第5部(全5話)

◆その九◆


「辞めさせていただきます。」


 肩を叩かれた翌日の朝、私は学活の前に校長室へ行き辞表を提出した。


「残念だよ。本当にいいのかね。」


肩を叩いた張本人が何を言っているのかと、私は内心で呆れていた。

校長は知り合いの校長に話を通してくれるとは言ったが、


「もう決めたことなので。」


と私は取り合わず、校長の返事も待たずに校長室を後にした。

そして、私は何も持たずに自分のクラスへと向かった。

教師人生最後の学活であった。もう緊張も何もなかった。


「突然のことですが、本日付で教師を辞めることにしました。」


 生徒達のざわめきは相変わらずで、私の話を聞いている生徒はほとんどいなかった。椅子を傾けて座る生徒。勉強をする生徒。スマホを見ている生徒など。


阿部は、その取り巻きたちと一緒に笑ってこちらを見ていた。


「みんなには色々と迷惑をかけたと思う。本当に申し訳ない。」


 私は教卓の横に立ち、深くお辞儀した。そしてそのまま教室を去ろうとしたのであるが、私が扉に手をかけた時、椅子の倒れる音が教室に響いた。


 音の方を見ると、生徒が一人うつむいて立っている姿が見えた。それは、阿部の前の席に座る、安達であった。騒がしかった教室は一瞬にして静まり返り、みんなが安達と私を交互に見ていた。私は安達が何かを言い出すような気がしたので、それをあえて抑え込むように最後の言葉を残した。


「みんな、これからも仲よくやってくれ。」


 私がそう言って教室を後にすると、閉めた扉からは再び教室の喧騒があふれ出した。私は様々な視線を背に感じつつ、職員室へ戻った。


 他のクラスはまだ朝学活の最中であり、ほとんど教員がいない職員室は初めて見たかもしれない。その中で一人だけどうしても目につく教員がいた。


「大変だったね、西澤先生。」


 コーヒー豆だった。私は、最後だからと思って、おかげ様で、ぐらいは嫌味を言ってやろうとした。しかし、コーヒー豆から差し出された一杯のコーヒーに遮られてしまった。


「すみません、ありがとうございます。」


 私は促されるまま口に含んだのであるが、あまりの苦さに目を見開いてしまった。私はそのコーヒーを一口だけで遠慮して、前の日にまとめておいた荷物を抱えて足早に帰宅しようとした。するとコーヒー豆は、


「お見送りしますよ。」


と言って席を立った。


「いえいえ結構です。お忙しいと思うので。」


と私は言ったのであるが、それでもコーヒー豆は静かに私の後ろについてきた。

 

 仲良くしていた教員は何人もいた。事務室の職員にも顔は広かったと自分では思っている。しかし、最後の見送りには誰も来なかった。だから、たとえそれがコーヒー豆だけであったとしても、見送りがいることはとても心強かった。


 私は職員用の玄関で靴を履き、その場でコーヒー豆に一礼した。


「色々と、お世話になりました。」


「はい、それじゃ気を付けて。」


 思った通りのあっさりとした最後だと思った。しかし私が玄関を開けると、コーヒー豆が私を呼び留めた。私は向き直ると、コーヒー豆がポケットから何やら茶色い紙袋を取り出すのが見えた。


「迷ったけれど、差し上げます。」


 そうして私はその紙袋を受け取った。手に持った感覚で何が入っているのか見当はついたが、中をのぞくと果たしてそれはコーヒー豆であった。そして同時に、苦い香りが鼻をついた。


「苦いですね、コーヒーって。」


「えぇ、とっても。」


 そう言ってコーヒー豆は笑って見せた。私はその時、初めてコーヒー豆の顔をまともに見た気がした。本当は優しい人なんだと思った。


「色々と、本当にありがとうございました。」


 私はもう一度お礼を言ったが、コーヒー豆は頷いたきり、もう何も言わなかった。私は向き直り、改めて玄関を開けた。


 外に出て数歩歩いたところで、私は振り返り学校を見渡した。見慣れた校舎に見慣れた風景が太陽に照らされていた。遠くに見える校庭から玄関に視線を戻すと、扉のガラス越しにまだコーヒー豆が立っているのが見えた。私は大げさに一礼をしたのであるが、その弾みで漂ったコーヒーの苦い香りは、また鼻についたきり、しばらく消えることはなかった。


 ちなみに、その日もらったコーヒー豆は、苦い香りが鼻につくだけでどうしても飲むことができず、今でも茶色い紙袋に入ったまま、自宅のキッチンの端に置いてある。


◆その十◆


 私はその翌日から無職になった。普段、休日で家にいても授業の準備などをしていた私にとって、暇ほど困るものはなかった。

 

 朝起きて風呂に入り、買い物に行った。テレビを見たりスマホをいじったり、何をして過ごしたのかあまり記憶がない日もあった。風呂を掃除して、夕飯を食い、眠くなって風呂にも入らないで寝てしまう日もあった。本は好きだったので手に取った本から読んでいたが、それも長くは続かなかった。日々に目的もなく、だいぶ時間を無駄にしていた。


 そんな生活を三週間は続けた頃、自宅に一通の手紙が届いた。差出人には、安達真歩と書かれてあり、その内容はあの紛失事件についての詫び状であった。


――――――――――

西澤先生

 お久しぶりです。安達真歩です。お元気ですか?

今更のことなのですが、本当にごめんなさい。阿部さんの財布、私が盗りました。

でも西澤先生、本当は気付いていたんじゃないでしょうか。あの日、教室の床が水で濡れているって先生は気づきましたよね。あの水、私が財布を拾った時に、リードの入ったカップをひっくり返したからなんです。あの後すぐに阿部さんが来て、あんな騒ぎになってしまって、水を拭く時間もありませんでした。リードの水入れが満足にできなくて、それで私、オーボエも満足に吹けませんでした。私、ばれたって思いました。次の日にはちゃんと話そうと思いました。でも、告白するのがすごく怖かったんです。それで、黙って財布と手紙を先生の机に置きました。それで済むと思いました。でも先生が全部背負うことになってしまって、仕事を辞めることになってしまって、本当にごめんなさい。

同じ学校には戻れなくても、先生は先生です。絶対、先生に戻ってくださいね。


安達 真歩

――――――――――


 その手紙のほかに、封筒の中からは定期演奏会のチケットが三枚出て来た。そのうちの一枚には付箋が貼られてある。


「ノルマなんで、よろしくお願いします。」


 私はその付箋を見て、ああこれでよかったんだと思った。だから私はそのチケットを封筒にしまい、本棚の隅に片付けた。


 その本棚の下には私の机があって、机上には原稿用紙と鉛筆が置いてある。今すぐ何が出来るわけでもないと思った私は、小説を読みあさっているうちに自分でも小説を書こうと思った。そうしてつらつらと書いていったのであるが、初めて小説を書くにあたって筆名をどのように決めたらいいのかわからず、空欄にしていた。題名はもっと難しかった。


 しかしそれも安達真歩からの手紙で難なく決まった。私は、これでお相子だなと呟いて、鉛筆を走らせた。その筆名と題名には、最初から決まっていたかのような心地良さがあった。


『沈黙の花』 ― 安乃澤 真平


 その文字は、カーテンの隙間から差し込む夕陽の中で、やけに輝いて見えた。


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作品7『沈黙の花』 安乃澤 真平 @azaneska

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