2.不安
すぐに私達家族は周囲と打ち解けていた、そう言って差し支えないだろう。両親は共働きで平日は私ももちろん日中には家に誰も居ない。私が家に帰る頃にはいつも母は近所のスーパーで働いているから父よりは先に帰って食事の支度をしていたり家にいるし父もそこまで遅くなることはない。少しずつこの生活に馴染めているそんな気がしていた。
この日私は家にひとりだった、母は少し遅くなると連絡を寄越していた。だから不満らしい不満はなかったと言える、たまにはひとりで過ごす家も有りだとさえ。鍵を開ける直前人の話し声がかすかにした、気のせいだと思えない生々しさを伴っていた。
「もしかてもう帰ってた、お母さん?」
聞いてみたのは単純に気配がかすかに残っていたから。もちろん居るはずのないことだとわかっていたけれど、何故かこの日の私は確認して入ろうとしていた。やはり誰も居ない、当然の帰結、それなのにそうさせるのはやはり誰かが会話するような話し声がかすかに聞こえていたから。
「ただいま! 居ないの?」
玄関で靴に手を伸ばし脱ごうとしている最中も相変わらず話し声が耳につく。忍び込んだ気持ちにもなっていつの間にかそっと玄関を閉じていた。私の家なのに他人の家に入り込んだような妙な感覚が消えない。自室に荷物を置いてから家中くまなく探すように歩いたが誰も居ない。
気づけば誰の声ももうしなかった。テレビをいつもより大きな音量で流し気を紛らわす、胸がざわつく感覚を少しでもごまかしていたいと感じていたから。自分の家に居るのにまるで人の家に忍び込んだかのような気味悪さが私を不安にさせていた。引っ越ししてきて日が浅いせいかナイーブになっているのかも知れない。慣れない場所での新生活、中学生から高校生になったこと、それらがこうも無自覚なストレスを私は感じているのかもしれない。ここに来て初めてひとり家に居る、帰りを待ってくれる母が今日は忙しくて遅くなって居ない。そんな些細な事実に揺さぶられる程神経をすり減らしているのかもしれなかった。そうに違いないと言い聞かせる。時計の秒針の音がいつもよりやけに響いて聞こえる、時間がいつもより遅く流れている感覚に襲われる。到底自室にこもって勉強する気になれなかった、わざわざリビングテーブルで勉強をしている、テレビの音を垂れ流しながら。何故だか階段の上から視線を感じて嫌な気持ちにもなって私はこんなにも子供染みた人間なのか、臆病になったもんだなと思う。頭に何も入って来ない、勉強の内容もテレビの内容も耳を通り抜けるだけ。母が帰って来たらきっと笑い話にでもなることだろう、そう思うと少しだけ不安が和らいだ気がした。
私達家族はこの家を簡単に出て行けない理由がある。私が中学生の時のこと、いじめにあった、それも陰湿な感じのやつだ。私は不登校になり部屋に引きこもった友達だと思っていた人間に裏切られた死んでしまおうそう思う程どん底だった。精神的に不安定な日々が続いて両親は私に振り回される日々、目を離すと何をしでかすのかわからないそんな状況が毎日毎日繰り返し両親は疲れはてていた。そんな時のことだ、いっそ引っ越してしまおうこの場所にいる限り私は壊れ続け両親も共倒れになる。高校は遠くを選んだ同じ中学校の生徒が来ない場所を選んだ、勉強は通信講座でなんとか高校受験に間に合わせた。両親はここならと決めて選んだ二階建ての一軒家。行政が移住が増えるようにとサービスが良くなけなしのお金でなんとかなるくらいには。だから不満なんて持つ権利はおそらくない、私はここまでしてもらっておいて今さら無理だと言えないだから、私は何があってもここを出て行こうなどとは言えない。
いつの間にかうたた寝していたみたい。日が落ち少し薄暗い、母はまだ帰っていないらしい。電気をつけるため冷たい床に足をつけスイッチのある方へと動き出す。妙な感覚はとっくに消えていた。チカチカと明滅を繰り返し照明がつく、暗がりのなかに先ほどまでいた私はたまらず眩しさに目を閉じる。目を開けて見ればなんてこともない、いつも通りの見慣れたリビング。馬鹿馬鹿しさに呆れた。白米だけでも炊いておこう、私にでも出来る最低限のことなんだから。キッチンに立ち準備する。
母が帰って来たのはご飯が炊ける10分程前、両手には膨れ上がった買い物袋。騒がしい物音を立てながら。「ごめんね、遅くなっちゃって」と言いながらリビングに袋を下ろして「燈ちゃん、ご飯炊いてくれてたのね助かるわぁ」なんて大げさに言いながら買い物袋の中身を冷蔵庫に入れるのを私も手伝う。不思議と不安は消えていた。「今からさっさと作っちゃうね」なんて言いながら夕食を用意し並び終える頃には父が帰って来た。「今日はいつもより仕事が早く終わったんだ」と言って着替えに自室に戻ってからすぐにリビングへやって来る。その頃には日中のことなんて私は忘れていた。
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