第3話 ドッペルゲンガー
前述の話の中で、夢に出てきたことがある話は、
「ジキルとハイド」
という話のようなものだった。
話をすべてを分かっているわけではないが、夢を見た発想となったものに、
「もう一人の自分」
という発想であった。
この発想は、いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
と呼ばれるもので、
「もう一人の自分というのが、この世に存在していて、その人物を見ると、近い将来に死んでしまう」
という言い伝えのある話である。
これは、かつての有名人、著名人が見たということで、実際に死んでしまったという事実があることから、迷信だと思いながらも信じている人が多いのも事実である。
「この世には、自分とよく似た人が三人はいる」
と言われるが、ドッペルゲンガーの場合は、似ている人物ではなく、本当の自分だということである。
確かに、よく似た人は実際にいるだろうが、同じ時刻の同じ範囲内に、
「自分が存在している」
というのは、タイムパラドックスというものに違反しているということであり、死んでしまうというのは、
「タイムパラドックス」
というものに、違反したからだという考えであったり、
そもそも、ドッペルゲンガーなどというものは存在せず、その人が精神疾患であったりすることから、
「見えないものが見える」
ということで、
「病気なのだから仕方がない」
ということで、死んだのは、
「病気によるものだ」
という考え方である、
この考え方が、実は一番しっくりくるのではないだろうか。
というのも、
「死ぬということを、潜在意識の中で考えていると、見えないものが見えてくる」
と考え、
「見えないものが見えてしまうと、死ななければいけない」
という迷信めいたものがあれば、死にたくなくとも、死に近づいてしまうという発想も成り立つのだ。
本人は、死にたくないという意識を持っているのかも知れないが、
「死んでしまうということがどういうことなのか?」
と考えると、
「覗いてみたい」
という意識が、潜在意識の中に芽生えるのかも知れない。
それは、
「夢の中であれば、空を飛ぶこともできるのではないか?」
と思ったとしても、
「夢だといっても、空を飛ぶことはできない」
という発想から、
「矛盾した思いが頭の中を錯乱することで、夢というものと、現実との間が、同じような発想になり、次第に、夢と現実の結界がマヒしてくるということになり、それが、もう一人の自分というドッペルゲンガーを見せるのではないか?」
ということも考えられなくもない。
つまりは、ドッペルゲンガーの基本は、
「もう一人の自分」
なのだ。
それが、
「ジキルとハイドなのか?」
それとも、
「オオカミ男のように、まったく違うものに変身するのか?」
それとも、
「フランケンシュタインのように、新たに創造する」
ということなのか? 夢はそのどれかを見せるのであった。
「毎回夢は違っている」
それが、
「ドッペルゲンガーの夢」
だったのだ。
「ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分だ」
というではないか?
だとすれば、
「似ている、似ていない」
というのは関係がなく、
「もう一人の自分」
ということであれば、
「ジキルとハイド」
というのも、
「ドッペルゲンガーではないか?」
といえるのではないか?
確かに、ジキルとハイドというのは、どちらも自分であるが、二重人格の双極ということであれば、
「ジキル博士と、ハイド氏の両方を一緒に見れば、死ぬことになる」
と言えるだろう、
しかし、その両方を同時に見ることはできない。
まるで、自分というものが、
「自分を見ようとすると、鏡のような、何かの媒体を使わなければ見ることができない」
ということになるのだ。
だから、まったく似ていないというのも、ある意味、
「それが、もう一人の自分だ」
というのを、証明しないということが、自分の命を危うくしない方法なのかも知れない。
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
というのは、
「もう一人の自分を見ると死ぬ」
ということと、同意語なのだろうか?
「ジキルとハイド」
という話を見ていると、
「自分で作ってしまったハイド氏というものを、自分の責任ということで、何とかして葬る」
という風に見えるが、
「実は、ジキル博士は、自分の中にハイド氏がいるということに気づき、いずれ表に出てきて、結局自分を苦しめることになるので、誰にも知られないうちにmひそかに葬り去るということにして、自殺をもくろんでいた」
という考えも浮かんでくる。
あるいは、
「ハイド氏の時に、すべてのワルさが行われたということにして、ジキル博士の名誉を傷つけないように、すべてをハイド氏にかぶってもらうということで、わざと作り出した、もう一人の自分」
というのが、このお話の根幹ではないか?
