夢による「すべての答え」

森本 晃次

第1話 すべての答え

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


 男女が離婚するというと、今では、そんなに珍しいことでもないが、昭和の頃であれば、

「戸籍が汚れる」

 などと言われて、大変だったという。

 元々、戦前などは、結婚が大変で、自由恋愛などというのは許されず、許嫁などという言葉が普通にあり、それこそ、戦国時代にあった、

「政略結婚」

 のようなものがあったりした。

 昔の、

「家長制度:

 などと呼ばれた時代であれば、

「家を守っていくことが、何よりも大切」

 ということで、

「変な血が混じらないように」

 ということを言われたりして、一応、身分制度などは基本的になかった時代だったはずなのに、特に、旧華族などと呼ばれる人たちには、大切なことだったであろう。

 今の時代で、

「伯爵」

「男爵」

 などという、

「爵位」

 と呼ばれる制度もなく、戦争が終わると、それまで威張り散らしていた華族連中は、没落していったものだった。

 戦争が終わり、軍事大国となっていた日本における、制度の解体は、結構大変だったのではないだろうか?

 元々の天皇制を生かすために、海外の憲法や議会政治などを手本に、日本独自のやり方を見出したのだから、

「大日本帝国憲法の発布」

 から、それに伴っての政治体制などは、今とはまったく違っていた。

  一番の違いは、もちろん、

「以前の国家元首が天皇であったものから、主権が、国民に移った」

 ということである。

 大日本手う国というのは、とにかく一番の優先順位として、

「諸外国と、半強制的に締結させられた、

「不平等条約の撤廃」

 が問題だったのだ。

「自主関税」

 あるいは、

「領事裁判権」

 という問題が絡んでいるということである。

 そんな戦前には、貴族院であったり、爵位を与えられた華族というものがあったのだ。やはり、

「天皇制」

 というところから必要だったということであろうか。

 大日本帝国においては、学校教育から、今とはまったく違い、当時は、今と比べて、相当実践に即した教育だったことだろう。

 特に、当時の日本は、子供のあこがれというと、

「軍人になること」

 ということが多かったであろう。

 陸軍を例にとれば。

「陸軍士官学校から、今でいう、専門学校的な、陸軍歩兵学校、陸軍戸山学校、陸軍中野学校などと言われるところもあり、そして最高学府として、陸軍大学というものが存在したのだ」

 陸軍大学生というと、エリートの中のエリートであり、今であれば、

「京大か、東大か?」

 と言われる人たちで、優秀な成績で卒業すれば、軍刀などが贈られるという時代だったのだ。

 特に、陸軍のエリートである、

「参謀本部:

 つまりは、有事となれば、

「大本営」

 と呼ばれるところには、

「陸軍大学卒業者でないと、入れない」

 と言われていたほどであった。

 当時の日本の国の仕組みとしては、少し歪な関係というのがあった、

 大日本帝国憲法ができた時からあったので、その時は、別に歪だとは思われていなかったのだろう。

 そういう意味で、大日本帝国というものが、

「明治の元勲たちによって作られた憲法だ」

 といってもいいだろう。

 まだまだその頃は、

「江戸時代の幕藩政治と言われる名残なのか?」

 それとも、

「明治政府の中において、功労のあった藩である、薩摩や長州、さらには、土佐や佐賀などという藩の派閥」

 というものが、幅を利かせていたといってもいいのではないだろうか?

 時代を代表する藩も、倒幕と、新政府設立ということで、手を握ったが、元々は昔からわだかまりのある二つの藩だったのだ、厄介なのは、当たり前といってもいいだろう。

 大東亜戦争の頃などは、出征兵士が増えたことで、

「結婚もせずに、出征するというのは気の測だ」

 ということで、急遽結婚するということがあった、

 しかし、実際には、そんなヒューマンチックな話ではなく、

「出征前に子供を作っておいて、跡取りの可能性を残す」

 というのが、本音のところであろう。

 それは、考えてみれば、おかしなことであり、

「一発必中というわけでもないだろうし、もし、子供ができていたとして、男の子とは限らない」

 ということである。

 それよりも何よりも、

「出征すれば、生きて帰ってくるという望みは、前述の可能性よりも低い」

 ということで、無理矢理の結婚ということになるのだろうか?

