第56話 容疑者の帰還①
急ぎ足で坂を上がった隼人は、逃げるように家の玄関に入り、背中でドアを閉めた。
バカなことをした——。
宇佐美の顔が脳裏に浮かぶ。
あの視線、冷ややかな一言。
家の奥からスマホのバイブ音が響き、スマホを置きっぱなしで家を出たことに気付いた。
隼人は靴を脱ぎ、のろのろとリビングへ向かった。
ガラステーブルの上で震えるスマホを手に取ると、画面には皐月の名前が表示されていた。
『すぐに来てちょうだい』
電話越しの皐月の声には普段と違う焦りが滲んでいる。
「明日ではいけませんか? 酒を飲んでしまったので、運転が出来ません」
槐家まで歩いていけない距離ではないが、今夜はもう休みたかった。
『相談したいことがあるの。迎えを頼むから、すぐに来て』
電話を切ると、隼人は大きくため息をついた。
冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、一気に半分ほど飲む。
水道の蛇口をひねり、冷たい水を頭から浴びた。水が頬を伝る。
目を閉じ、冷たい水を浴び続けるが、胸の重苦しさは消えなかった。
車のエンジン音が近づき、家の前で止まった。
車が家の前で止まり、アイドリング音が静まる。
タオルで濡れた頭を拭きながら玄関の扉を開けると、目の前に立っていたのは意外な人物だった。
千香子の夫、須田周平。
「遅くにすみません」周平は恐縮した様子で頭を下げる。「皐月さんから頼まれたんです」
隼人は「ご苦労さまです」と返し、自分もつられるように頭を下げた。
つっかけを履き、助手席に乗り込む。
「何があったんですか?」
隼人が尋ねても、周平は「皐月さんに直接聞いてください」と申し訳なさそうに答え、エンジンをかけた。
こんな夜中にいったい何の用だろう——。
そうあやしみながらも、隼人の胸の中には別のもやがくすぶり続けていた。
車は舗装された川沿いの道を静かに走り始めた。
だが数分も走らないうちに、周平は車を停める。
「——あのぉ……」
周平は一瞬躊躇をみせた後、おずおずと口を開いた。
「今日、千香子と会いましたよね?」
「はい」
「何か、ありましたか? 千香子、元気がないんです」
「……はあ」
千香子がいない所で、彼女の過去の話を夫に話すわけにはいかない。
「私には心当たりがありません」
隼人は表情を変えずに答え、ごまかした。
「そうですか……」
周平は肩を落とし、再び車を走らせた。
そのまま走り続けることまた数分。
周平は自分の家の前まで来ると、車庫に車を入れ始めた。
「皐月さんの家に行くんじゃないんですか?」
隼人が怪訝そうに尋ねると、周平はハンドルを握ったまま答えた。
「皐月さんは、うちにいます。昨日から今日までの防犯カメラの映像を全部録画して、うちに持ってきました」
隼人は驚いた。そんなことをあの年齢の女性が一人でできるものなのか。
「いえ、皐月さんに頼まれて、僕がやりました」
周平は軽く頭を下げ、言葉を続ける。
「映像は、善之さんも警察も見ていません。皐月さんと僕と……千香子だけです……」
千香子と、妻の名前を出しながら、周平は隼人の顔をじっと見つめた。
まるで隼人の反応を探るかのように。
隼人は眉を寄せた。
まさか自分は、千香子との不倫を周平に疑われているのか?
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