とも考えられるのであった。
本当は、主人公であるジキル博士は、自分がハイド氏を作り出してしまったことで、
「作ったことが悪い」
ということになっているが、本当は、
「本性は、ハイド氏ではないか?」
という考えが頭をもたげるのだが、何しろ、
「もう一人の自分が、表に出てくることはない」
という、自分の勝手な都合で、話を作り、それをまるで、ドッペルゲンガーの話になぞらえたのだと考えると、他の人も同じように、自分の責任を、ドッペルゲンガーという架空の存在にかぶせることで、証拠隠滅のために、死ぬことになるのではないか?」
という考えがあるのだとすれば、実に面白い考えだといえるのではないだろうか?
かすみは、最近、
「よく夢を見る」
と感じるようになっていた。
見る夢というのは、どういう夢なのかというと、怖い夢が多かったりする。
その怖い夢というのが、
「もう一人の自分を見る」
という夢であった。
最初の頃は、最初から最後まで、
「見るからに、もう一人の自分」
であったが、最近見る夢は、
「最初こそ自分ではない、少し不気味な人が登場し、次第にその人が、もう一人の自分、つまり、自分にどんどん似てくる」
という夢であった。
しかも、それが、なぜか、
「満月の夜」
だったのだ、
満月の夜:
というと、完全に、
「オオカミ男の話」
とかぶっているわけである。
オオカミ男」
というと、普通の男性が、満月を見ると、急に苦しみだして、顔を抑えているのだ。
一緒にいた自分が気になって。
「大丈夫ですか?」
と声をかけると、そこには、オオカミに変身した男がいる。
というようなストーリーの場合もあれば、
「顔を抑えようとしても、抑えきれずに、オオカミに変身するシーンがリアルに見られる」
というシチュエーションの時もある。
ただ、その恐ろしい状態が、最初から分かっていたと思うのだ。
ただ、顔を抑えているか、あるいは、リアルな変身シーンが見れるのか?
という違いだけであった。
ただ、それぞれのパターンに、規則があるような気がする。
「いきなり顔を抑えて、変身シーンを見せなかったパターンの時は、以前にも見たことがある」
というような気がすると感じるのだが、後者の、
「リアルに変身シーンというのは、初めて見る」
という感覚になるのだった。
ただ、オオカミ男のシーンを、以前に夢で見たことがあるという感覚は、最初からあったのだ。
それを感じたということを、後者では、途中で忘れてしまうのか、本当に覚えていないと言っても、無理もないのだった。
そんな時は、目が覚めるにしたがって、記憶から消えていく感じになるのだが、なぜか、完全に目が覚めた時は、忘れてしまったはずなのに、覚えているのだった。
というのは、
「忘れてしまった」
という感覚が、
「錯覚ではないだろうか?」
と感じさせるのだった。
というのは、
「夢を見たということが、自分の中で、交錯している」
かのように感じ、それこそ、
「夢を見ているという夢を見た」
という、まるで、
「マトリョシカ人形」
のような感じである。
以前、誰かがギャグのつもりか笑い話のつもりで、
「不眠症の夢を見たというのだが、それは、眠れないという夢を見ていた」
というオチだったという話だったのだ。
笑い話であるが、ただの笑い話にできないのは、
「同じ夢を二度と見ることができない」
ということだからであった。
「もう一人の自分」
という夢であるが、
「まったく同じ自分の夢」
というパターンの夢が一つ。
この時は、自分が見たその夢は、
「なぜ、最初から、その人が、もう一人の自分なのかということが分かったのか?」
ということであった。
自分そっくりな人間がいたとして、普段から自分の姿を確認することは、そんなになかった。しかも、その頃、つまりは、
「もう一人の自分:
という意識の夢を、一番最初に見たのは、まだ、幼児の頃だったように思う。
夢というものは、
「昔見た気がするんだけどな」
という程度の記憶であれば、それがいつのことだったのか、ほとんど覚えていあに場合が多い。
実際に、数年前だった場合もあれば、昨日の夢だった場合もある。それも分かる時と分からない時があるのに、その時は、
「最初に見たのが、幼児の時だった」
ということを覚えていた。
しかも、その幼児の頃というのは、本当に小さかった頃に見たというだけの記憶ではなく、
「その頃によく見た」
という思いがあったのだ。
毎日ではなかっただろうが、
「よく見た覚えがある」
