第8話
12月23日 夜8時
茜は土方の招きでデイナーの席に着いた。
土方の部屋は装飾品を排除した簡素な空間であるが、この日ばかりは
土方の部屋の中で最も豪華といえる重厚なダイニングテーブルの中央に生け花が添えられていた。
予め 土方から茜が食べたい物を、と、言われていたのでテーブルの上は茜のリクエスト通りの料理が所狭しと並べられていた。 ――それはいいとして――
茜は黒服の他にウエイターが二人待機していた事を予想外と捉えたが、驚いたのは芹沢薫子と4Fフロアーの大林 麦(おおばやし むぎ)と云う、これまた曰くつきの婦人が茜のすぐ後から現れて席に着いた事だった。茜がウエイターに促されて土方の横の席に着くと 「この通りの車椅子でね、エスコート出来なくて失礼した」と、土方が言った。
静かな雰囲気の中で始まったデイナーだったが、薫子がシャンパングラスを重ねるうち若い頃の自慢話を始めるや 薫子の対面、茜の隣に座っていた麦がわざとらしい冷笑と皮肉で迎え撃ち、度々茜の喉を詰まらせた。
土方は鷹揚に構え対照的な二人の老婆を労わる様な雰囲気である。茜は、今、目の前で繰り広げられている三人の関係を考えずにいられなかった。お陰で折角リクエストした大好物の生ハムも味半減である。
延々と続く薫子の自慢話に水を差したのは勿論麦である。
「まぁ…今更若い頃のカビの生えた話をされてもねえ、結局のところスポンサー頼みの生活だし」 薫子は、聞こえなかったのかわざと無視を決め込んだのか素知らぬ顔でニコニコしている土方に向かって喋りつづける。
麦は忌々し気に茜に身体を寄せて、薫子に聞こえる様なトーンでいった。
「この女、私の父の愛人だったのよ!父から絞り取るだけ取って今の生活があるのよ!」 茜は困ってしまった。こんな事ならもっと積極的にミツエの「ここだけの話」を聞いておくのだったと後悔した。否定も肯定も出来ず土方にヘルプ視線を送るが、土方は面白そうに眺めているだけで どうやら助けるつもりはないらしい。
そこで茜は 思い切って予てより疑問だった事を口にした。居住者のプライバシーに立ち入ってはならない事は承知の上であるが今夜だけは許される様な気がする。
「大林様がお一人で暮らそうと思ったのは何故ですか?」
茜の直截の質問に麦の身体がとても分かり易くス―――と離れていった。そのままテーブルに頬ずえをついている。突然黙り込んだ麦に茜は焦ったが、土方はここで助け舟を出してきた。「麦さん、私は麦さんがどれだけ苦労してきたか知ってるよ。薫子さんも分かっている。我々はもう、そう長くは生きられない。お互い言いたい事を言えばよろしい。だが今夜はこれから、ここにいるお嬢さんに大事な話がある、続きはあの世で話そう。幸いあの世の時間は永遠らしいから」
薫子が吹き出した。 麦もつられたのか険悪な顔は消え去っている。「あの世?そりゃあお二人にとってはねぇぇぇ!」と、まだ73歳の麦は貧弱なボデイを揺らせて薫子と一緒に笑い出した。
麦と薫子が上機嫌で引き上げていった部屋は急にしんとなって、暖房が効いているにも関わらず冷たい空気に茜は思わずブルリとした。
ウエイターがテーブルの上を片付けている間 別のウエイターが数種類のデザートを持ち込みソファー前のサイドテーブルに並べだした。
茜は土方に勧められるままソファーに移動し浅く腰掛けた。深く腰掛けるとソファーに埋まる様な気がしたからだ。
初島家の母屋のリビング、父の書斎にあったソファーが正にそれだった。掃除機をかける家政婦の後をチョコチョコついて回り リビングのソファーでお人形遊びをしていたら祖母からノラ犬でも追い払う様な仕草で𠮟られた。幼い茜でも祖母の冷たい視線は突き刺さった。動けなくなり、ソファーにうずくまって泣いていたら母が飛んで来た。
「いい人はいるのか?」 物思いに耽っていた茜に土方が声をかけてきた。
ハッと我に返った茜はぎこちなく首を横に振った。土方は薄く笑うと黒服とウエイターに「呼ぶまで待機」と言って下がらせた。
