最終話 元凶墜ちて朝日は昇る

 私は、ようやく弟の心のうちが少しは把握できた。そんな気がした。


「そう。そういうことだったのね」


 決して同調でも肯定でもないが、ネストラスの顔はぱあっと明るくなった。


「分かってくれた? じゃあ」

「ネストラス、ここでお別れよ。その遺言状を渡してちょうだい、燃やしてしまうから」


 私はトリフィスの手を離れて、一歩、また一歩とネストラスへ近づく。不快感と怯えを顔に浮かべ、なおネストラスは動かない。


 その遺言が私とトリフィスを、弟を含めさまざまな人々を未来永劫、過去まで縛るものなら、私が処分するしかない。


 このときの私は、すでに王太女ではなく、王子に命令を下すべき立場たる女王として、行動していた。


「サナティカ女王としてあなたに命ずるわ、ネストラス」


 びくり、とネストラスの肩が震えた。


 その怯えは同情の余地がある。ネストラスは王子として——あの国王の息子として、どれほど歪んだ教育を受けてきたか、想像に難くない。弟を守ってやれなかった私が、都合が悪くなれば弟を消すなど道理がまったく通らない。


 それでも、間違っているのなら正して、妄想や偽りならば打ち破るべきだ。ネストラスがまだトリフィスを殺していないのなら、罰することはできない。


 だから、私が『元凶』である憎たらしい不肖の父に代わって、ネストラスの進むべき道を指し示す。


「その残りの人生を懸けて、私の役に立ちなさい。大丈夫、私が全部手配してあげるから」


 心の中では無力感にひどくさいなまれながらも、私はそう言うしかなかった。

 






 私は近衛兵隊長にネストラスの身柄を引き渡し、当面の間は監禁しておくよう命じた。もちろん、外部との一切の接触を断たせ、いずれは表向きには病死したと公表する予定だ。


 トリフィスが味方にした近衛兵隊長は、時間の巻き戻しがどれほどあってもずっと私の味方でもあった。近衛兵隊長以上に信頼できる人物は、王城にはいない。


 私とトリフィスは、かつての国王の居室を出た。この部屋は、もう開いてはならない。いずれすべて、綺麗さっぱりと処分しなくてはならなかった。


 油紙を取り去り、大して長くもなかった遺言状に目を通して、私はようやく一息吐いた。それは実はため息も兼ねていたかもしれない、それだけ遺言状の内容はひどかった。


のろいというものかしら。あるいは、執念や執着……何としてでも、娘を王位に就かせるために、怪しげな魔術を片っ端から試して、傾倒していった」


 死の淵に立たされた人間は、錯乱して何をしてもおかしくない。それ以前から異常さを見せていたかつての国王は、自身の死期を悟って、藁にもすがる思いであらゆるものに頼った。部屋の中にあった魔法陣はその一端でしかなく、他にもどれほどの神秘主義的なものに頼ったのかは知りたくもないし、すべて焼き払うべきだ。


 後顧の憂いは断たねば、また時間の巻き戻しが起きる前に。


 少なくとも、あの部屋が綺麗さっぱり失われて、何十年と経てば巻き戻しはもう起きないと断定できるが、それまではあらゆる可能性を潰して回らなくてはならなかった。あの部屋が原因なのか、それとも何か別の呪いなのか——今となっては、今までのどの巻き戻しとも違う未来を歩んでいくしか、確かめる方法はなかった。


 あの部屋の汚濁から身を清めるために風呂に入り、夕暮れを前にトリフィスとテラスで合流した私は、トリフィスへ遺言状の内容すべてを伝えることは憚られたので、掻い摘んだ要約と経緯を話しておくに留めた。


「トリフィスを初めて見た瞬間、サナティカ王国が乗っ取られる未来を見た。だから、レオカディアを、サナティカ王室を、王国を守らなくてはと強く思い込んだ。その願望を、弟は私の知らないところでずっと聞かされて育っていた。大好きな姉のために何でもしてあげなきゃって……は、私の弟の人生を狂わせたのよ」


 それはネストラスに対する洗脳と呼んで差し支えないものだっただろう。それか、本当にかつての国王がかけた呪いが作動したか。だとしても、このままネストラスを放っておけば、いつの日か必ずトリフィスを殺し、私に殺され、さらには……どうしようもない悲劇が連鎖していただけだ。