 だから、結婚しても、旦那が出征、旦那の生死も分からずに、復員を待ち続ける奥さんというのもかなりの数いたことだろう、

 確かに、戦争での生死不明の場合は、数年で死亡したということになり、未亡人として、今であれば自由に結婚もできるのだろうが、時代が時代。そうもいかなかっただろう。

 そもそも、日本で生き残ったとしても、毎日を生きていくことが必至で、生き残れるかどうかも難しい。

 そんな状態で、旦那を待ち続けなければいけないとなると、たまったものではない。

 さらに、その奥さんが、

「当初の目的通り、一発必中によって、子供を授かった場合は、どうなるというのだ?」

 せっかく、子供ができても、大日本帝国の時代で、戦争に勝利でもしていると、さらに、軍国主義が続き、天皇制が国体として守られたであろう。

 そうなれば、

「天皇陛下の子供」

 ということで、重宝がられたであろうが、敗戦となると、

「その日の食事もままならない状態ということで、子供が食い扶持を圧迫する」

 ということになり、

「戦勝ムードと、敗戦では、ここまで違ってしまうのだ」

 ということを、それまでの日本人は知らなかっただろうから、それだけでも大変だったであろう。

「大日本帝国の軍隊」

 というのは、

「連戦戦勝、敗北を知らない」

 という軍隊だと思っていただろう。

 確かに、大きな戦争では、負けたことがないし、敗戦の痛手が、日本国民に及ぶということがなかったので、

「敗戦の痛手」

 というものがどのようなもので、いかに惨めなものかということを、戦後思い知ることになるだろう。

 ただ、戦争前夜から、ずっと戦時体制だったことで、ある程度慣れた状態だっただろうが、それも、

「勝利を信じて疑わない」

 という状態だったので。日本人というのが、どれほど忍耐強いものなのかということを、敗戦で知るということは、実に皮肉なことだったといえるだろう。

 ただ、それをある程度、政府、いや、軍部、マスゴミの陽動によるものだったといっても過言ではない。

 戦争中に、情報統制が行われ、

「戦争は勝ち続けている」

 と信じて疑わない国民を、さらに縛るような、特高警察が幅を利かせているというのは、今であれば、

「何かおかしい」

 と思う人も多いだろうが、さすがにあの時代、

「おかしい」

 などといえるわけもなく、

「分かっていて言わなかったのか?」

 それとも、

「本当に分かっていなかったのか?」

 ということは、誰にも分かるものではないだろう。

 結婚というものが、昔からの、

「家や、血族の存続」

 という意味で、戦後の探偵小説の中でも、昔からの風習になぞらえた小説がウケたりすたことがあった、

 よくっセリフの中で使われるのは、

「俺は〇〇家の長男だ。〇〇家の家名に泥を塗るわけにはいかん」

 と言ったり、

「俺は恥辱の中で生きることを拒む」

 といって、自らの命を絶つということも書かれていたりした。

 そんな時代においては、結構、

「家系」

 であったり、

「家名を守る」

 ということに対して、まるで、自分が生きている存在意義のように感じている人もいれば、

 意識はしているが、しているがゆえに、そんなものを破るということに、感覚がマヒしてしまい、下手をすると、殺人事件にまで発展しても、感情がマヒしてしまっていることで、犯罪を自分の中で正当化しようとする人もいる。

 要するに、

「温度差が激しい」

 ということなのだ。

 かたや。犯罪を犯したとしても、

「家名のため」

 ということで、致し方ないと考える人。

 かたや、そんな古いしきたりのようなものを、口では大切だと言いながら、もって生まれた、異常性癖などのせいで、ジレンマに陥ってしまい、結局、マヒした感覚のせいで、正当性を守るために、犯罪を平気で犯すという考えをもってしまった人。

