第2話:湊のトラウマ①


 手を洗って席についた頃には、揚げたての豚カツが乗せられたカレーと、色とりどりの野菜が盛られたサラダが用意されていた。

 そういえば玄関でのドタバタ騒ぎに隠れてしまっていたが、部屋に入った時、食欲を刺激する芳潤なスパイスの香りが部屋全体に広がっていたのを思いだす。


「カツカレーか。美味そうだな」

「現場の刑事って、体力が資本なんですよね? だから野菜ばかりじゃ元気でないと思って」

「よく知ってるな、そんなこと」

「テレビでやってる刑事ドラマを見て、勉強しました」


 エプロンを外し、机を挟んだ真向かいに座った湊が、目を輝かせながらさっき見ていたというドラマの話をする。逃げた犯人を取り押さえる様が格好よかっただの、取調室で犯人を追いつめる姿に痺れただの、刑事ドラマではどこでも見られる場面を並べる湊に、隆司は思わず笑いを零した。


「別に否定するつもりはないが、あまりドラマばっかり見てると、実際の刑事との差が分かった時に落胆するぞ」

「そうですか? 僕、ついこの間、実際の刑事さんの仕事を目の当たりにしましたけど、格好よさは変わりませんでしたよ。もう僕、このまま抱かれてもいいって、足開きかけましたし」

「あの公園でのことはたまたま事がいいように進んだだけで普段はもっと泥臭いし、面倒な手続きをしなきゃ動けない堅苦しい仕事ばかりだ。だから、あまり刑事に夢を抱かないほうがいい。あと、ついでにそこから、いかがわしい妄想を抱くな。食欲が落ちる」


 今度は先手を打って、湊の言葉を止める。このまま話を進めれば、確実に今より酷い妄想話に展開するからだ。


「むぅ……隆司さん、この頃意地悪になってきましたね」

「お前の扱いが、少しずつ分かってきただけだ。ほら、もうそろそろ話終わらせて、飯食うぞ」


 湊が何か言ってくる前に「いただきます」と手を合わせ、スプーンをとる。すると湊は、隆司が一口目を口の中に入れるのをじっと見つめてから、初めて手を合わせた。


「……別に、俺が食べはじめるの、待たなくてもいいのに」

「あ、ごめんなさい。実家にいた頃の癖がなかなか抜けなくて……」


 二人で食事をする際、湊は必ず隆司が食べはじめるのを見届けてから食事に手をつける。それは湊が実家で『家主よりも先に、食事に手をつけてはならない』と、厳しく躾けられていたからだそうだ。

 初めてその話を聞いた時、つい「お前、まさか、お坊ちゃまか!」と聞いたら、「はい僕、お坊ちゃまでした」とケラケラ笑いながらの返答がかえってきた。

 聞くところによると、湊の実家はかなりの資産家らしい。


 祖父の代から経営する会社が全国に何十社とあって、社員も数千人を超えるという。家は噴水付きの大豪邸で、兄の趣味である外車が、駐車場に五台以上あるという。

だからなのだろうか、湊はその言動から窺えないほど行儀がいい。テーブルマナーはもとより、食べ方も上品で隆司とは全く違う。

 それはカレーの食べ方一つでも違っていて、男ならスプーンと皿をそれぞれの手で持ち、豪快にかきこむところだが、湊は置いた皿からカレーをすくい、手を添えながら口へと運ぶ。

途中で水を飲む時も、一度スプーンを置いてからコップに手を伸ばす。そしてゆっくり時間をかけて食べるという、見ていてじれったくなるような食べ方をするのだ。


「味、どうですか?」

「ん? ああ、美味いよ」

「よかった! 今日はこだわってルーから作ってみたんです。だから口に合わなかったらどうしようって心配で」

「ルーから? まぁ、確かに市販のものとは少し味が違うとは思ったが……」


 カレーなど、レトルトのものしか食べたことがない隆司には、元から作るなんて未知の世界の話。これには、さすがに驚きを隠せなかった。


「フフッ。未来の旦那様の胃袋を掴むためです。きっと、これを食べ終わった頃には、僕のことお嫁さんにしたくなりますよ」


 隆司から味の保証を得た湊が、嬉しそうに笑う。その笑顔は一瞬、返す文句を喉の奥で止めてしまうほど綺麗なものだった。


「……俺はお前の未来の旦那でもなければ、嫁にもらう気もない。バカなこと言ってないで、さっさと食べろ」


 しかし、ほんのわずかでも見入ってしまったことを悟られたくなかった隆司は、『今のは疲れからくる幻覚作用だ』と意識を彼方へ追いやり、目を逸らす。けれど逸らす瞬間、それまで気づかなかった湊の服の違和感に目がとまった。


「おい、また俺のシャツ着てるのか?」 


 細身で肩幅が女性より少し広いだけの湊は、男性用の普通サイズですら肩の位置がずれ、服が余ってしまう。そんな小柄な湊が今着ている隆司のシャツは、肩の縫い目が大きくずれ落ち、第一ボタンまで開けただけの胸元も不自然に大きくはだけていた。

