第5話 濁流の中で聞こえた希望

 ネストラスの両腕が、自分の胸に刺さったナイフを引き抜いたのだ。そのまま、ネストラスは跳ねるように起き上がって、ソファを越えて私を押し倒した。


 すでに、私の首にはナイフの切先が、胸元にはおびただしい血液が突きつけられている。なんとか引き剥がそうと試みるも、私の力では押してもびくともしない。


「大丈夫、レオ姉」

「離しなさい!」

「一緒に死のうね」


 口から、ボタボタと血を吐きながら——ネストラスは笑っていた。心底気味の悪い笑顔に、私は歯を食いしばっていても顔が引きつる。


 それだけではない。


(これも、前にあった! いくつもこんなことがあったの!? 何度、どこへ戻ればいい!? そもそも、戻れるの……!?)


 鋭利なナイフの切先が、私の喉に刺さっていく。私はとにかく、頭を回す。考えろ、どうすればいい。何をすればいい。焦燥感ばかりが先行する。時間の感覚がきわめて緩やかとなっていく。


(いつから、ネストラスは乱心していた? それが分かれば!)


 いつ、どこに行けば。


 体重をかけられて、ナイフがずぶりと私の肉を貫いていった。







 いつかのどこか。


 そうとしか言えない、今の場面は初めてだった。


 真夜中の王城内の教会で、私の足元にトリフィスが倒れている。瞬時に、私の脳裏にこの状況についての情報が過不足なく蘇った。


 王位継承の戴冠式、その前日のことだ。私とトリフィスはネストラスに呼び出されて、教会へやってきた。見せたいものがあると無邪気に弟にせがまれて、寒い中ローブを着込んで、人目を忍んでやってきた。


 いつかのトリフィスを殺したときも、そうやって誘き寄せたのだろう。ネストラスは教会へ入ってくるなり、剣を抜いて私に斬りかかった。


 ところが、トリフィスが私とネストラスの間に割り込み、大きく体の前面に斬りつけられ、倒れた。斬られた肋骨、内臓さえ見えている。もう助からないだろう、と容易に見て取れた。


 崩れ落ち、大理石の床に倒れ伏したトリフィスへ、ネストラスは侮蔑の視線を投げる。


「あーあ、バカなやつ。死ねば終わりじゃないか」


 ネストラスは笑っていた。


「死んでも役に立たないって、どうかしてるね。俺のほうが役に立つよ、レオ姉」


 憎々しい仇が私へと呼びかけたその声が、私の心と記憶に火を着けた。


 私のローブの内側には、何度となくネストラスを殺してきた無二の親友、近衛兵隊長のナイフがある。それがあると理解した瞬間、私はネストラスへ突進し、剣ごと体を思いっきり蹴り飛ばした。二人揃って椅子にぶつかり、燭台を倒し、私は馬乗りになってまっすぐ首へとナイフを突き立てようとする。心臓はダメだ、やはり首を斬らなければ。


 すると、ネストラスは剣を手放し、両手を頭のほうへと挙げた。降参のポーズなど信用できない、だがネストラスは奇妙なことを口にした。


「おっと、待って待って。レオ姉はいつも俺をまっすぐ殺そうとするから、防げなくってさ。いいよ、ちゃんと殺されるから、少し話をしよう」


 余裕ぶったその態度が、私の怒りを逆撫でする。


 しかしだ——至極冷静なもう一人の私が、このチャンスを逃すな、と私へ命じた。


 何せ、私にはまだまだ状況が分かっていない。時間が巻き戻って、何度も殺し殺されて、トリフィスを守るためにどうすればいいのか、まったく見当がついていない。


 少しでも、情報が欲しかった。たとえそれが嘘であろうとも、会話によってその糸口が見つかるならば、込み上げてくるこの男への気持ち悪さを我慢してでも時間を費やす意味がある。


「黙れ。お前はただ私の問いに答えろ」

「了解。何から知りたい?」


 私はネストラスの左耳を斬り落とした。短い悲鳴が上がる。


「う、おぁ……!?」

「答えろ。なぜトリフィスを殺した?」


 それはごくごく根本的な疑問だった。この男にとって、トリフィスに、執拗に何度も殺すほどの価値があっただろうか。あれほど仲のよかった義兄弟となるはずの友人同士だったはずなのに、どうして。ただ王位を簒奪するだけなら、私を殺せばいいのに。


 後から思えば、聞かなければよかったかもしれない。


 平然と、淡々と、ネストラスは問いに答えた。そのせいで——ネストラスにとって、こそが最優先であるという、歪な感情と思考を垣間見てしまった。


「そんなの、レオ姉を取ったからに決まっているじゃないか。あんなのがレオ姉を自分のものにするなんて耐えられないよ。だから」

「だから、?」

「そこまでちゃんと知ってるんだ。毎回隠されて死んだことしか知らないかと思っていたんだけど、それなら今回はちゃんと説明しようか。あの男をどうやって殺したか、聞きたい? その前に、教えてほしいことがあるんだ。ねえレオ姉、本当にあの男と同衾した寝たことがあるの?」


 無邪気な弟の顔をして、その男は、はしたない問いを返した。


 ——違う。私の弟は、そんなことを口にしない。


 ——それに、婚前交渉などなかったと知っているはず。


 ただ、ネストラスはそれを疑ったのだ。


 そのせいでトリフィスは惨殺されたのだと、私はようやく、知ってしまった。


「なかったなら。俺はレオ姉を守り切れたんだ。ああでも、嫌いな男でも犯せば間接的にって思ったけど」


 それ以上は聞きたくなかった。


 無意識のうちに、私は特大の殺意を抱き、ナイフを握る両腕は仇の首を掻き切った。


 ——もういい。もう嫌だ。もう聞きたくない。


 ネストラスは、血に塗れながら、驚愕の表情を浮かべていた。


「なんで、まだ」

「もういい。もういい、お前はもう、弟ではない」


 私は立ち上がって、もうじき死体となる男を蹴り飛ばして、トリフィスの元にふらふらと戻る。


 今回巻き戻されるまでの間に、私は随分とトリフィスに甘えていたようだ。仕事が上手くできない、みんな命令を聞いてくれない、そんなわがままをトリフィスに毎日訴え、慰めてもらっていた。トリフィスは優しくて、戴冠式を前に隣国と何度も行き来するうちに大人になっていて、私に特産の香水をお土産にとくれて……父である国王の崩御に際しても、疲れ切った私を気遣ってくれていた。


 戴冠式のあと、私はこの最愛の人と結婚するはずだったのに。


 横たわるトリフィスの横に膝を突き、腰を下ろして、私は自然と涙する。


「かわいそうなトリフィス。私の婚約者になったばかりに、酷い目に遭って」


 そう、トリフィスが無惨にも殺されるのは、いつもいつも私のせいだった。


 私と婚約などしなければ、トリフィスがこの国に来ることもなかったのに。


 後悔が濁流のように私の心へ押し入り、怒り、悲しみ、哀れみ、もっともっとどす黒い感情が私を支配しかけたそのときだった。


「そんなこと、ないよ」


 私の耳に、確かにトリフィスの声が聞こえたのだ。

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