 特に、戦後の探偵小説においては、そういう意識が大きかったりする。

 そもそも、厳格な家に育ったことで、その反動から、異常性癖に目覚めてしまったり、時代が、厳格さからの反動で、

「感覚をマヒさせないと、生きていけない」

 という意識から、

「耽美主義」

 のようなものに、自分の正義を結び付け。正当化させることで、

「世間一般に言われている、貞操観念であったり、道徳的なものは、時代のうねりによって、自分の正義が分からなくなった人を、容易に誘うというのが、感覚をマヒさせる、麻薬のような効果を持っているのかも知れない」

 それを、

「変格派探偵小説」

 といい、ドロドロした人間関係であったり、そこに、金や色恋が絡んでくることで、

「欲」

 というものが、

「人間の感覚をマヒさせる」

 ということになり、いかなる犯罪も、その人には正当化され、一連の猟奇殺人の犯人ということで、

「歴史に名前を残す」

 という大事件を起こすという人も少なく無かっただろう。

 戦時中では、発禁とされた探偵小説も、敗戦によって、民主化の波が押し寄せると、

「表現の自由」

 というものが認められ、勝手な検閲はできないということになるだろう。

 もちろん、出版には、

「倫理」

 というものがあることで、世界的にも認められないものは、当然、発禁とされるといってもいいだろう。

 しかし、さすがに、今までの経緯があることから、むやみに発禁ということはできない。してしまうと、まるで

「ファシズムのようだ」

 と言われ、一つの主義や、民族しか認めなかった、ナチスを彷彿させようというものだった。

 ただ、

「すべてのナチスの政策が間違っていた」

 というのは危険な発想で、すべてを否定するという方が、却って、

「ファシズムだ」

 といってもいいかも知れない。

 政治体制というのは、その時代で、何が正しいか変わってくる。そもそも、何が正しいのかなどといえないのではないだろうか?

 歴史の答えというのは、正直、どこにあるというのだろうか?

 要するに、終着点ということであるが、

「新たな体制になった」

 という時は、前の体制の終着点ということで、そこが、

「歴史の出した答え」

 だというのだろうか?

 だとすると、この新しい体制になって、それが、成功するか失敗するか、そこでまた一つの答えが出るわけだが、その体制になったことが正しいのかどうか、その問題は、どういうことになるというのか>

 つまり、

「歴史の答え」

 というものに、

「正しい、正しくない」

 ということを求めるのであれば、誰が判断するのかということになるのである。

 そこに入ってくる問題というと、

「時系列」

 である。

 物事には、必ず、原因があって結果というものがあるわけで、その原因を作るのは、その前の時代の結果からである。必死になって、結果を出そうとすると、それが、次第に次の時代の原因となる。ということになると、