 開いた胸元から、白く艶やかな肌が覗いている。


「はい、お借りしてます。でも、ご心配なく。ちゃんと使ったら、洗ってクローゼットに返しておきますから」

「そういう意味で言ったんじゃない。まだ自分用のシャツを用意してないのかっていう意味だ。金が足りないなら、渡すから買ってこいよ」


 溜息を吐く隆司の眉間の距離が、言葉とともに狭くなる。

 ただでさえ色気の大安売りをしている状態なのに、これ以上肌の露出が高くなる服を着て外にでたら、良からぬ輩に目をつけられるではないか。 

 宿を貸している人間としては、変な事件に巻きこまれてほしくない。だというのに、根からのお坊ちゃま体質の湊は警戒心や危機管理がまるでなく、こうしてつけいれられる隙を自ら作ってくれる。

 それが気になって身体のサイズにあった服を買えと言うのだが、湊は首を縦に振らない。先日、さすがに下着とスラックスだけはサイズが合わないとみっともないと言って頷かせたが、シャツはまだ納得していないらしい。


「この一週間で、たくさんお金を貸してもらってるのに、シャツのお金まで借りられません。バイトのお給料もらったら買いに行きますから、それまで待ってください」

「その給料だって、来月にならないと入らないんだろ?」


 湊は居候をはじめてすぐに、アルバイト先を見つけてきた。隆司の部屋の近くにある、飲食店の厨房だそうだ。それは大いに喜ばしいことだが昨今のバイトは前借りなんてできないため、湊が給料を手にするのは最低でも一ヶ月先だ。


「ええ。ただ、来月のお給料は買ってもらった服の返金に回しますから、シャツを買うのは再来月になると思いますけど」

「再来月……」


 返ってきた言葉に、隆司の頭はまた頭痛を訴えた。自分はこれから二ヶ月も、しなくてもいい懸念を抱き続けなければならないのか。


「別に遊びに使ってるわけじゃないんだし、最低限の必要経費なんだから金は返さなくてもいい。それよりもそんな格好で外歩いて、変な男に引っかかったらどうするんだ」


 まるで、年頃の娘を心配する父親のようだ。複雑な気分になりながら、湊に注意を渡す。


「その点は、前回の失敗を踏まえて気をつけてます。それに今は隆司さん一筋ですから、声をかけられても絶対についていかないので安心して下さい。――――それと、借りたお金は、必ず全額返します。このまま頂くようなことは、絶対にしませんから」


 その点だけは譲れないと、湊は顔と強い言葉で主張する。

 はじまった。湊がこれを言い出したら何がなんでも後に引くことはない。

 目の前の男は顔に似合わずとにかく頑固で、自分のものは自分が稼いだお金で買うという信念を曲げないのだ。


 今回のように一時的に借りることがあっても、必ず一円単位まで記録につけて完済しようとする。お坊ちゃまのわりにしっかりとした金銭感覚を持っていることは褒められることだが、だからといって身の危険を後回しにするところは、まだまだだと言ってやりたい。

 が、彼はきっとどんな理由で説得しても、隆司から余分な金を受けとることはしないだろう。隆司がそう言い切ることができるのは、数日前に湊から実家で暮らしていた時の話を聞いたからだ。 


 裕福な家庭に生まれた湊は学生時代、子に甘い親から「学生のうちは働かなくてもいい」と余るほどの小遣いを渡されていたため、一度もバイトをしたことがなかったそうだ。大学を卒業した後も、そのまま父の会社に入社した湊は、一日数時間の雑用で他の正社員と同等の賃金をもらうという典型的なお坊ちゃん生活を送っていたという。

 表面だけは社会人で、中身は子供のまま。

 にも関わらず自分を一人前だと思いこんだ湊は、認めてもらえるだろうと算段をつけて家族に自らの性癖を打ち明けた。しかし、当然そんな告白を受け入れられるはずもなく、結果、湊は家を出なければならなくなったらしい。

 湊は、家族に認められなかった原因を『自立していなかった自分が悪い』と考え、その時に自分の力だけで生きていこうと誓ったのだそうだ。例え何年かかってもいいから一人前の社会人になって、もう一度、家族の前に立つと。

 そう語った湊の目には、驚いて息をのむほど強い意思がこめられていた。恐らく、湊の決意は生半可なものではない。だからこそ、隆司は強く言えないのだ。


「……そういうところだけは、評価できるんだがな」

「え? 何? 今、僕のこと恋人にしてくれるって言いました?」


 つい零した呟きに、湊がお得意の反応をかえす。


「言ってない。お前、カレーのルー作る前に一度耳掃除してこい」


 隆司はあからさまに双眸を細め、頬を大きく引きつらせた。


 せっかくほんの一握りほど見直してやったというのに、これでは台無しだ。

 隆司の返答に対して頬をぷっくりと脹らませる湊を完全に無視して、最後の一口を口の中へと放りこむ。それからすぐにごちそうさまと手を合わせて席を立つと、皿を持ってキッチンへと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る