第2話 二重人格性

 確かに女性は、よく、

「我慢強い」

 と言われる。

 それは、男性との違いが歴然としているからだ。

 もちろん、

「出産というものが、女性だけにしかできない」

 ということだ。

 これは、人間に限ったことで、他の動物にも同じような特性があっても、あくまでも、

「人間ということで」

 ということの話になる。

 力という意味では、男性の方が強い。中には、女性の中にも強い人はいるが、基本的にという意味で、男性の方が平均して力は強い。

 しかし、その分、我慢強さは女性の方である。。それはやはり、

「出産に耐えられるだけの力を持っている」

 ということで、我慢強さは、

「さすがに女性にはかなわない」

 と言われている。

 個人差がある中で、基本的に、

「女性は出産に耐えられリル身体を持っているが、男性は耐えられないのではないか?」

 と言われている。

 もちろん、実際に、

「賛成が出産した」

 などという記録は、見たり聞いたりしたことなどないので、完全な憶測でしかない。

 身体の構造がまったく違っていることで、性格が違うのも当たり前だというものである。

 そういう意味で、

「女性が我慢強くできている」

 というのは、当たり前のことで、それが、男性とのタイミングの違いをし召しているのも、分からなくもない。

 これは、男性にでもわかることなのかも知れないが、

「たとえば、眠っている時に、足がつる」

 などということがあるだろう。

 そんな時、なるべく、まわりの人に悟られないように、苦しむという人もいるだろう。

 苦しいのを、他人に知られて、下手に心配されることを嫌がるということである。

 それは、痛みよりも、まわりが心配することで、気を遣わなければいけないという思いからではないだろうか?

 まわりで見ている方が、苦しんでいる人が感じている痛みを、さらに増幅して感じているということであろう。

 痛みを耐えながら、そこまで考える余裕などできるわけはないと思うだろうに、痛みを感じた本人は、とっさに、まわりが気を遣うということが、自分に対していかに、痛みを増幅させるかということを、耐えながら感じているのだろう。

 つまり、

「痛みを感じている本人にとって、誰がその痛みをわかるものか」

 ということを理解しているくせに、それなのに、人の心配をするのは、実際にその痛みをわかっているのだが、人が苦しんでいるのを見ると。

「もっと苦しかったんじゃなかったか?」

 ということで、その痛みの差を、自分が感じているかのように思うことで、余計に痛みが増幅すると考えたのだ。

 しかし、実際に自分が痛いわけではない。

 だから、

「自分が知らない痛みを感じることはできない」

 という当たり前のことに気づくのだった。

 どれだけの痛みというものが、自分に襲ってくるのか?

 それをまったくわかっていないことが、人の痛みというものをができないということを思い知ることで、それが、

「自分が我慢しなければいけないという理由なんだ」

 と思うのだった。

 我慢強さというものが、男女で違うというのは、あくまでも、おおざっぱなことであり、基本的に、

「一人一人、違って当たり前なんだ」

 という当たり前のことに気づくのだった。

 だが、どうしても、基本的に、男女の違いということで片付けられる。それは、やはり、

「出産は女性にしかできない」

 ということからだろう。

 しかも、男女で、性欲に対しての身体の反応はまったく違っている。

 女性の場合は、

「何度でも、絶頂を迎えることができる」

 と言われるが、男性の場合は、

「一度絶頂に達すれば、そこで一度冷静になり、我に返ったかのようになる」

 というものである。

 それを、

「賢者モード」

 という言葉で表されるのだが、これが、男女の間で分かっていないと、大きな勘違いになるというものだ。

 昔のサスペンスドラマなどで、

「男が女を」

 あるいは、

「女が男から」

 何かの情報を得ようとして、

「色仕掛け」

 というものを使ったりした場合、女は、絶頂を迎えると、男性に抱き着きたくあるのらしいが、男性の場合は、身体が敏感になりすぎて、汗を掻いたりした身体に、女性が身体を押し付けてきたりすると、感じすぎてしまうからか、だるさに繋がってしまうというのだ。

