第4話 悪魔の所業
目の前では、玉座からだらしなく崩れ落ちた死体の首の傷から血が噴き出し、とめどなく流れつづけている。鼓動はとうに失われ、瞳に光はない。
そう、ネストラスは死んだのだ。私の弟、サナティカ王国の王子はここに息絶えた。私がこの手に握るナイフで首をすぱりと切り裂き、それで終わりだった。
私の婚約者を殺した者への復讐。そして、私の継ぐべき玉座を奪おうとした者への必罰。
そうして私は、あっけない幕切れを訝しんだ。
(ここに来るまでに、一年。トリフィスの骨と父上の遺体を奪い返して、家臣団を裏切らせて、味方を王都中に配置して。なのに、これで終わりなの?)
周囲ではネストラスの抱えていた家臣団が投降し、玉座のある大広間から排除されていく。私に付き従ってきた近衛兵たちが、私の周囲を守ってくれている。王城内の安全が確保されるまで、しばしここにいなくてはならないだろう。女王が玉座を放置してはならないのだ。
すると、近衛兵隊長がやってきて、一枚の羊皮紙のかけらを私へ差し出した。
「レオカディア様、こちらを。ネ……いえ、反逆者の遺したもののようです」
「貸しなさい」
もはや、反逆者たるあれの名前を呼ぶことは禁じられつつあった。
私は羊皮紙のかけらを手に取る。それは、一文だけが記されていた。
『今回はどうだったんだろう?』
誰かに宛てたメモなのか、その意味はよく分からない。
(……? どういうこと?)
私が近衛兵隊長へ羊皮紙のかけらについて詳細を求めようとしたところ、床に立っていられないほどの地響きとともに、爆発音が四方八方、あちこちから体へ叩きつけられた。
あまりの凄まじさに、大広間の天井からシャンデリアが次々と落ち、柱が崩壊する。近衛兵隊長が私に覆い被さって守ってくれたが、シャンデリアから外れた蝋燭の火が、大広間の絨毯に燃え移ることまでは防げなかった。
焦げ臭い匂い、黒煙が空間という空間を埋め尽くしていく。咳き込みながら、私は近衛兵隊長に抱え起こされて、ドーム状の天蓋まで落ちかけた大広間の惨状を目の当たりにした。
まだ爆発音は続いている。
「レオカディア様、脱出を。火が迫ってきております! 爆薬が仕掛けられていたのでしょう」
近衛兵隊長の忠告に従い、私は大広間から抜け出す道を探す。しかし、どこもかしこも燃えては爆発音が響き、どこに逃げればいいのかさっぱり分からない。
もはや、これまでなのか。
(……これで終わり? どうして?)
私のすぐそばを、上から砂が落ちてきた。
咄嗟に、私は天井を見上げる。ドーム状の天蓋が、今にも落ちてきそうだった。
逃げなければ。しかし、視界はもう真っ黒で、肌がチリチリと焼ける火の海にいる。
落ちてくる屋根の瓦礫、瓦、ステンドガラス、それらに押し潰されていきながら、私は頭の中で火花が弾けたように、同じ場面が何度も何度も再生されていた。時間がひどくゆっくりと流れ、しかし私は何度も天井に潰されて死んでいく。
そう、私は、何度もこれを経験している。
(思い、出したッ! これは、前にもあった!)
私はネストラスを殺し、殺される。頭の中に流れる場面は十回を超えて、毎回毎回微妙な差異はあれども結末は同じだ。
私は、心の中で叫ぶ。この悲劇は、
(ネストラス!