「原因が答え」

 ということになり、その原因が正しいのかどうかは、またその時代の結果を見ないと分からない。

 そうやって、歴史は繰り返されるわけで、新たな体制が出てこなくなった場合でなければ、答えにならないということになるのであれば、

「結果というのは、滅亡」

 ということになり、そうなると、答えは、

「滅亡に向かうための、プロローグ」

 ということで、それであれば、最初に見えた結果が答えだといってもいいのかも知れない。

 人のとらえ方は、そう感じる人もいるだろう。

 だから、それを答えだといっている人がいても、間違いではないし、正解だといえるだけの論理性は存在しないといってもいいだろう。

 今の時代と違って、昔は、

「結婚というものは、当たり前にする」

 というものであった。

「結婚してこそ当たり前であり、それが一種のゴール」

 のように言われていた。

 大日本帝国時代のように、

「家系を守っていく」

 ということも、当然のことという意識の中、民主国家になれば、

「自由恋愛が当たり前」

 と言われるようになると、

「恋愛結婚」

 が当然となり、結婚産業というものも、出てくるようになってきた。

 人間は、中学時代に、思春期を迎える。

 それまでは、あまり意識をしたわけではないが、気になった女性がいれば、好きになるのが当たり前という感じになってくる。

 好きになった女性に告白し、相手もそれを望めば、そこから恋愛が始まる。

 その時に、性交渉があるかどうかは、人それぞれであろうが、基本的には、

「ありえない」

 という時代があった。

「初恋はなかなか成就することはない」

 と言われるが、お互いに、異性との付き合いが初めてであれば、

「こんなはずではなかった」

 と考えるのも無理もないことであろう。

 恋愛すればするほど、

「熟練になってくる」

 というわけでもないような気がする。

「深く入り込めば入り込むほど、奥深さを感じるようになり、まるで、底なし沼に足を突っ込んだ」

 と考える人もいるだろう。

 だから、そこに答えがあるというわけではないことを、恋愛を重ねるごとに気づくようになり、それだけ、

「結婚というものの難しさ」

 を感じるようになる。

 結婚というものを深く考えるようになり、お互いに、

「結婚するならこの人」

 ということで、親に紹介する時が来たとして、これがまず最初の難関ということになるのである。

 まず、なかなか一発で了承を得るというのも、難しかったりする。

 何といっても、

「親が、結婚というものを、どう考えているか?」

 ということである。

 人間は、

「自分の経験からしか、物事を考えない」

 いや、

「経験こそがすべてだ」

 といってもいいだろう。

 つまりは、親が結婚に対して、

「焦って結婚してしまった。もう少し、他にも好きだった女の子がいたのに」

 と思っている親もいるだろう。

 もちろん、

「結婚したことに、まったく後悔したことがない」

 という人もいるだろうが、そんなに簡単に後悔しないという人生を歩んでこれた人の方が少ないだろう。

 それは、奥さんだけにいえることではない。逆に、奥さんがどう見ているかということも問題である。

「ここまで、親二人は、喧嘩一つせず、仲睦まじかった」

 という風に見える夫婦というのも、たくさんいるだろう。

 だが、それは、どちらかが我慢しているので。喧嘩にならないだけなのかも知れない。

 確かに、喧嘩というのは、相手があることで、

「こっちが我慢して、相手の気持ちを逆なでしなければ、喧嘩になることもない」

 ということで、

「ただ、我慢を続けることが、お互いのためだ」

 と思っている夫婦もいるだろう。

 それは、あくまでも、

「相性の悪さを、一人が我慢することで、表向きはうまくいっている夫婦」

 というだけのことで、一触即発の危険と、絶えず背中合わせの人もいる。

 それまで、ずっと仲が良かった夫婦がいきなり、離婚を表明して、世間を驚かせるというような、芸能ニュースを見ることもある。

 芸能人の離婚というと、

「お互いに忙しく、すれ違いが多い」

 ということでの離婚が多かったりする。

 それを聞くと、あまり、その芸能人に興味のない、野次馬的な考えで見ている人は、

「だったら、最初から結婚なんかしなければいいんだ」

 という冷静な目で見ることだろう。

 しかし、実際によく見ていると、

「すれ違いが多かった」

 といって、離婚会見をした夫婦のどちらかが、一年もしないうちに、他の人と結婚しているというようなこともあったりして、

「どういうことなんだ?」

 と考えさせられることも少なくなかった。

「すれ違いしたくないから、離婚したんだったら、一生とは言わないが、せめて、ほとぼりが冷めるまで、結構を考えないのが普通ではないか?」

 と考えるのだ。

 ということになると、

「あの時の離婚会見は、言い訳だったのか?」

 と思え、もっといえば、

「離婚する前から、再婚相手と、恋仲だったということか?」

 ということを勘ぐってしまう。

 確かに芸能界というところは、不倫などというのが、ニュースになる世界」

 ということである。

 それを思うと、

「不倫騒動ということで、マスゴミにすっぱ抜かれる前に、離婚して、身軽になっておくか?」

 ということから、離婚を考えたのではないだろうか?