 だから、男性は、女性に抱き着かれても、抱き返すようなことをせずに、女性の態度や感情にお構いなく、まずは、最初からベッドわきに置いているタバコに火をつける。

 などというシーンが多くみられることだろう。

 今は、昔に比べて、

「喫煙場所」

 というものが、圧倒的に減ってしまい、

「児童喫煙防止法」

 というものが設立されてから、基本的に、

「室内で吸えるのは、自分の家くらいだ」

 と言われる時代になったのだ。

 中には、

「喫煙ルーム」

 というものがあるところもあるのだが、逆に、そうでなければ、

「絶対に吸ってはいけない」

 ということになるのだった。

 だから、昔のドラマのように、

「ラブホテルのベッドわきでタバコを吸うということは、ほとんどできないので、そんなシーンのドラマを見ると、時代錯誤を感じさせられる」

 ということになるだろう。

 何しろ、1980年代後半くらいから、

「嫌煙権」

 というものが認められるようになり、どんどん、タバコが吸える場所が減ってきた。

 以前は、

「禁煙ルーム」

 であったり、

「禁煙車両」

 などといっていたが、そのうちに、

「喫煙車両」

 という形になり、今では、

「電車の客席では、全席禁煙」

 ということになったのだ。

 だから、今の人が、

「電車の座席の横に、昔は灰皿があった」

 などというと、

「えー」

 といって、驚くくらいである。

 昔は、教員室で、先生がタバコを吸っていたのだ、それなのに、生徒が隠れてタバコを吸っていると、生徒は処分を受けるのだ。

 昔だったら、

「そんなことは当たり前じゃないか?」

 と思われたであろうが、もし、それを今の人が聞くと、

「いやいや、先生も吸っているんだから、生徒に言える資格はないよな」

 ということになるだろう。

 それはあくまでも、

「時代の流れのために、見たこともない光景に、想像することで、その想像が、理屈によってもたらされることなので、

「理屈の上だけで考えると、おかしな理屈になる」

 ということなのだろう。

 しかし、その理屈はあくまでも、

「大人の理屈であり、その大人は、途中のどんどん変わってきた様子を見ていて、知っているのである」

 それを考えると、

「タバコの喫煙」

 というものを、

「大人の理屈から見るか?」

 あるいは、

「子供の理屈から見るか?」

 ということで、まったく違ってくるのであった。

「そこには、すべての人を納得させようとする配慮による、時系列があり、そのために、

猶予期間というものが存在しているのも、無理もないことだ」

 といえるのではないだろうか?

