第54話 恋なんてするもんじゃない⑭
千香子と話しているうちに、隼人の酔いはすっかり冷めてしまった。
一人になると、また酔いたいがために酒を手に取った。
普段の隼人には飲酒の習慣はない。
秋子の葬儀後の会食用に大量に用意された酒が余っており、それを適当に飲んでいるだけだ。
酒に強いわけでも弱いわけでもないが、思考が鈍るため、人と会うときは飲酒を避けてきた。
結局、隼人が駐在所の前に立ったのは、すっかり日が暮れてからだった。
重箱とワインを手に、ガラス扉の前に立つと、宇佐美がすぐに引き戸を開けた。
隼人は目を伏せたまま、頭を下げる。
「皐月さんから夕飯の差し入れです。こっちは私からです」
隼人は中に入ると、重箱とワインを事務机の上に置いた。
「ありがとうございます。助かります」
宇佐美が微笑む。
——早く持ってくればよかった。皐月も、温かいものは冷めないうちに食べてもらいたかっただろう。
隼人がワインを注ごうとすると、宇佐美が手で制して断った。
「いつ運転する事態になるか分かりませんから」
宇佐美はまだ、田所の身になにか起きたのではと思っているようだ。
「形だけ」
と隼人は宇佐美のグラスに三分の一ほどワインを注ぎ、自分のグラスにはなみなみと注いだ。
「もうかなりお過ごしのようですが」
グラスを一気に飲み干した隼人を見ながら、宇佐美が非難する風もなく言った。
「あなたが怖くて、酒の力を借りないと会いに来られませんでした」
口にしてから、馬鹿なことを言ってしまったと後悔したが、宇佐美は何も聞き返してこなかった。
涼しい顔で、箸を動かしている。
「昼間、お堂のことをお聞きになりましたね」
隼人は、秋子が遺した蛇神村の地図を広げた。
「さっき、調べてきました」
関心を示すかと思ったが、宇佐美はほんのわずか顔を歪めた。不快そうにも見える。
「どうしました? もう興味はないんですか?」
隼人が尋ねると、宇佐美は作り笑いを浮かべた。
「いえ、そんなことはありません。どこにあるんですか?」
昼間訪ねてきたときは興味津々といった顔つきだったが、今はそれどころではないのかもしれない。
研修に来たというのに、指導役の田所が戻らず、知らない土地で一人きりなのだから無理もないだろう。
「……私の記憶では、この辺りにお堂のような建物があった気がします。さっき見に行ったら、本殿の裏はロープが張られて通行止めになっていました」
「そこには近づけないんですか?」
「庵主さんに聞きましたら、足場が悪いので立入禁止だそうです。山に入るなら明るいうちにした方がいい、とも言われました」
「庵主さん? お寺もあるんですか?」
「私は二十年前にこの村を出たので、詳しい経緯は分かりませんが、数年前に皐月さんがお寺を建てて、知り合いの尼さんを迎えたそうです」
宇佐美に寺の説明をしながら、隼人は皐月がどこに寺を建てたのかと疑問に思えてきた。
蛇面神社が建つ山のどこに寺があるのだ?
庵主の妙恵は、たった一人でそこに住んでいるのか?
秋子の地図を見るが、寺を示す記述はどこにもなかった。
「宮司さんはいらっしゃらないんですか?」
宮司——?
夜神楽を取り仕切るのは槐善之の役目だった。
だが、この村に本物の宮司を呼んだことがあったのだろうか。
「——私が子どもの頃から、あの神社は無人で、村が管理してきました。祭事には、他所の神社から宮司さんをお呼びしていたのかもしれませんが、詳しいことは分かりません」
隼人はまた、妙恵のことを考えた。
『ダメよ。ちゃんと思い出して』
妙恵がそう言いながら、隼人の肘を軽く叩いた記憶がよみがえる。
二十年前のことを思い出せと——。
あれはいったい、何の暗示だったのか?
だが、そうだ。まだ何かある。
自分はまだ思い出さなければならないことがある……。
机に広げられた地図を見ていた宇佐美が、地図の右端を指差した。
「この『あねさんころがし』って、なんですか?」
その白く繊細な指先に、隼人の視線が吸い寄せられる。
そしてそのまま、隼人の思考は止まった。
人柱を立てた跡だと宇佐美に説明しながら、隼人は自分を呪った。
こんな自分にはもう耐えられない。認めたくない——。
隼人はまたグラスにワインを注いだ。
淫らな妄想を打ち消すように酒を煽った。
もう潮時だ。ここを出よう。
今さら二十年前のことを掘り起こして、何になる?
槐省吾は亡くなった。あのときの子どもも見つからない。
自分にできることなど何もない。
「この地図は、隼人さんが書いたんですか?」
その声に、隼人はふと我に返った。
いい声だな、とぼんやりした頭で隼人は思う。
つい、この声を録音し密かな楽しみにしたいという衝動が浮かび、すぐに自分の浅ましさを恥じた。
「——いえ、祖母が書いたものです。祖母は生前、村の様子や歴史をブログに記していました」
「『アカシア日記』ですか?」
「読んでくれましたか?」
宇佐美が祖母のサイトを訪れてくれていたことが、隼人には嬉しい驚きだった。
心が少しほぐれていく。
村を出たら、この人と会うこともないだろう——。
そんな考えがふと胸をよぎると、なんだか泣きたくなった。
情けない。
酔っているだけだ。
だが酒のせいにして、感情に身を任せてもいいのかもしれない。
もうあれこれ悩むのも疲れた……。
「宇佐美さん」
「はい」
「いつ東京に戻られるんですか?」
「こういう状況ですから、いつになるか分かりません」
「——東京に戻ったら、一緒に食事しませんか?」
「いいですね」
「——適当に答えていますね。私は真剣ですよ」
「食事どころじゃないでしょう! 田所さんの件が片付くまで村から出ないように、延寿署から言われませんでしたか?」
やはり、今夜村を出よう……。
「何も言われていません——私のところに警察は来ていませんでしたし」
田所と連絡が取れなくても、延寿署の人間は誰も事件性があるとは考えていない。
地域課課長の梁取は、青木たちが酔いつぶれた田所をかばっていると決めつけていた。
「……私が今朝見たのは田所さんではありませんでした。別の人です——槐さんの家に向かって自転車で走っていくのを見ました。紙袋を持っていました」
隼人は皐月に言われた通り、自分が見聞きしたことを、なげやりな気分で宇佐美に話した。
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