 それを相手も従うということは、

「慰謝料目当て」

 と考えれば、お互いに、願ったり叶ったりと考える人もいるだろう。

 そこに、子供が絡めば、簡単にはいかないかも知れないが、子供がいなければ、離婚くらいは、別に気にすることではないといってもいいだろう。

 実際に、芸能人の離婚や再婚というのは、日常茶飯事といってもいい。同じくらいに、不倫騒動があったり、中には、不倫や離婚問題が絡んでくると、何やら、理解不能といってもいいような、

「ドタバタ劇」

 が繰り広げられたりするのだ。

 本人は、

「円満離婚」

 を計画していたのに、マスゴミに嗅ぎつかれて、スクープされてしまったなどというのが、多かったりするだろう。

 昭和の頃までは、一般人の離婚というと、明らかに少なかった。本来は多かったのかも知れないが、話題になっていなかった。

 特に、

「戸籍が汚れる」

 などということはあっただろう。

 夫婦喧嘩をして、奥さんが、

「実家に帰らせていただきます」

 といって、実家に帰って行っても。旦那が説得に来たり、帰った実家で、親に説得させられ、旦那の下に戻っていくという夫婦が、昭和では当たり前だった。

「よほどのことがない限り、離婚などというのは、そう簡単にいくものではない」

 ということだったのだ。

 それは、終着点を、

「離婚」

 という形ではなく。

「夫婦生活の悪いところを直して、やり直す」

 というところが終着点だったのだ。

 しかし、それが、平成の時代になっていくと、結婚というものに対しての考え方というものが、かなり変わってくるといってもいいだろう。

 この頃になると、いろいろ結婚や離婚に対して、それまでとの違いを称する言い方が出てきたりしたのだ。

 結婚としては、

「できちゃった婚」

 という言葉が流行った。

 これは、

「子供ができてしまったことで、責任を取って結婚する」

 ということである。

 責任を取るというのか、男がけじめをつけるというのか、子供を作る意志がなかったのに、子供ができたために、結婚することになった夫婦のことである。

 逆に、

「子供を盾に結婚する」

 という夫婦もいる。

 親に結婚を反対されているが、二人は絶対に結婚したいと思っていることで、

「既成事実」

 として、妊娠という手段を使うというものである。

 どちらにしても、この場合の子供というのは、

「ダシ」

 でしかないといってもいいだろう。

 もちろん、一概には言えないが、

「子供が気の毒」

 というのは、間違いない。

「作る意志がなくてできてしまった。だから、結婚する」

 という順序の違いを、

「仕方がない」

 ということで、親も、事後承諾するしかないという状態での結婚が、果たしてうまくいきのかどうか、これに関しては、すぐに答えがでる人もいるだろう。

 それは、速攻で離婚する場合であり、この答えというのは、

「結婚」

 というおのに対して、

「間違いだった」

 という答えになるわけで、

「事態の収拾」

 ということに対しては、原因からの結果として、

「離婚」

 という答えが出ただけで、それが、すべての答えなのかというと、少なくとも、答えになっていないことの方が多いだろう。

 離婚といっても、一口に、

「別々に暮らす」

 というだけのことではない。

 結婚する前には、何もなかったものが、離婚するときには、たくさんのものを背負っているわけで、その分与ということ、そして、責任の所在などが、法的な問題として残るのだった。