 タバコというものを、今の時代は、

「罪悪」

 という発想が、結構な人にあるだろう。

 特に、

「マナーの悪さ」

 というのが目立つからだ、

 確かに、喫煙者からすれば、

「タバコを吸うのも、後ろめたい世の中になった」

 ということであろうが、それは、嫌煙権というものが、言われ始めた頃であれば、

「それも仕方のないことだ」

 といえるだろう。

 しかし、時間が経つにつれて、

「どんどん、タバコを吸える場所がなくなっていった」

 ということで、

「最初から、タバコを吸わなければいいのに」

 と、

「タバコを吸わない人」

 あるいは、

「タバコをやめた」

 という人からみれば、

「それ以外にないだろう」

 と思うことだろう。

 タバコをやめた人の話では、

「やめることができてよかった」

 といっている人がたくさんいる。

「実際に、今のようにタバコを吸う人が罪悪だという風にみられる」

 というようになってからでも、吸い続けている人は、ある意味、

「ブレない」

 という意味で、精神力の強さがみられるが、そういう人は、きちんとマナーを守るだろう。

 つまり

「キチンと決まった喫煙所以外では吸わない」

 というような、最低限のモラルを守っているだろう、

 しかし、

「ただ、やめられない」

 というブレないというわけではなく、ただ、

「意志が弱い」

 という連中は、やめられないことを、社会のせいであったり、他人のせいということにして、

「タバコを吸って何が悪い」

 とばかりに、公園で吸ったり、路上喫煙をするなどの暴挙に及んでいるのだ、

「違反をしているのだから、取り締まればいいのに」

 と思っている人は、正直、

「違反して吸っている人以外の、すべての人間であろう」

 つまりは、

「違反喫煙者が、1割いたとすれば、9割は、そんな連中を見て、不快に思っている」

 ということである。

 もっといえば、

「苦労してやめた人が一番怒っているのかも知れない」

 ともいえるが、それよりも、

「マナーを守って、喫煙している人も我慢のできないことであろう」

 というのは、

「あんな、マナーを守らない連中がいるせいで、喫煙者全員が、マナーを守っていないと思われるのだ」

 ということで、一番迷惑をこうむっているのは、

「同じ喫煙者だ」

 ということである、

 それを考えると、

「マナーを守っていない連中は、まさかと思うが、喫煙者全員が、自分の味方だなどと本気で思っているのだろうか?」

 ということである。

 本来であれば味方になるべき相手を敵に回して。しかも、

「迷惑だ」

 と思われていることに、気づきもしない。

「これほど、愚かで、情けないということはないのではないか?」

 といえるだろう。

 このように、同じ枠に嵌っているとしても、そこには、一通りの人がいるわけではなく、タバコのように、

「マナーというものを境にして結界がある」

 ということは、往々にしてあるだろう。

 まわりから見ると、

「一つの大きな輪」

 でしかないのだが、中に入ると、それぞれの立場で、わだかまりがあったりする。

 だから、その片方が、何か輪の外の人に迷惑をかけるということになると、

「輪の中全体が、偏見の目で見られる」

 ということを、

「マナーを守っている人には、その理屈は分かっていて、マナを守らずに、自分の立場しか主張しないようなやつは、味方すら、敵に回すということを、まったく分かっていないということになるのだろう」

 そんなことを考えていると、思い出す言葉に、

「長所と短所は紙一重」

 ということである。

 それともう一つ思い出すものとして、

「ジキルとハイド」

 という、二重人格性のある、物語であった。

「ジキルとハイド」

 という話は、ある意味分かりやすいといってもいいだろう。

 二重人格の人間」

 というのは、結構いるもので、ただ、この、

「ジキルとハイド」

 というような二重人格性は、実にまれなことであろう。

「普通の人の二重人格性」

 というと、その性格がまったく正反対であったとしても、意外とその感覚があるというものである、

「普段はおとなしいんだけど、急にスイッチが入って、人間が変わることがある」

 というのが、

「普通の二重人格性」

 というものではないだろうか?

 よく言われるのが、

「ハンドルを握ると人間が変わる」

 という人である。

 普段は冷静沈着で、あまり怒りをあらわにすることはないのだが、車に乗ると、イライラしてきて、道路交通法に違反しない程度であれば、

「何をやっても、かまわない」

 というくらいに考えている人もいるだろう。

 そんな二重人格性をいかに考えるかということであるが、

「ジキルとハイド」

 の場合は、お互いに、それぞれの人格を有したものであり、

「それぞれが単独で人格として存在できる」

 といえるだろう。

 だから、

「片方が表に出ている時は、片方は眠っている。そして、片方が出てくると、それまで表にいた人格は、裏に入ってしまう」

 ということだ、

 この優位性は、必ず存在するというもので、ただし、普段から表に出ている人格が、本当のその人の人格なのかというと、

「ハッキリと、そうだとはいえない」

 ということである。

「ジキルとハイド」

 という物語の場合は、

「ジキル博士は、自分の中にもう一人がいることは分かっていたが、どんな人間なのかということは分かっていなかったのではないか?」

 ただし、ジキル博士の考え方としては、

「今表に出ていて考えている自分にないものを持っている人格」

 ということで、それを、

「いい性格ではないか?」

 と考えたのかも知れない。

 いや、自分にないことで、それ以上上を目指したいと思っているはずなのに、上にいけないことでのいらだちから、

「もう一人の人格を、薬で表に出そう」

 と考えたのだろう。

 この発想は、

「フランケンシュタイン」

 と似ているのかも知れない。

「自分にはないものを作ろうとして、怪物を作ってしまった」

 というのが、フランケンシュタインの話。

「自分の中にあり、潜在している性格を表に出すことで、自分のもう一つの性格を覚醒させて、自分の超えられないハードルを越える」

 という形を考えた、

「ジキルとハイド」

 の話。

「ジキルとハイド」

 という話は、明らかに二重人格性の話であるが、

「フランケンシュタイン」

 という話は、一見、二重人格ではないと思える。

 しかし、

「自分が作ったロボットや理想の人間の、理想の部分というのは、あくまでも、自分という中にある性格であり、結界があったとしても、その先にあるものは、結局。自分でしかない」

 ということになるであろう。

 フランケンシュタインという話には、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものがあり、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」

 ということでの戒めがあるのだが

「ジキルとハイド」

 という話には、それに携わるような、症候群というのがあるのだろうか?

