第5話
家政婦の名は入谷奈津子(いりたになつこ)。
茜がもの心ついた頃から初島家に仕えている。入谷の女は代々行儀作法見習いと云う習慣で明治以前から初島家に仕えている。奈津子は六代目だ。
茜が喬子から「アレ」と呼ばれた日 台所で菫と一緒に汗だくになりながら立ち働いていた年寄りは奈津子の祖母にあたる。
祖母は遠くに嫁いで一時期初島家を離れたが、子育てを終え連れ合いを病気で亡くしたあと、当時はまだ存在していた喬子の姑に請われて初島家に戻ってきたのである。
まったく会話の弾まない茜と菫に、奈津子が「若奥様、介護士さんがお見えでございます」と、言ってきた。茜は、菫が応接間から出るや立ち上がると母屋と離れを繋ぐ渡り廊下に出た。喬子の居室に近づくにつれ 茜を悩ます臭気が思い過ごしではなく確信になっていった。
茜がまだ介護の仕事など頭の片隅にもなかった頃。
当時はまだ母への甘えもあり、お金の無心もありの打算的な帰省だったのだが。
その時目にした喬子の変わり果てた姿は衝撃以外のなにものでもなかった。
喬子は、茜がまだ中学二年生の頃 蔵の中で一人籠って探し物をしていた時、頭上から落ちてきた大量の書物や骨董品の下敷きになり、以来、車椅子生活を送っている。
しかし、だからといって喬子の支配力が衰えた訳ではない。
取り分け菫に対する当たり散らし様は常軌を逸していた。惣二が愛人をつくって家に寄り付かなくなったのもこの頃で、喬子の行き場のない怒りは全て菫に向けられた。そして、惣二は茜が大学入学と云う最悪のタイミングで家を棄て、議員の地位も棄てて大宮の愛人宅に転がり込んだのである。喬子は全ての原因を菫のせいにして昼夜問わず責め立てた。にもかかわらず茜が不思議に思ったのは、当の菫がケロリとしていた事である。
茜の知っている、と云うか、刷り込まれている母は いつも物陰で涙を拭っている姿だったが、今は涙どころか薄笑いさえ浮かべている。
茜は、口角泡を飛ばしながら菫を罵倒する祖母より寧ろ 母の不敵な笑みの方が恐ろしかった。
喬子の変わり果てた姿は茜を打ちのめした。
車椅子に両手両足を固定され 口は器具を嵌められて半開き状態だ。
「仕方ないんだよ、こうでもしなきゃ手当たり次第嚙み付くし、ついこの間もガス栓に触って大事になりかけたばかりなんだから」
いつの間にか茜の後ろに菫が立っていてこう言ったのである。
茜は返す言葉が見つからず黙っていたが、喬子の顔や脚に痣を認めると振り返り母と介護士を交互に見やった。この痣は?と喉元まで出かかった時、母が茜の脳裏に芽生えた疑問を察した様に言葉を被せてきた。
「私はいいけど、介護士さんにまで嚙み付く。手足を自由にしたら今度は徘徊。年中生傷が絶えなくて困ったもんだ」 茜は母のもっともらしい言い訳を聞いていたが、祖母に目を戻した瞬間、呼吸をするのも忘れる程 捕らえられた獣の様な祖母を見つめた。祖母が声もなく泣いていたのだ。茜は、この時初めて介護とはなんだろうと考えた。百歩譲って母の言い分が本当だとしても手足を拘束するとはどういう事なのか……重度の認知症と診断されたらしいが、では何故 茜から目を逸らさず涙を流しているのか…… その日を境に、茜は初島の家が、母が恐ろしくて実家に近寄る事ができなかったが、祖母の衝撃的な姿は一日たりとも忘れた事はない。
茜が介護に目覚めたきっかけでもある。
渡り廊下に出た茜は躊躇なく喬子の寝室へ向かった。臭気が強くなり茜は思わず眉根を寄せた。
喬子はカーテンの閉め切った寝室で床に敷かれた布団に横たわっていた。
茜が喬子の枕元に寄ると喬子がうっすら目を開いた。耳元で「茜です」と言うと喬子はせわしなく浅い呼吸をしながら 極微かな声で「ぁぁ……」と応じたが茜と分かった瞬間、大きく見開かれた目から涙が溢れ出した。
茜は、ハッキリ言って喬子は嫌いだ。だが、だからといってこんな仕打ちを…と、怒りが湧き上がってきた時、 「近頃おつむりにも問題があってね」と、菫が中年の女を連れて入ってきた。介護士である。茜は挨拶もせずにいきなり「この臭いは?」と介護士に詰め寄った。介護士はチラと菫に目をくれたが、すぐに何でもないと云う顔で 「ちょっと油断すると排泄物をあちこち塗りたくるんですよ」と、今度は困り顔である。茜が喬子に目を戻すと喬子の目からは滔々と涙が流れているばかりだった。
茜はこの時初めて、これが母、菫の復讐であると気付いた。
叔母のさくらの家で養生していた菫が、離縁を勧めるさくらの心配を他所に「このままでは引き下がれない、必ず復讐する」と、呪詛の様に言っていた事をさくらから聞いて知っていた。そして、菫が異様な若さを保っているのは喬子の生き血を吸っているからだと、茜はこの事実にも気付いてしまったのである。
初島家は茜が言う「修羅の家」そのものであったのだ。
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