「さぁ、好きな様にあがってくれ。生ハムは新しく持ってこさせた。何から話そうか…何か訊いておきたい事があれば今がチャンスだ」 茜は、喉が詰まってあまり食べられなかった生ハムを味わいながら、ずっと気になっていたアレを訊いてみようと思った。土方が何故初島家の内情に詳しいのか。
「それでは土方さん遠慮なく伺います。土方さんは私の実家をご存知だったのですか?」 土方は電動車椅子に座ったままシャンパンを舐める様に飲みながら茜に微笑んだ。 「ちょっとだけ知っているよ」
土方はゴルフ場やホテルなども経営していた時期がある。将来的に新幹線が開通すると云う情報をキャッチするや精力的に現地に足を運び、地元の有力者たちと会合を重ねた。当時の地元の有力者 初島惣一とはコンペを通じ何度も対面していたのである。
その後、何十年も後になって 「スターホーム」に初島と名乗る介護職員が自分の居住フロアーに現れて担当になった。興味を持って調べたらなんとドンピシャだった。
それからの土方はあらゆる手段を駆使して初島家の内情を調べ上げ、茜が歩んできた道のりをつぶさに調べ上げた。
茜に恋人らしき相手がいない事は勿論 友達と呼べる者もいない事は百も承知なのである。
茜は、幼い頃から心を開いて話せる友達はいない。できなかった。意地悪をされたり仲間はずれにされた訳ではないが、いつもビクビクしていて人の顔色ばかり気にする様な子供だった。地元では大家(たいか)のお嬢さんと云う事で 祖母や父以外の大人たち、学校の教師がとても親切に接してくれる事を特に何とも思っていなかったのだが、ある時、クラスメイトから言われた一言が茜の心を痛めた。
「初島さんを怒らすとこの町に居られなくなるってお母さんが言ってたよ」
当時の幼い茜でもこの言葉の意味は理解できた。
要するに、皆が自分に親切なのはバックに初島家の存在があるからだ。
茜、小学三年生の時である。どうりで、皆親切だがどこかよそよそしい。
それは地区を飛び越えた高校でも変わらなかった。何かにつけ「ウチとは身分が違うから」と、煙幕を張られてしまってそれきりだ。当然部活動もやらず帰宅組の筆頭である。
しかし茜はあまり気にしない様にしていた。学校より家の中のせめぎ合いの方がはるかに深刻だったからである。茜は祖母と母の壮絶な闘いから逃げたい一心で月曜日から木曜日まで、わざわざ隣の隣の隣町の塾を選んで、時間ギリギリまで居残り
帰りはいつもシンデレラタイムだった。送り迎えはハイヤーである。母は父からこの件で相当文句を言われた様だが この頃の母は、何というか、人間を超越した雰囲気で結局父が引き下がると、今度は祖母が出張って来るという無間地獄の形相を呈していた。
そんな生活が何年も続いたが、勉強に没頭できた事で念願だった東京の大学入試に通った。しかし、これで大手を振って家を出る口実が出来たと云うタイミングで父の惣二が全てを投げ出して愛人の元へ逃避行すると云うとんでもない憂き目にあった。
それでも茜は動じなかった。何となく予感があったからだ。進学は諦めたが家を出る気持ちに変わりはない。
祖母は 「初島家の者が大学にも行かずみっともない!!」と、茜にではなく母の菫をここぞとばかりに攻撃した。確かに、金銭的には全く問題はないのだ。茜は、車椅子に座って口角泡を飛ばしながら母を罵倒する祖母に 「みっともないのは父でしょ‼父の方こそ‼みっともない!!父も!!あなたも!!この家も!!」
茜が祖母に口答えしたのはこれが初めてである。そして、茜が祖母の顔を真正面から
直視したのも初めてである。年齢の割にツルリとした肌だったが 茜を見据える顔は憎悪と嫌悪感の塊だった。
「さて、夜も更けたな。それではそろそろ…断っておくがこれから話すことは「クリスマスキャロル」の様なハッピーエンドではない」
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