆司が一年前に刑事課へと配属された時から、相方兼教育係として常に行動を共にしてくれている。

 刑事の現場は、教科書に載っていることが全くと言っていいほど出てこない。そこで必要になるのが現場で培った知識だ。ゆえに隆司にとって、経験豊富な田島は誰よりも尊敬できる憧れの刑事だった。

 ただし、性格を除いての話だが。


「うるせぇ。俺の辞書に禁煙スペースなんて文字はねぇんだよ。それよりも、俺の質問に答えろ。来年には警部補になろうって出来すぎ君には、どんな女がつくんだ?」


 行儀悪く机の上に足を乗せている田島が、元々ある目尻の皺を更に深く刻ませて、また笑う。

 その顔を辟易とした様子を眺めながら、隆司は警部補という言葉に、自室の机に積んだ昇進試験用の参考書の存在を思い出した。


 一昨年、巡査部長の昇進試験に合格した隆司は今年、警部補の試験に挑戦することを考えている。二十六歳で警部補の試験にいどむことは仲間内から早すぎると言われたが、夢である警視庁捜査一課の刑事になるためには、こういったところでの地道な主張が必要なのだ。

 しかしそんな夢とは裏腹に、毎日事件に振りまわされる所轄の刑事になってから、思うように勉強が進まなくなった。刻一刻と迫る試験日を前に、はかどらない勉強。さすがに今回は諦めようとしていたが、今は湊が炊事洗濯を一切引き受けてくれるため、再び希望の火を灯らせることができた。

 そういう意味では、湊の存在はありがたい。


「まるで、取り調べですね。でも、ここは取調室じゃありませんよ」

「なら、黙秘権もいらねぇな」

「人の揚げ足とらないで下さい。……もういいです。俺に彼女なんていませんよ。寮を出たのも単に前に住んでた独身寮が、呼び出されてから署到着までに一時間かかる場所だったからです」


 これ以上攻防をしても、時間を無駄にするだけ。諦めた隆司は、素直に答えを返した。


「殺人、強盗、傷害、誘拐、立てこもりなどの強行犯を取り締まる刑事課強行犯係の刑事は、出動要請から三十分以内に現場ないし署に到着しなければならない。俺がここに来た時、最初にそう教えたのは田島さんでしょう。だから俺は、すぐに引っ越したんですよ」


 要請から到着までに時間を取られてしまっては、捜査に影響がでる。そう言ってS署近隣に引っ越せと言ったのは、誰でもない田島だ。


「まぁ、そうだけどよ。でも確か、うちの署の近くにも独身寮あったはずだぞ」

「近くの独身寮は、全部満室だそうです」

「怪しいなぁ。お前ぐらいの年の奴が寮を出るって時は、大抵相手がいる時だ。お前……さては、俺等に内緒で女と同棲してるな?」


 田島が、訝しげな眼差しを向けてくる。しかし嘘を吐いていない隆司は、動揺することはなかった。 


「してませんよ。部屋にいるのは、……少し大きなペットだけです」


 頭の中で湊を浮かべて、そう告げる。

 間違ってはいない。そう、湊は家事ができる大きなペットのようなものだ。


「んな言葉、信じられるかよ。顔は……まぁ、少々無愛想だが整っているうえ、身体も丈夫。加えて学歴、将来性と申し分ない奴に女がいないなんてありえねぇ」


 田島が咥えていた煙草を大きく吸って、吐きだす。口から飛び出した煙は見事に隆司のスーツに吹きかかり、また生地に煙草の匂いが染みついた。

 そろそろ湊に頼んで、クリーニングに出してもらうか。頭の片隅でそんなことを考えながら、田島の相手に戻る。


「何を根拠に、そんなこと言うんです」

「勿論、刑事の勘に決まってんだろ。俺は刑事になって、もう二十年だぞ。俺の勘が外れるわけがない」


 刑事の勘。田島からこの言葉を聞くのは、この一年で軽く百回は超えている。確かに長年の刑事生活で培った田島の勘は当たる確率は高いが、それは事件のときだけ。

 田島の様子からみて、恐らく湊のことに関して何か証拠を掴まれているわけではない。そう確信した隆司は、身体を机に向き直してペンを手にとった。


「はいはい、そうですね。ああ田島さん、この書類にサインと判子お願いします。あと田島さんの分の書類、今日中に出さないと領収書の決済できないので忘れないで下さいね」


 田島に付きあっていたら、書類作業が終わらない。相手は先輩ということもあって失礼だと思ったが、今は仕事を優先させようと決めて適当にあしらう。


「はいよ。……ってお前なぁ、そんな冷たい男演じてると、いつか彼女に捨てられるぞ? 刑事ってのはな、おっそろしいほど出会いはないわ、生活のほとんどが仕事に追われるわで女から嫌われる職業なんだ。ここで彼女に捨てられたら、一生独身だからな」

「……彼女はいませんけど、俺はそれでもいいと思ってますよ。両親は幼い時に事故で他界してるんで守る家もないし、結婚にも興味がありませんから。一生、公僕として生きていくのもありだと思ってます」


 書類にペンを走らせながら、自分の考えを述べる。すると、長い溜息がかえってきた。


「お前なぁ、そんな格好良いこと言ってられるのは今だけだぞ。この仕事は、年をとる分だけきつさが増してくる。一日走り回って、クタクタになって帰ったときに家で待ってる家族がいるのと、いないのじゃ全然違うぞ」


 元々仕事をする気がなかったのか、はたまた弁に熱が入ってしまったのか、田島は持っていたペンを投げ、書類整理を完全に放棄した。


「想像してみろよ。家の扉を開けたら電気がついてて、こっちが『ただいま』って言ったら、『おかえりなさい』って言葉と、温かい飯の匂いが迎えてくれる。これ以上の幸せはないぞ? ああ、ちなみにウチの女房は、これプラスお帰りのキスまでしてくれるけどな」


 自慢気に語る田島の隣で、『キス以外の光景なら、昨日見たばかりだ』と頭の中だけでかえした隆司が、乾いた笑いを零す。

 きっと湊にお帰りのキスなんて要求したら余裕綽々どころか、そのまま「僕を食べて下さい」と服を脱ぎだすことだろう。だがそんなことをされたところで、隆司の幸福が満たされることはない。


「それはそれは、ご馳走様です」

「あー、もう淡泊だな! 今の若い奴って本当、草食ってる奴ばっかだな!」

「草、食う?」


 田島の嘆きに、思わず手を止めて首を傾げる。数秒後、それが草食系男子を指しているのだと分かったところで、突然、隆司達のいる刑事課室に警視庁本部からの出動要請が流れた。どうやらS署の管轄内で、女性を人質にとった籠城事件が発生したらしい。


「ケッ、立てこもりかよ。手間かかりそうなヤマ起こしやがって」


 要請を聞いた田島の目が、刑事のものに変わる。


「行くぞ、長谷部。今日は引きこもり犯の説得術ってやつを教えてやるよ」

「はい、分かりました」


 刑事の顔になった田島は、誰よりも尊敬できる上司だ。隆司は素直に頷いて立ちあがると、足早に田島の背を追いかけた。




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