という思いだけで、十分だったのだ。
そして、そんな夢をいつの間にか見なくなると、見ていたという意識が薄れていったのだろう。
しかし、忘れていた記憶が思い出されることが起こった。
それは、数年後に、また見た時のことであり、最初は、
「前にも見た記憶がある」
という程度のものであったが、そのうちに、
「数年前、そう、まだ小さかった頃に見ていた夢だわ」
ということを思い出した。
どうして思い出せたのかというと、
「私が、鏡を気にするようになったのは、中学生になってからくらいだったわ」
と思ったからだ。
かすみは、中学時代まで、身だしなみというものには、無頓着だった。
「本当は、男として生まれるはずじゃなかったのかしら?」
と感じていたほどで、その根拠は、親にあった。
両親は、
「男の子がほしい」
と思っていたようで、
何といっても、
「家の跡取り」
というものを、特に母親は感じていたようだった。
父親は普通の家庭に育ったのだが、母親は、昔からの、
「華族」
というところの家柄だったようだ。
華族というのは、戦後に没落することになるので、母親の親の世代は、
「かなり惨めな思い」
というのをしたようだった。
だから、祖父、祖母の世代は、ほとんど、あきらめの境地だったようで、母親も、あきらめの境地を感じさせるような教育を受けていたという。
しかし、母親は、性格的に、
「天邪鬼」
なところがあり、
「親が、華族へのあきらめの境地があるのだったら、せめて気持ちくらいは、華族様という感じでいよう」
と思っていたのだった。
だから、母親は、かすみを、
「プライドが高い」
という子供に育てた。
実際には、表にその思いを出すことはなかったが、中学時代から、思春期になって、女の子を意識するようになると、そんな中で、
「女の子として、負けたくない」
という気持ちが少しずつ芽生えてきたということで、鏡を見たりするようになったのだが、それまでは、男の子と同じような感覚が強かったので、鏡を見るなど、ほとんどなかった。
だから、鏡を見なかった頃は、
「自分というものを意識することもなく、自分がどんな顔をしているのか?」
ということは意識もしなかった。
だから、
「もう一人の自分」
という意識もなかったといってもいい。
そんな自分が、
「もう一人の自分」
というのを意識していたのだから、
「何かおかしい」
という、不可思議な感覚になってきたのが分かったというものである。
そんなことを考えていると、
「子供の頃に見たんだ」
ということが、帰納法的、いや、減算法という感覚で分かったような気がしたのだ。
「見たこともないはずなのに、どうして、それが、もう一人の自分だと感じたのか?」
子供の頃のことだったので、意識としては、分かる気がするが、きっと、自分でも気づかなかったが、ナルシストだったのではないか?
と思ったのだ。
ナルシストというのが、どういうことなのか、言葉だけ知っていたのだが、それを中学時代のかすみは、
「プライドのようなものだ」
と思っていた。
それは、
「当たらずとも遠からじ」
であり、
「ナルシストが、自己愛の強い感覚だ」
と理解するようになると、自分の中にナルシストの存在を感じたのは、それまで見ていた母親の中の、
「あきらめの境地」
からだった。
それまで母親に対して、
「どこか、納得のいかないところがある」
と思っていたが、それが、どこなのか、正直分からなかった。
というのも、
「何か分からないが、イライラくるところがある」
と思ったことだった。
何か、煮え切らないところがあり、子供の自分に対しても、強くは言っているのだが、根本的に、説得力がない。
そこに、
「自分に対しての自信がない」
ということなのだと感じたのは、まさに、そんな意識からだったのだろう。
それを考えてみると、
「人間というものが、どういう意識から、自分に自信をなくすということになるのかということを考えてみたが、さすがに中学生では分からなかった」
しかし、親の家系が、
「華族の家系だ」
ということに気づいた時、母親は、
「まるでうろこが落ちたかのように、あっという間にその理屈が分かったのだ」
という。
「そっか、だから、すぐにあきらめるんだ」
と感じると、
「自分の子供には、プライドを持った形の姜郁をしよう」
と思ったようなのだが、大人になると、その思いが次第に薄れていくのか、ほとんど、子供の教育を厳しくするということはなかった。