 少なくとも、聞いたことがないような気がする、

 この二つの話において、明らかな違いというのは、

「フランケンシュタインの話は、新たな人格の生成ということであり、ジキルとハイドの話は、自分の性格の裏側ということで、潜在しているものを、表に引き出す」

 ということであった。

 フランケンシュタイン症候群という考え方が存在し、ジキルとハイドのような話が、現実味を帯びるような症候群がないということは、

「ジキルとハイド」

 のような話はあくまでも、

「架空のお話で、実際にはありえない」

 といえるのではないだろうか?

 ということであった。

 これは、逆にいえば、

「フランケンシュタインのように、ロボット開発であったり、サイボーグという発想は、これから実際に、人間によって開発されていくことだ」

 ということで、逆に、

「ジキルとハイド」

 というような話は、

「人間の表には出してはいけないということを引っ張り出す」

 ということで、教訓ではあるが、実際にはありえない。

 ということを証明しているのではないか?

 と考えられるのであった。

 逆に言えば、

「二重人格性というものの中で、まったく正反対の人格がその人の中にいて、それを引っ張り出すということは、不可能ではないか?」

 ということである。

「もしできるのであれば、今までの人類の歴史の中で、何度も起こっていても不思議のないことだ」

 といえるだろう。

 しかし、これも、

「実際には起こっていることであるが、怪奇現象ということで、すべてを、オカルトのような伝説として片付けることで、ありえないことだ」

 と思い込ませているだけではないだろうか?

 そう思うと、

「ジキルとハイド」

 という話は、ある意味、

「人間界のタブーのようなもの」

 ということであり、

「それを考えるということ自体、悪だといえるのではないか?」

 だから、

「ジキルとハイド」

 の物語には、

「症候群というものはなく、最初から、あり得ないものだ」

 ということで、結論付けているのではないだろうか?

 それを考えると、

「フランケンシュタイン」

 という話と、

「ジキルとハイド」

 という話は、似通っているところはあるが、実質的に、

「まったく違うお話だ」

 といえるのではないだろうか?

 どちらも、

「人類への戒め」

 であるが、あり得ることと、あり得ないことの、それぞれの代表例だといってもいいのではないだろうか?

「二重人格性というものをいかに考えるか?」

 ということであるが、

 一番考えやすいものとして、

「躁鬱症」

 という病気が考えられる。

 その中には、

「双極性障害」

 と呼ばれるものもあり、明らかな病気として認定され、

「投薬が必要」

 ということになり、これが、いわゆる、

「うつ病」

 との違いが問題になってきたりしている。

 特に、

「躁状態とうつ状態を繰り返す」

 と言われるもので、

「躁鬱症というものが、二重人格と考えるよりも、ジキルとハイドの考え方の方が近い」

 といえるのではないだろうか?

 ということを考えると、

「躁鬱症と、二重人格性というのは、必ずしも、近しいものだとは言えない」

 ということであり、そもそも、

「ジキルとハイド」

 という小説を書いた人は、

「躁鬱からの発想が近かったのか、それとも、二重人格性」

 ということが近かったのか、その発想が難しいところである。

「ジキルとハイド」

 という話の場合は、

「物語の面白さ」

 という観点からも、

「ジキルとハイドは、まったく正反対の性格」

 という設定になっている。

 しかも、

「片方が表に出ている時は、片方は隠れているという感じで、その様相も、まったく違う人になっている」

 という感じであろう。

 まるで、人格が変わることで、別の生き物になってしまうというのは、

「オオカミ男」

 の話のようではないか?

「月を見ると、オオカミ人間に変身する」

 という、

「オオカミ男」

 の話である。

 これが

「実際に同じ人間なのか?」

 それとも、

「妖怪変化が乗り移ったものなのか?」

 という発想を思い浮かべてしまうが、

「オオカミ男」

 に変身することで、まったく違った人格が生まれたというのであれば、

「ジキルとハイド」

 の話とは、違うものだといえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「ジキルとハイド」

「オオカミ男」

 と、それぞれに違った発想から生まれたような気がしない。それぞれに、意識しあった構成になっているような気がするのだが、それは気のせいであろうか?

 実際に、お伽化かしや神話など、まったく遠くに離れていて、関連性のなさそうなところで似たような話が掛かれるというのは、それだけ、

「人間の発想というものが、似通っている」

 といってもいいのではないだろうか?


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