「第十四話」死体の無い殺人現場
「遅い……」
アウニルが席を立ってから三十分ぐらいだろうか?
未だに彼女は戻って来ておらず、俺はそろそろ呼びに行くか行かないかという自問自答を繰り返していた。
(いや待て、女のトイレは長いって言うしな……でも三十分も掛かるもんなのか? そもそも男の俺が行って良いのか?)
行く動機の提起、その度に行かない言い訳を探し当てる。
かれこれ俺はこんなくだらない攻防戦を胸の内で繰り広げている。
席を立つのは簡単だ、手洗い場までは一分もかからない。
なのに俺は、未だに勇気を絞ることが出来ていなかった。
「……秘密、か」
ずっとあの言葉が引っかかっているせいだと思う。
事実、俺は今ものすごく怖い。もしもこの最悪の予想が的中し、それが真実であることが証明されたのであれば……俺は人間ではない彼女を、この手で殺さなければならないだろうから。
時間をくれ、と。俺にそう言ったのは彼女だった。
だがしかし。本当に、本当に考える時間が欲しかったのは俺なんじゃないのか?
──ねぇ、なんか臭くない?
乗客のひそひそ声の中に紛れ込んだ違和感を、俺の耳は逃さない。
──ホントだ、臭いね。鉄臭い。
──なんだろうね、これ。
──おい、トイレの方、あれって。
反射的に俺は窓側の席から身を乗り出し、乗客全員が向ける視線の先を見る。
そこには右と左に男女兼用のトイレがそれぞれあった。床には真っ赤な赤いカーペットが敷かれていた……が、しかしどうしたことか? そのカーペットはトイレの間からこの車両の後方まで真っ直ぐ敷かれてはいるが、それの色は純白だ。
答えはただ一つ。
女性用トイレのドアの隙間から染み出した真っ赤な鮮血を、白いカーペッドが吸い上げているのだ。
「──っ!」
立てかけていた剣の布を解き、その刀身を露わにする。それを見た乗客の何人かが叫び声を上げる中、俺は構わず赤く染まったカーペッドを踏みしめた。
「アウニル! おい、聞こえてるか! 返事しろ!」
返事はない。床を見ると、今もなお血が滲み出ている。
「──待ってろ、今助ける!」
ドアノブを掴み、力任せに引っ張り破壊する。
無理やりこじ開けたドアの向こう側、そこには。
「……なんだ、これ」
そこには、死体の無い殺人現場のような惨状が広がっていた。
吐き気を堪えながらも冷静に現場を見る。血が少しずつ固まっていっている……が、まだサラサラな液体のような部分がある。──出血してから、まだそんなに時間は経っていない。
そして、窓。
便器にべっとりとこびりついた血の足跡は、壁を経由して叩き割られている窓の方へ向かっていっていた。そして俺は確信した。これをやったのは、紛れもなく魔女だと。
「──殺す」
怒りに怒りを重ねれば、それは更に強い怒りにしかならない。
呼吸を荒く、神経を極限まで研ぎ澄ますほどの怒りに薪を焚べる。俺は窓から片腕を伸ばし、振り子の応用で電車の上へと飛び乗った。──血の足跡は、まだそこにあった。
「どこだ、どこにいるんだ出てこい!」
柄を握り潰す勢いで、脳の血管が切れるほどの怒りで、その気になればこの列車ごとぶっ壊すような勢いで、俺は自らの怒りのままに叫んだ。
血の足跡を追う。後方の車両へ歩き、飛び乗り……獲物はすぐそこにいる、アウニルはすぐそこにいる。
だが、消えた。
足跡は、一番後ろに連結された車両に辿り着いたところで消えてしまった。
「……?」
眉を顰め痙攣させながら、首を傾げた。
『こんな簡単な罠に嵌ってくれるなんて、あの不老不死のガキを攫った甲斐があったなぁ』
剣を振るうよりも前に、振り返るよりも前に。
ぽん、と。
俺の体は、簡単に地面を離れ……線路の上へと突き飛ばされてしまった。
(しまっ──)
『じゃあね、【執行人】』
その言葉を最後に、俺の後頭部に強い衝撃が走った。
そこから意識を失うまでに、そんなに時間は掛からなかった。
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