 それをすべて含めて離婚ということであり、そんなに簡単にいくものではないのだ。

「財産分与」

 という問題、そして、大きな問題が、

「親権」

 というものだ。

 親のどちらが引き取って、責任をもって育てる」

 ということになるわけで、引き取らなかった方は、

「じゃあ、自分は、ここで子供と縁を切る」

 とは簡単にいかない。

 養育費の問題であったり、子供との面会などの問題。さらには、再婚をする場合の問題など、離婚の際に、どこまで決めておくかということも、問題となることであろう、

「離婚は結婚の数倍ものエネルギーを必要とする」

 とよく言われていたが、まさにその通り、

「離婚するくらいなら、結婚しなければよかった」

 ということは、まず離婚を前にした人は、皆そう思うことだろう。

 確かに、離婚を目の前にすると、特に母親は、子供のことが気になることだろう。

「父親がいなくて、大丈夫なのだろうか?」

 ということを考える。

 これはもちろん、

「親権者が母親だ」

 と確定した場合のことであるが、普通はその可能性が高いだろう。

 もっとも、今の時代のように、

「父親も家事や子育てに参加している人が多い」

 という時代であれば、父親が子供を引き取るということも普通にあるだろう。

 それだけ、女性の社会進出というのがあるということで、離婚に際しては、いいことなのか悪いことなのか、難しいところである。

 奥さんが離婚を言い出した時、あるいは、

「実家に帰る」

 という強硬手段に訴えた時など、結構、旦那は、

「はい? いきなり何なんだ?」

 と感じることが多いだろう。

 それまで、奥さんは、

「離婚のりの字も口にすることはなかった」

 ということが多かったりする。

 だから、旦那は意表を突かれるというわけだが、実際に、そういう奥さんは結構いたりする。

 それは、離婚ということに対して、れっきとした理由があるわけではない時が多いだろう。

「旦那が不倫をしている」

 であったり、

「ギャンブルやパチンコなどにうつつを抜かして、家に金を入れようとしない」

 などという、

「離婚の事由として成り立つれっきとした理由というものが、ハッキリしていない」

 という場合に多かったりする。

 ただ、お互いに漠然とした理由から、離婚というものに発展することも少なくない。

「性格の不一致」

 ということを理由に、実家に引きこもってしまったり、旦那のほうでは、

「理由に心当たりがない」

 ということで、手の打ちようがないと思っている旦那も多いことだろう。

 ただ、こうなってしまうと、ほぼ、

「離婚するしかない」

 ということであったりする。

 というのは、よく言われることとして、

「女性というのは、態度に出してしまった時は、自分なりの答えを出している時なので、何を言っても、もう無駄だ」

 と言われるものであった。

 これは、

「それだけ、女性が我慢強い」

 ということと、

「旦那がまったく結婚生活に対して無頓着だった」

 ということの現れでしかない。

 第三者が見れば。

「そりゃあ、奥さんがかわいそうだ」

 ということになるだろう。

「その時の自分の苦しみを、旦那が分かってくれなかった」

 ということになるだろう。

 しかし、旦那としては、

「いってくれないと分からない」

 と思っている。

「話をすることがなくても、夫婦なんだから、暗黙の了解があるはずだ」

 ということを旦那が思っているのだとすると、

「それは、奥さんのことを見ていないからだ」

 ということになってしまう。

 つまり、離婚問題になると、あとで気づいた方は、圧倒的に不利である。

「気づいていたとしても、それを放っておいたのだから、もっとたちが悪い」

 と言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。

「女というのは、我慢するところは必死に我慢しようとするけど、それができなくなった時、初めて行動に移すのであって、その時になって気づいても、もう遅い」

 というわけだ。

「奥さんは、その時点で答えを出している」

 ということになり、完全に覚悟を決めているわけなので、今初めて気づいた旦那に、太刀打ちできるはずもない。

 そうなると、奥さんの方は、

「どんな手段を用いても、離婚に踏み切る」

 というだけであり、旦那の方が、

「子供のためにやり直そう」

 などと言おうものなら、すでに答えが出ている奥さんから見れば、

「何をいまさら」

 としか思えず、完全に、

「上から目線」

 でしか見ていないので、そうなると、旦那に対しての愛情は、まったくなくなってしまったといってもいいだろう。

 むしろ、

「最初からなかったんだ」

 ということになるだけであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る