ただ、子供、つまり。かすみが、あまりにもいうことを聞かない時は、怒りをあらわにし、そんな時は、
「華族の家系なんだから」
と思わず口にするようになっていたのだ。
最初こそ母親は、その言葉を発した時、
「いうんじゃなかった」
というそぶりを見せているようだが、その後には、
「口に出したものはしょうがない」
と思うようになり、その思い出が、あることで、思春期になった自分が、女の子らしくなることに、最初はジレンマのようなものがあったが、
「女性らしくすることで、華族のプライドなど、消し去るくらいになればいいんだ」
と思うようになっていた。
だから、それまで、ほとんど見ることもなかった鏡をよく見るようになり、鏡の中で、微笑んでいる自分を、
「もう一人の自分だ」
と思うようになった。
なぜなら、鏡を見ながら、
「私は鏡に向かってほほ笑むなんてことはないからだ」」」
と感じたからだった。
「それが、プライドと、自分の中にある天邪鬼との間のジレンマなのだ」
と、かすみは感じたが、その感情が、
「マイナスとマイナスを掛け合わせて、プラウになった」
という気持ちのようなものだと感じていたのだった。
そんな夢を、子供の頃に見ていたというのを、中学時代に思い出した。
というのも、
「自分が夢を見ることにパターンがある」
と感じるようになったのは、ちょうど中学の時で、
「一番怖い夢がどういう夢なのか?」
と感じるようになったのも、ちょうどその頃だったのだ。
中学時代に、
「思春期というものがある」
というのを知ったのは、自分が思春期に突入してからだった。
言葉では聞いたことがあったが、これがまさか、思春期だと思わなかったという思いだったのだ。
それは、
「初めて自分の顔を鏡で見た」
という時に感じた。
「これが私なの?」
という思いに似ていた。
もちろん、それまで鏡を見たことがなかったなどということはなかった。
子供の頃に、何度も見たはずなのに、その頃は別に何とも思わなかった。思春期になると、その思わなかったということが不思議で仕方がないという思いになっていたのだった。
そこに、
「思春期というものの存在がある」
と感じたのだった。
これは、思春期というものを感じるという他の人との感覚とは若干違うものだった。そのことは自分でも分かっていたが、どこか、理屈に合わないところがあったが、それらすべてをひっくるめて、
「思春期というのは、こういうものなのだ」
と思い込むようになったといってもいいだろう。
中学時代に、
「もう一人の自分」
を感じるきっかけとなったのも、
「すべてが、思春期なるがゆえ」
と考えるようになったからであり、
「目の前に見えている自分の顔が、もう一人の自分なんだ」
と思えば思うほど、
「もう一人の自分は、本当の自分ではない」
と感じるようになった。
その頃、友達から聞かされた。
「ドッペルゲンガーの話とが交錯し、余計に、
「本当の自分ではない」
と思うようになったのだった。
「ドッペルゲンガーの話」
をしたその友達も、どうやら又聞きだったようで、ハッキリと意識しているわけではないのに、強引に説明しようとしてくるので、その説得力には欠けていた。
なぜかというと、すべてが、
「まるで、マスゴミがよくやる、切り取りのようなもの」
だったのだ。
切り取りというと、それぞれに、主要なところだけを覚えているだけで、その記憶をつなぎ合わせるように説得の材料に使うのだから、そもそも、辻褄が合っているわけではないということであった。
そんな説得力のなさというものを考えてみると、
「ドッペルゲンガー」
というものを、いかに理解しようとしても、できるわけはない
そんなことを考えるようになったのだが、その理由としては、
「次第に、もう一人の自分というのを見ることができるのは、夢の中でしかない」
ということに気づくようになったからだということであった。
というのは、
「もう一人の自分」
というものが、
「鏡のような媒体がなければ見ることができない」
という当たり前のことに気づいた時。その媒体というのが、
「夢ではないか?」
と感じるようになるまでに、そんなに時間が掛かるわけではなかったのだ。
夢というものを見ていると、
「実に都合よくできているくせに、あくまでも、万能というわけではなく、限界というものがあることに変わりはない」
と考えるようになった。
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