第6話 婚約を破棄すれば、と思っていた

 誰かが、レオ姉、と私を呼んでいた。


 すると、別の誰かが、レオ、と優しく私の名を呼んだ。


 もう何百回、私はそのやりとりを耳にしただろう。


 私は目を見開き、起き上がる。


「あれ、レオ姉? びっくりした、すぐ起きるなんて」


 まだあどけなく、少年っぽさを残した弟ネストラスの後ろから、青髪の青年トリフィスがやってきて謝った。


「レオ、おはよう。ごめん、無断で部屋に入ってしまって」

「トリフィス」


 いつだって、私はトリフィスのことが好きだ。だが、それだけでは守れない。


 もう殺されてほしくないからだ。


 私は思案の末に、こう切り出した。


「婚約を、破棄してもらえないかしら」


 案の定、二人は度肝を抜かれたらしく、しっかり聞こえていただろうに聞き直してきた。


「え……ど、どういうこと?」

「言ったとおりよ」

「待って待って、レオ姉、いきなり何を言い出すんだよ!」


 待たない。私はネストラスへ指示を出す。


「ネストラス、今すぐ婚約契約の破棄を行うから、父上……国王陛下へお知らせして。早く!」

「えええ!? 何で!?」

「すぐ追いつくから! 行きなさい!」


 私は無理矢理、ネストラスを自室から追い出した。


 ここから先の話は、聞かれたくなかったのだ。


 扉を閉めて、私は少し離れたところにいるであろうトリフィスへ、顔を向けられずにいた。だが、言わなくてはならない。私はあなたのことを愛しているのだと、伝えなくては。あなたのことが好きだからこそ、婚約という死の遠因を取り除かなくては。


「トリフィス、約束してほしいことがあるの。私はあなたに守られなくても大丈夫」


 いつか言った、その次の言葉を。不器用な私は、直接的に好きだなんて一度も言えなかった。


 ところがだ、その次の言葉は私の口からではなく、まったく想定外のトリフィスの口から躍り出たのだ。


「でも私はあなたを守るわ、かい?」


 私は思わず、「えっ!?」と声が出た。


 まさか、先んじて、そらんじられるとは。


 振り返るまでもなく、トリフィスは私の背後まで来ていた。そのまま手を伸ばし、扉を押し開ける。


「行こうか」


 鈍い音を立てて、扉は外へ開いていく。トリフィスが私を先導するように、一歩を踏み出した。


 こんなことが、今まであっただろうか。思い出そうにも、私は差し伸べられた手を取るか否かのほうが大事だった。果たしてトリフィスの手を取っていいのか、その選択が彼を殺さないだろうか……踏ん切りがつかない。


「ど、どこへ?」

「いい加減、殺されすぎてうんざりなんだ。元凶を叩きに行こう。君のおかげで、監視がいなくなったからね」

(監視……ネストラスのこと? ネストラスがあなたを殺したのに)


 トリフィスの足取りは、確かだった。どこへ向かえばいいのか、しかと把握している。


 トリフィスは、『元凶』とやらがそこにいると知っているようだ。私は、トリフィスの手を取って、初めて共通の敵へともに立ち向かっていくらしかった。


 ならば、怖くはない。行動すべきなら、私はそうする。


 トリフィスの向かう先には、王城の奥へ続く廊下があった。私にとっては滅多に足を運ばない場所であり、先ほどネストラスを送り出した場所でもある。すなわち、父たるサナティカ国王の居室だった。


 長らく病で伏せている国王は、主治医によれば面会できず、してもまともな会話は望めないという。国王の病状はひどく、私には目の毒だから、と皆が遠ざけていたのだ。


 一方で、ネストラスは時折国王に呼ばれてか、はたまた何か用事があったのか、訪れていたようだった。幼いころから父親にベッタリと甘えてばかりだったせいなのか、と私は考えていたが、どうやら違うのだろう。


 廊下に足を踏み入れる直前、見覚えのある近衛兵隊長が姿を現した。


「レオカディア様、それにトリフィス様。先ほど、ネストラス様が陛下の居室へ向かわれたようですが……」


 それは、と私が事情を説明するより先に、トリフィスがはっきりと、なんらかの暗号を告げた。


「近衛兵隊長、『遊びは終わり』だ」


 初めての場面、初めて聞く言葉に戸惑う私を置いて、近衛兵隊長はトリフィスの暗号の意味を理解し、腰に下げたナイフを差し出してきた。私にとってはかけがえのない、半身ともいうべきそれは、トリフィスの手に渡る。


「ここからは迅速に行動願います。私はここで食い止めますので、どうか」

「ああ、それで十分だ。助かるよ」

「いえ……、このくらいは」


 近衛兵隊長は申し訳なさそうに頭を下げ、それから踵を返した。これから何が起きるかを把握して、国王の居室に続く廊下の入り口を塞いでいてくれるようだ。


 迷いなく進むトリフィスとともに、私は『元凶』とやらのもとへ近づいていく。だが、いくつかトリフィスへ聞いておかなければならないことがあった。


 トリフィスもまた、時間を巻き戻っているのではないだろうか。何度も何度も殺されて、巻き戻って、また殺されてを繰り返してきたのではないか。


 なのに、トリフィスが真っ直ぐに先を見据える眼差しは、絶望に打ちひしがれるのではなく、見たこともないほどに燃え上がっていた。


「トリフィス、あなたも記憶が?」


 それだけの問いで、トリフィスは私が何を言いたいか察してくれた。


「そうだよ。ただ、毎回巻き戻っても完全に残っているわけじゃなくて、断片的にね。それでも、残された短い時間でに悟られないように周囲へ助けを求めて、仲間を増やしてきた」

「彼って? ネストラスのことじゃないのね?」

「ネスは……実行犯であり、の協力者なんだ」


 もはや、私はそのの正体が分かってしまっていた。


 この先には——ネストラスのほか、そいつしかいないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る