歯を食いしばり、私は繰り返す痛みと衝撃の中で意識を失った。
☆
柔らかい潮風が、頬を撫でる。
「レオ? どうかした?」
トリフィスの声だ。私はそう認識した瞬間、目を開いた。
トリフィスは殺されたはずだ。いるわけがない、なのに声がした。
そうして、私がその目で見たのは、青髪の青年トリフィスだった。間違いない、何もかもが懐かしいほどに、私を心配して顔を覗き込んでくるその表情だって——。
「え……トリフィス?」
私は周囲を見回す。ここはどこだ? 大広間ではない、いや、ここはテラスだ。私の部屋の階下にある、トリフィスの部屋のテラスだった。
なぜ私はここにいるのだろう、とすっかり呆けていた矢先、今の私はソファに座って本を読んでいた……らしいことが発覚した。隣にはトリフィスがいて、本にしおりを挟むと落とさないようにと私から本を取り上げる。
いつかあった、うららかな午後のひとときだ。
「うん? ああ、うつらうつらしていたと思ったら、やっぱり寝ていたのか。だめだよ、眠るならちゃんとベッドに」
「そうじゃないの! あなた、どうして」
自分が混乱していることを自覚し、私は口をつぐんだ。
今は、トリフィスが生きている。その時点で、私はあの大広間にいたときと同じではない状況なのだ、とやっと理解した。
では、今はなんなのか? ——トリフィスが生きているのなら、過去だ。まだ生きていたとき、ともに午後のひとときを楽しむ余裕のあったころ。
燃え盛る大広間で何度も何度も繰り返した場面、あれはおそらく、
であれば、話は簡単だ。
私はトリフィスを心配させないよう、取り繕って席を立つ。
「ご、ごめんなさい。寝ぼけていたみたい。ちょっと、顔を洗ってくるわ!」
「あ、レオ」
呼び止められ、私は歩を止めた。トリフィスが私を気遣う。
「大丈夫? 体調が悪いなら、そう言ってかまわないよ」
「い、いえ、そうじゃなくて」
「僕はこんなだから頼りないだろうが、それでも……君のことが心配なんだ」
その認識に反論したかったが、私は堪えた。言いたいことをぐっと呑み込む。
だって、一定範囲とはいえ時間が繰り返している、だなんて信じてもらえないだろう。将来あなたは惨たらしく殺されるのだ、なんて口が裂けても言えない。
それに、私はここまで我が身を心配してくれるトリフィスが愛おしくて、何年も会っていない気がしてたまらない。今すぐ抱きしめたい、しかしそれは、たった今脳裏に組み立てられた『企み』を前にしては、できない。
私は、ただこう言うしかなかった。
「ねえ、トリフィス。約束して?」
「何をだい?」
「私はあなたに守られなくても大丈夫、でも私はあなたを守るわ。あなたのプライドが傷ついても、それでも私はあなたに生きていてほしいから」
返事は待たなかった。私は泣きそうになった顔を見られないよう早足で部屋を出て、通りすがった侍女に尋ねる。
「ネストラスはどこ?」
「先ほど、レオカディア様のお部屋の前におられましたよ」
「そう。ありがとう」
私は、記憶にある場所へ向かう。そこには、握り慣れた——復讐のために一年間訓練で使用した大振りのナイフがある。元は近衛兵隊長の持ち物で、そこに保管していたと聞いていた。
取って返すように、私は自室へ。近くには誰もおらず、ネストラスの姿もない。
であれば、と私は自室の扉前で耳をそばだてる。
荒い息遣いとともに、私の名が聞こえた。
「レオ姉」
私への呼びかけを、中にいる
それがおぞましくて、背筋が凍るようで、私はカッとなった。
「ネストラス! 入るわよ! みっともない格好をしているのなら、今三つ数えるから整えなさい! さん……に……いち!」
中で騒音が聞こえ、三つ数えて、それから私は自室へと乗り込む。
みっともないものなんて見たくない。それ以上に、私の中の弟はもういなくなったのだと寂寥感に苛まれた。
部屋に入り、ソファの向こうから、ネストラスの声がした。
「や、やあ、レオ姉。そんなに怒らなくたっていいじゃないか」
ソファの影にしゃがんでいるネストラスは驚いて、気が動転しているようだった。
私は手加減しない。足早にソファを跨いで、そこにいる男の胸目掛けて逆手で握ったナイフを振り下ろす。
なんのためらいもない。そうしなくては、未来のトリフィスが、私の愛する人が、尊厳さえも奪われて殺されるのだから。
私の持っていたナイフは、ネストラスの胸に深々と刺さった。私は何も言わない、言ったところでどうせネストラスはすぐ死体になる。白いシャツに黒々とした血が滲み出て、どんどん溢れていく。
「な……んで……?」
微かな声を、私は聞かなかったことにした。聞いてしまえば、それが弟の今際の声だったと思ってしまう。そうではない、あれは仇だ。やがて来たる悪魔の所業を実行させないために、私がやらなくてはならなかった。
だが、甘かった。
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