第2話

茜の実家は栃木県の那須塩原市である。

小さな町だが新幹線の停車駅で酪農と温泉が売りだ。

茜の父親 初島惣二(そうじ)は32歳で県会議員の重鎮だった父 初島惣一の地盤を継いだが、茜が高校を卒業して東京の大学に進む直前で突然引退した。その後すぐに埼玉県大宮市に囲っていた愛人の家に入り浸りの生活で滅多に帰宅する事はなかった。


茜はもの心ついた頃から 幼いながらにこの家に漂う不穏な空気を敏感に感じ取り、いつかこんな日が来る事を予測していた。


茜の母 菫(すみれ)と惣二の結婚は祝福されるものではなかった。と云う話を聞いたのは茜がまだ中学2年生の夏休みだった。この話を聞く前にある出来事があった事で菫の妹さくらが打ち明けてくれた。さくらは家族に不信を抱き悩んでいた茜をとても不憫に思っていたのである。


茜の両親は「授かり婚」だった。

大学を卒業した茜の父 惣二は父の意のままに宇都宮市の建設会社に就職した。

この会社は長年にわたり県会議員の惣一の地盤を守ってきた支持母体でもある。

同じ部署に 偶然同じ大学を卒業したばかりの菫が配属され二人はすぐに意気投合し恋仲になり、やがて妊娠。

これに激昂したのが惣二の母 喬子(たかこ)である。

喬子の目には、菫は大事な跡取り息子を奪っただけでなく息子の将来をも台無しにした女と映った。と、云うのも喬子は惣二には自分の眼鏡に叶った遠縁の娘を添わせようと目論んでいたからだ。

だが、当主の惣一は愚図愚図不平不満を言い募る喬子に「二人の好きにさせろ」

と一喝したきり二度とこの話題を許さなかった。

喬子の菫に対する意地悪は初めこそ物陰に隠れてのいじましいものだったが、思いがけず惣一が早世した後は誰憚る事もなく、菫を𠮟咤する声が母屋と離れを結ぶ渡り廊下まで響く様になったのである。


茜が幼稚園年長の頃、惣一の地盤を惣二に継がせるべく大勢の支持者たちが母屋の客間に集まっていた。二人いる使用人の一人が急病で来られなくなり、菫はもう一人の高齢の使用人と30人分の酒肴を用意しなければならなかった。仕出し料理は喬子が許さなかった為 台所は戦場と化していた。

恐々 台所を覗いた茜は母にお盆に載った5本のお銚子を客間に持っていく様頼まれそろそろした足取りで渡り廊下を歩いていた時 祖母の声が耳に入ってきた。

「なんであとが出来ないの?このうちの跡取りがいなくなっぺよ、アレ、ホントにあんたの子なの?」 茜の足は動かなくなった。

これまでも祖母の茜に対する態度は優しいものではない。 菫が台所の隅でひっそり涙を拭う姿も度々目撃していた。

心配してすり寄る茜に母は「なんでもないよ、私がノロマだから…」と、いつも同じ言い訳を繰り返していた。  そのくせ父の惣二は会社から戻ると先ずは母屋の喬子の居間に上がり、楽しそうに笑う親子の声が渡り廊下を通じて聞こえてくるのだ。

「ホントにあんたの子なの?」と祖母が言った後、「まあまあまぁ…堪えて堪えて…」と誰かが取りなしたが父の声は聞こえなかった。 茜は自分の事をアレと言った祖母も客間にいる大人たちが皆、鬼に思えた。勿論、父も。


その夜も隣室の女の子は深夜のご帰宅で男連れである。 大体、水商売と云えばそこそこの収入はあるはずなのに、よりにも依ってなんでこんな家に間借り?

しかし、この問いの答えは簡単だ。家賃がとにかく安い。台所もトイレも共同で風呂無しだが戸を閉めてしまえば手足を伸ばして大の字になれるし、今時一万円で借りられる所など有り得ない。

茜は仕方なく耳栓をあてた。明日、と云っても今日になるが9時からの出勤である。

とにかく体力勝負の仕事だから寝不足は避けたい。いきなり残業を強いられる事も日常茶飯事だから常に体力温存に努めなければならない。

隣からぼそぼそ聞こえてくる話し声をBGMに茜が睡魔に襲われ寝入った直後 突然激しい物音がした。物体が薄い壁にミシリと当たり部屋を揺らした。

茜は耳栓を外して壁に耳を押し当てた。激しく泣きじゃくる女の子の口を塞いでいるらしく泣き声は切れ切れに暫く続いた。暫く盗み聞きして大体の事情は吞み込めた。

どうやら男は借金のカタに女の子をソープに預ける約束をしたらしい。

今時そんな?…と思うが茜の全く知らない世界の事で想像もつかないが、男が泣きじゃくる女の子に一年か二年の事だからと必死に拝み倒しているゲスな姿は想像できた。

茜もこれまで数人の男性と交際してきたが、借金の為に恋人さえも売ってしまう神経を持った男には今迄のところ運よく出会っていない。


実家が嫌で嫌で堪らなかった茜は休みになると叔母のさくらの家に逃げ込んだ。

叔母の家は千葉県松戸市で近くはなかったが茜にとって唯一癒される場所だった。

母の実家は宇都宮市だが、両親とも初島家に気をつかうばかりであまり頼りにならなかった。菫が初島家に嫁入る前は考えられない事だったと叔母が寂しそうに言う。

そもそも茜が志望大学を東京にしたのも、父の電撃的なリタイヤで進学はアッサリ棄てて上京したのも とにかく実家が嫌だったからだ。

叔母夫婦を頼りながら最初に就いた仕事が全国チェーンの洋菓子店で、大手派遣会社の斡旋だった。6カ月の契約期間が切れて次に打診されたのがスーパーマーケットのレジ打ちだった。こうして3カ月から一年の契約で色々な職種を渡り歩いた。

たくさんの人たちと接触するうち あっという間に5年の月日が流れ茜は23歳になっていた。

5年の間に茜は何度か、申し訳程度に実家に帰ってはいた。帰る度に胸が抉られた。

目を背けたくなる光景がそこにあったからだが、図らずも、茜が「介護」と云う職業に興味を抱いた時でもある。


名前も知らない隣の女の子はこれからどうするのだろう……

結局眠れぬまま、茜はカーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めていた。


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