 とにかく、殺しあいの時間の巻き戻りという地獄から解放され、私はトリフィスに感謝の気持ちを伝えたくてしょうがなかった。


「トリフィス。ありがとう、あなたのおかげで悪夢から抜け出せた。もうあなたは自由よ、婚約だって破棄するし、それに」

「ええと、それは、僕のことが好きではないから?」

「違うわ! 死んでも私を守ろうとする人を、どうして嫌いになれるのよ!」


 見当違いなことを言われて、私はついムキになってしまった。それに、私は結局のところ、殺されても殺してもなお変わらない感情があることに気付いた。


「弟だって、嫌いになれなかった。殺してやりたいと憎んだのに、何度も殺してやったのに、心底嫌いになれなかったのよ」

「……ごめん。配慮が足りなかった」


 トリフィスはまた謝っていた。好き嫌いで一切合切を決められれば、どれほど楽か。


 情は幾度となく薄まりはしたが、ここまで殺し合っても、私はネストラスへの同情の念を途切れさせることができなかった。何度となく殺したいほど憎しみ抜いても、未だ嫌いきれなかった。愛する人を殺されたって、殺さないならそれでいいとばかりに考えてしまうのが、私、レオカディア・ニコリッツァという人間だった。


 とにかく、もう疲れた。私は平和に生きていきたい、愛した人と結ばれたい。ただそれだけを願っている。


「だって結局、私たちは何度やり直しても、まだ一度だって結婚していないのよ?」

「うん、そういう運命なのかなって諦めかけたよ」


 またそんなことを言う、と私が咎めようとすると、トリフィスはゆっくりとしゃがみ込む。片膝を床に付け、もう片方を立てる。


 私の左手を取って、トリフィスは夕日の中でプロポーズする。


「結婚しよう、レオカディア・ニコリッツァ。女王陛下きみの許しがあれば、それだけでいい」


 風呂上がりの濡れた金髪を、一陣の潮風が撫でた。


 指輪をちゃんと用意できなかったあたり、トリフィスらしいな、と私は思った。






 やがて、歴史は変わる。


 サナティカ新女王レオカディアの即位の前に、弟王子ネストラスの訃報ふほうは流れたが、大して目立つことはなかった。即位の戴冠式は、隣国との合併を定める条約締結式も兼ねていたため、この地域ではかつてないほどの規模の大祝典が待ち構えていたからだ。


 レオカディア女王は弟王子の名を、すべての書物から消し去るよう命じた。王家に伝わる家系図にも、寺院の墓跡にも、弟王子たる者の名どころかその存在までもが抹消されていった。


 レオカディア女王のもと新たな国、ニコリッツァ朝サナティカ王国は大繁栄し、家臣どころか国民までもが女王を讃え——即位から二、三十年と経てば、その弟がいたことなどすっかり忘れ去っていった。




 ある意味では、——前国王の思い描いたとおりになったかもしれない。だが、身勝手な遺志までは残すことができなかった。


 レオカディア女王と王配トリフィスの影に潜む人物は、その後も女王のために働いたという。






 いつかの未来、どこかの屋敷。


 怯えた初老の男性が、広く豪奢な部屋の片隅で毛布をかぶって震えていた。


 最近、よく夢を見るのだ。それも、身内に殺される夢ばかりだ。一通り親族には殺されていて、明日は一巡して誰が夢に出てくるか、それとも本当に現実のものとなってしまうのではないかと戦々恐々としていた。


 灯りは消され、月明かりだけが照らすバルコニーのガラス扉が揺れた。


 全身を灰褐色のローブで覆った人物が、いつの間にか現れていた。


「やあ、公爵。女王陛下の代理人です。えー……夢を、見るそうですね?」


 全身全霊で警戒していた初老の男性は、ようやく——公爵という自身の立場を思い出し、最近の悪夢を方々に相談した結果、女王の耳に届いたことを喜んだ。


 慈悲深いレオカディア女王陛下ならば、必ずやなんらかの手を打ち、お救いくださるだろうと信じていた。この国に利益をもたらすのは誰かということを、どうやらご存知だったようだ、と安堵して、初老の男性は立ち上がる。


「ああ。何度も何度も、殺される夢だ。どう足掻いても助からない、どうにかしてこの夢を断ち切って……絶対に、現実にならないようにしてくれないか?」


 灰褐色のローブの人物は、求めに応じるように大きく頷いた。


「お任せください。そのためにやってまいりました」

「おお、そうか! 助かる、女王陛下に感謝を!」

「ええ」


 その瞬間、ローブの中から現れたナイフが初老の男性の首を飛ばす。


 歓喜の表情のまま、初老の男性の首はポーンと飛んでいき、毛足の長い絨毯に落ちた。さぞ夢見心地よく死ねたことだろう。灰褐色のローブの人物は、初老の男性——ヴァイニデス公爵がどれほど悪事に手を染めていたか、よく知っている。サナティカ王国の権益を脅かし、犯罪を助長してでも自らの腹を肥え太らせていた人間だ。膨大な恨みを買い、莫大な憎悪を招き、いずれは身内の誰かに殺されていただろう。


 公爵の見ていた夢はその警告だったかもしれないが、もう意味はない。


 灰褐色のローブの人物は、にっこり笑って物言わぬ公爵の体に宣言した。


「とりあえず、元凶のあなたを殺しましょう。女王陛下のために!」


 一仕事終えて、彼は大変満足だった。






おしまい。

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姉王女曰く、弟王子がマジでやべーやつだった ルーシャオ @aitetsu

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