第6話
茜はその後、一年半前に帰省した時 相変わらず車椅子に固定された喬子を介護施設に預けてはどうかと菫に箴言している。勿論、菫が聞き入れる筈はない。
「大事なお義母様のお世話を赤の他人に任せる訳にはいかない。お義母様の死に水は私の手で……」と、口角を上げて言い切る。一歩も譲らない。
声音も話し方も非常に穏やかだが 茜は母の穏やかな顔の裏に隠された狂気を見せつけられている様で苦しかった。喬子は恐らく息絶えるまで母の思い通りだ。
なぶり殺しにされるだろう事は明白なのに何もできない無力な自分が歯がゆかった。
土方は、初島家の何を知っていて「見るは法楽」などと言ったのか。
いや、土方なら、こんなちっぽけな自分ごときの身辺調査などはお手の物だろう。
時おり訪ねて来る黒服にはそのスジの人間も紛れているはずだから…
それにしても父の惣二が顔を出すとは……
叔母のさくらは言葉を濁していたが、茜は、恐らく相続の決着をつけるつもりなのではないかと思っている。 相当荒れるはずだ。
自分に何か出来るとしたら……やはり、菫と喬子を切り離す様に誘導しなくてはならない。茜は何とか二人を救いたかった。喬子は勿論気の毒だが、あんな風になってしまった菫も元は被害者なのだから。
家の中はかなり様変わりしていた。茜がこの家に戻るつもりがない事を知った菫は 茜の部屋を整理したばかりか大宮に行ったっきりの惣二の書斎も跡形なく片付けてしまった。菫から、残したい物があったら今のうちに言っておいて、と、言われたのは随分前だが、グズグズしている茜と違い、菫は思い切りがいいというか最後通告もないままキレイサッパリ片付けてしまったのである。まぁ、今ではこれで良かったと思っているが。
それより茜が「‼?」と驚いたのは喬子の部屋の引き戸が開け放たれていた事だ。
母屋も離れも平屋建てだがとにかく広い。母屋には30畳のリビングと10畳の仏間が隣り合わせになっていて、普段仕切っているパーテーションを外せば大広間に変身する。廊下を隔てた向かい側に生前の祖父の書斎と、当時は喬子と祖父の寝室だったが祖父亡き後は喬子一人の寝室である。その寝室に当然いるはずの喬子の姿がない。
それどころか以前茜を悩ました臭いもしない。茜は部屋を覗いて小さくアッと言った。部屋の中がすっかり様変わりしている。漆喰壁だったはずの壁には落ち着いた薄いグリーンの壁紙、畳敷きだった床はフローリングに絨毯、カーテンはブラインドシャッターである。
だが、そこには喬子が自慢にしていたロココ調のドレッサーも机も小物入れも何ひとつ見当たらなかった。文字通りがらんどうである。悪い予感しかしないまま廊下を進むと奥まった庭に見慣れないプレハブの小屋が目に入った。
茜の鼻がヒクヒク動き出した。そっと近づいてみると水を打つ音に混じって人の話し声が聞こえる。茜はドアにピッタリ張り付き耳を傍立てた。声は、母と奈津子、そして介護士。ザザっと聞こえるのは喬子の身体を洗い流している音だろう。
前回来た時はなかった小屋である。がらんどうになっていた喬子の部屋とプレハブの小屋。茜は菫の本当の目的が何処にあるのか考えを巡らした。
「さぁ、これで臭いは落ちましたね。これなら皆さんの前に出ても大丈夫ですよ」
介護士が言った。 「ああ良かった!大事な法事の前に清められて」と、母。
「あとはお薬をしっかり飲ませて差し上げれば、明日の本番までぐっすりお休みですよ」
「何の薬?」 茜は息を殺して小屋の裏手に廻り三人が立ち去るのを待った。
三人が引き上げていったのは小一時間ほど後である。プレハブは10畳ほどの広さで
今、使用していた風呂場をパーテーションで仕切り、ベッドが一台あるだけの簡素なものだった。喬子は車椅子からベッドに移されて眠っていた。微かに残った石鹼の香が茜の鼻をくすぐった。しっかり薬を投与された喬子は死んだ様に眠っている。
パジャマの袖を捲ると注射針の跡が痛々しい。「注射痕が多過ぎる…」と、茜は思った。茜の脳裏に、みんな菫とグルなのではないかと云う疑念が芽生え、たちまちドス黒く広がり始めた。
翌日、 仏間に薄化粧を施された喬子が菫の押す車椅子で現れるとすぐに法事が始まった。ご住職の唱えるお経の合間に膳が用意され次々と支度が整っていく。
料理はケータリングが主だったので 茜が子供の頃見てきた光景とは随分違っていた。料理ばかりではなく配膳専門のコンパニオンも派遣されて、台所を仕切る奈津子は随分助かった事だろう。
法事の後の会食は茜が危惧していた通りの展開だったが、相続の事しか口にしない自分勝手な惣二に対する菫の対応は腑に落ちなかった。
菫は、50人ほど集まった縁者の前で 「あなたの好きにしたらいいじゃないですか 私は望むものは何もありませんから」と、絵空事の様な事を言い 菫の実家から出席していた菫の両親を慌てさせた。無論、菫の実家には口を挟む余地も権利も一切ないが、菫の相続分に多大な興味があるらしい事は見え見えだ。
叔母のさくらがため息をつきながら「宇都宮には鬼しかいない」と、よく言っていたのも頷ける。菫が斃れた時も、実家の者は初島家と初島家の親戚に気を遣うばかりで菫を庇おうとしなかった前科がある。
結局茜は、喬子と菫の歪な関係を惣二に相談する事も出来ず、翌日喬子に心を残しながら帰りの新幹線に乗った。父の惣二は決着するまで居座るらしいとは奈津子から聞いたが、決着も何も、菫本人が親戚一同の前で権利放棄に近い宣言をしているのだから一応100パーセントの回答ではないかと茜は思う。
茜が東京に戻った2日後、夜勤で巡回中だった茜のスマホが震えた。
奈津子からである。 家が燃えていると言う。
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