第3話:湊のトラウマ②


「あ、食器はシンクに置いておいてください。食べ終わったら一緒に洗っちゃいますから」

「これぐらいなら、洗っとくぞ」

「いいんですよ。僕は居候させてもらってる身なんだし、それに今朝は早くから出たから疲れてるでしょう? それ置いて、先にお風呂入っちゃってください」


 確かに早朝五時から酷使させている身体は、そろそろ休息をとってくれと訴えている。こんな時に、食事の準備や片づけや風呂の準備ができているのは正直助かる、というのが本音だ。

「そうか、悪いな」


 せめて皿洗いがしやすいよう、カレーがこびりついた皿に水を張りながら、隆司は湊の予定を聞く。


「そういえば明日もバイトか?」

「ええ、そうです」

「バイトはじめてから今日まで、ずっと休みなしじゃないか。最初から飛ばしたら疲れるんじゃないか?」

「まだ六日目ですし、大丈夫ですよ。それに僕、一日も早く正社員になりたいから、店長には出られる日は毎日でも働かせてくださいって言ってあるんです」

「頑張るのはいいが、体力と相談しながらにしておけよ。倒れて長く休むことになったら意味がないからな。あと、バイトはじめる時にも注意したが、帰りが遅くなる時は一人になる道を絶対に避けること。いくら俺が注意したからと言って、完全に安心だというわけじゃないからな」


 湊に暴力を振るっていた相手の名前も住所も分かっているから、いざという時は警察官として動くことはできる。だが、そうだとしても十二分の用心は必要だ。


「はーい。了解しました。フフッ」

「何がおかしい?」

「いいえ、おかしくなんてありませんよ。隆司さんが心配してくれたって思ったら、嬉しくなったんです!」


 漸く食べ終わった湊が、皿を持ってこちらに歩いてくる。その皿をシンクに置いた途端、突然湊が飛びついてきた。


「隆司さんの、そういうところ大好きです!」

「おい、こら。抱きつくな」


 隆司の腰に絡みつくように腕を回す湊を剥がそうとするが、なかなか頑固に離れようとしない。


「この胸の中に溢れる気持ちは、もう言葉だけじゃ伝えきれません!」

「言葉だけでも十分うるさいくせに、何言ってんだよ。だいたいな、お前は思ったことを言動に出しすぎだ。そんなに口にばっかりだしてると、逆に信憑性を疑われるぞ」


 強い想いほど、簡単に言葉にはしないで胸に秘めておくべきだと考える隆司にとって、気持ちを包み隠さず曝ける湊は奇異な存在にしか見えない。

 しかし呆れ顔を見せる隆司に対して、こればかりは黙っていられないとばかりに、湊から反論がかえってきた。


「ん、もう、隆司さんは分かってませんね。こういう気持ちは、口や態度に出さないと相手に伝わらないんですよ。僕がどれだけ隆司さんのことを愛してるか、こうでもしないと分かってもらえないじゃないですか」


 だから僕は、こうやって愛を全身で表現するんです。そう言って湊は腰に巻きつかせる腕の力を強める。


「俺の目には、お前がとてつもなく軽い人間にしか見えないがな」

「僕、軽そうに見えます? んー………そっか! なら上に乗ってもオッケーってことですよね。僕、騎乗位は未経験ですけど、隆司さんのためなら頑張りますよ」

「また、人の言葉で勝手な妄想して。お前、いい加減に――――」

「隆司さん、だーいすき!」

「人の話を聞けっ」


 言うことを聞かない湊に対して、ほんのわずかに苛立ちを覚えた隆司が、軽く諫めるつもりでゆっくりと左手を挙げる。

 しかし、挙がった左手がまさに空を切ろうといた瞬間。


「い、やっ……!」


 突然、湊はそれまで浮かべていた笑顔を一切消し去り、隆司から逃げるようにその場に蹲った。


「湊……?」


 唐突過ぎる事態に、隆司は固まることしかできない。

 自分はただ湊に注意するため、頭を軽く叩こうとしただけなのに。隆司の足下で蹲り、両腕で頭を覆い隠しながら全身を震わす湊の姿に、隆司は首を傾げる。


「おい、どうし……」

「ごめんなさい、ごめんなさ……」


 話しかけても聞こえないのか、湊はただ謝罪を繰りかえすだけ。あまりにも身体を大きく震わせているものだから、容易に触れることもできない。

 どう考えても普通ではない状態に、頭が混乱を覚えはじめる。その時、ふと湊の口から蚊の鳴くような願いが零れた。


「……願……叩…………ないで……」

「あっ……」


 聞き逃しそうなぐらい小さな声で紡がれた言葉が耳に届くとほぼ同時に、一週間前の記憶が蘇る。

 瞬時に、隆司の中に大きな後悔が生まれた。


「……っ! 悪いっ! お前が暴力駄目なこと、すっかり忘れてた」


 湊は恋人から受けた暴力のせいで、心に大きな傷を抱えている。

 一年前、家を飛びだした後、街で声をかけられたことで出会った二人の関係は、当初、絵に描いたような甘いものだったらしい。しかし、一緒に暮らして数ヶ月後、湊が自立のために働きたいと相談した日から、恋人の態度は変わった。

 元来、嫉妬深い面があった恋人は湊に働くことを禁じ、それでも働きたいと言うと、今度は湊に軟禁生活を強いた。暴力は湊が恋人の下から出ていく覚悟で別れを切りだした時から始まったと、聴取の時に話していたことを隆司は思い出す。

 そんな過去があるからだろうか、普段は明るく、何事もなかったように振る舞ってはいる湊だが、暴力に関することになると、尋常ではない反応を示すのだ。つい先日も、家庭内暴力による事件の報道をテレビで見て、真っ青な顔をして震えていた。


「本当に、すまない……」


 暴力を受けた人間が後に心的外傷を発症させることは、男女の関係でもよくある話。少し考えれば分かることなのに、気づいてやることができなかった。

 ゆっくりと膝を着き、壊れものに触れるように湊の背に触れる。触った瞬間だけ身体が強張ったが、柔らかく撫でてやると次第に緊張が和らいだ。


「ごめ……さい……僕、大丈……」


 謝る隆司に対して、湊は身体を震わせながらも大丈夫だと言う。それが隆司に心配をかけまいとする湊の気遣いなのだと分かると、余計に心苦しくなった。


「お前は少しも悪くない。だから無理するな」


 背中を撫でていた手を頭に移動させ、髪の毛を柔らかく混ぜてやる。すると、まだ微かに震えながらも湊がこちらに顔を向けた。

 隆司を見つめる湊の顔に、拒絶の色は見えない。ならば、もう普通に触れても大丈夫だろう。確信した隆司は子猫のように小さくなった湊の身体を、優しく抱きしめた。


「隆司……さん……?」

「ったく、普段まるで遠慮なしの癖に、こんな時だけ遠慮して……変な奴だな」

「すみません……」

「謝るなよ。今回は俺が悪かったんだから、素直に甘えておけ」


 片膝を着いた状態から完全に床の上へと腰を降ろし、湊の腕を優しく引く。


「ほら、俺の足の上に座っていいから。そのまま寄りかかれ」


 湊は引かれるがまま隆司の膝に腰をおろし、横向きの状態で寄りかかる。母親が幼い子供をあやす姿勢に似た状況に、気恥ずかしさを感じたが、今は湊を落ち着かせることが最優先。

 隆司はそう思いながら、湊の身体を抱きしめ続けた。

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