第3部(全5話)
◆その五◆
翌日、私は学校のあいさつ運動の当番だったので、朝一番に出勤しなければいけなかった。余計と言えば余計な業務ではあるけれど、生活委員会が主催した取り組みを無下にするわけにはいかなかった。
そして何より、私が出勤するよりも前に学校にいたのは副校長と野球部、吹奏楽部ぐらいで、いつもと違って静かな学校が嫌いではなかった。職員玄関に入ると、奥から野球部の掛け声と吹奏楽部の演奏が入り混じるように私を包み込んだ。それがお互いにやり取りをしているようで、雨上がりの朝のように心地よい新鮮な空気を感じていたのであった。
しかし、職員室に入って自分の席に置かれてある物を見た途端、現実に引き戻されれた。私の机の上には、阿部から聞いた特徴通りの財布が置かれてあったからだ。隣には置き手紙もあり、そこにはどこかで見たような字でこう書かれてあった。
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突然すみません。財布、私が取りました。ごめんなさい。
教室に落ちていたので、後で先生に伝えようと思って、拾って預かっていました。でもその後阿部さんが来て、騒いでいるのを見ていたらとても言い出しづらくなってしまって、そのまま持ち帰ってしまいました。
財布、お返しします。もちろん、中身はそのままです。
本当にすみませんでした。
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匿名で書かれたその手紙を私は丁寧に折りたたみ、自分の鞄へと入れた。
そして財布を机の鍵付きの抽斗にしまうと、私は正門へと向かった。
私は登校してくる生徒たちにあいさつをしながら、目を凝らして阿部を探した。
そして阿部が登校して来るのを見つけると、挨拶がてら朝学活の前に職員室へ来るようにと告げた。
「はぁっ? なんで?」
あからさまに面倒くさそうにした阿部であったが、財布が見つかったことを伝えると、態度を一変させて嬉しそうな笑顔を見せた。
「それならそうと先言ってよ! なんなら今行くよ。センセ、行こ。」
「今あいさつ運動の真っ最中だよ。また後で。」
阿部は何やらブツブツと文句を言っていたが、最後には、はいはーいと言って歩いて行ったので、機嫌はいいらしかった。だからこの時にはもう一件落着したように私に感じられていた。
◆その六◆
あいさつ運動の後、私は職員室に戻ってから校内放送で阿部を呼び出した。阿部は、放送の繰り返しも待たずに職員室に姿を現した。どうやら、近くで待っていたらしかった。
私は阿部を自分の席に招くと、机から財布を取り出して阿部に見せた。
「それそれ、マジ助かったぁー。」
すぐに受け取ろうとした阿部であったが、私がそれを許さなかった。
「ちょっと待て。それだけじゃ渡せないんだ。何か阿部とわかるものが中に入っているか、確認させてくれ。」
阿部はプライバシーだの変態だの言っていたが、様子を見てもふざけているだけというのはわかった。念のために女の先生にも立ち会ってもらって、中身を確かめた。
予定にはない所持品検査にはなったが、幸い問題になりそうなものはない。何かの会員カードに阿部の名前を見つけることができたので、本人確認はそれで済んだ。
女の先生にもお礼を言って、阿部には財布を返してもう教室へ戻るように伝えた。しかし、そこで阿部が口を開いた。それはどこか人を責めるような口調であった。
「それで先生、財布盗ったの、誰ですか?」
実を言うと、財布を手にした者の検討はついていた。しかしそれを言うのは憚られれる。最初は善意だったとは言っても、翌日になってしまっては事情が違う。感情的になった阿部の前では真実が却って悪手となる。
教育者として犯人に責任を負わせるべきであるとは思う。しかし一方で教育者と言えども人間であるから情も入るもので、一人の生徒に責任を押し付けるのも心苦しかったのであった。
出勤したら私の机に置いてあったなどと言えば、疑いの目は限られてしまう。
「盗った者なんていないよ。」
苦し紛れだ。
「じゃあ、なんでこの財布ここにあるんですか?」
阿部も引かなかった。
「それは言えない。」
財布が戻ればそれで済むと思っていた私は、特に言い方など気にしていなかった。しかしそれが阿部にとっては納得のいかない答えだったらしい。阿部は前日に見せたような勢いで、今度は私を問い詰めた。
「冗談言うなよ。昨日あんだけ探してもなかったんだから、急に見つかるわけねぇだろ。誰だよ、盗ったの。」
「言った通りだ。盗った者なんていない。」
阿部は呆れたと言ったような顔をして、職員室から出て行こうとした。そして出入口のところでこちらに振り向くと、
「お前が盗ったんじゃねぇの。サイテー。」
と言い捨てるように言い、そして去って行った。
私はあえて何も言わなかった。失くした自分が悪いのに、自分勝手に騒ぎ立てる阿部に対して咄嗟に感情的になりそうだったからである。
私は大きくため息をついた。
「あらあら。」
背後にいたのはコーヒー豆だった。
「すみません、朝からお騒がせ致しまして。」
別にそんな気持ちは微塵にもなかったけれど、他の教員の手前、そう言うしかなかった。コーヒー豆はコップを持ったまま意地悪そうな目で私を見た。
「いいえー別に迷惑だなんて全然。」
しかしまだ言い足りないのか、コップを置いても腕を組んだまま阿部がいた出入口を見ていた。そして私が椅子に腰かけると、コーヒー豆は車輪付きの椅子ごとこちらに滑ってきて、私に背を向けたまま言った。
「こういう時はね、事務室の落とし物コーナーを通して返すべきだったよねぇ。」
ほんの数秒、時間が止まった気がした。その間にコーヒー豆は自分の席に戻って慣れないパソコンをカタカタと打っていた。
私は、そうですねぇ、と笑顔でさらっと言ったのであるが、内心ではなんでもっと早く言ってくれなかったんだと憤っていた。それは焦りでもあり、不安でもあった。
私は、やり方を誤ったらしい。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。間もなく朝学活の時間だと言うのに、なかなか椅子から立ち上がることができなかった。しかし無常にもチャイムは鳴り、一日が始まってしまった。
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