第53話 恋なんてするもんじゃない⑬
「——千香子さん、二十年前の夜神楽で、白いワンピースを着ていませんでしたか?」
隼人は目を閉じ、眉間にシワを寄せた。
遠い過去の記憶を懸命に掘り起こす。
「……私は、ついさっきまで、あの日に神社に行ったことを忘れていました……あの夜、私は省吾さんが探している子供に会っています……あの子は父親を探して、林の中に行ってしまったんです……私は助けを呼びに走りました……」
話しながら、隼人の記憶が次々と蘇ってくる。
少女が着ていた白いワンピース――その細い肩紐まで思い出せた。
泣きべそをかきながらロープを潜っていく子供を連れ戻そうとしなかった理由さえも、今やはっきりと思い出していた。
「……助けを求めて走り、石段を下りたら——途中の腰掛けに、省吾さんがいました……隣には女の子がいたんです」
目を瞑っていた隼人には分からなかったが、千香子がブルっと身体を震わせた。
「——子供が林の中に入っていったと話したら、省吾さんはすぐに、その子を助けに行きました……『林の先には、危険な崖がある』と言って、慌てて走って行ったんです。一緒にいた女の子もついていこうとしましたが、省吾さんは、その子を止めたんです……『ここにいてくれ、行き違いになったら嫌だ』って——」
隼人は目を開けて千香子を見た。
「あそこにいたのは、千香子さんですか?」
なんの根拠もない。ただの当てずっぽうだ。
省吾と千香子は同い年で、親しい仲だったと記憶しているだけだった。
千香子は投げ出していた足を揃え、膝に置いた手をじっと見つめていた。
「——それ、あたしじゃないよ。あたしは、その日、村にいなかった……省吾と夜神楽に行く約束はしてたけど……」
千香子は顔を上げて、苦く笑った。
「駅で待ち合わせしてたのに、省吾は来なかったんだよ」
椅子にもたれ、ぼんやりした顔で、千香子は続けた。
「——子供の頃、いつも省吾と一緒だった。親が離婚して、母さんが私を連れて村を出た時……省吾にお別れも言えなくて……めっちゃ泣いた。でも、中学で省吾と再会出来た」
ホント嬉しかったと、千香子は寂しそうに笑った。
「中学ん時、省吾は有名人だった。顔も頭もいいし、スポーツ万能で品行方正、おまけに資産家の跡取り……村にいた頃みたいに、あたしだけの省吾じゃなくなってた。でもさ、女子の中じゃあ、あたしが一番仲がいいって、調子に乗ってたんだ……高校も、おんなじとこ行きたかったけど、大学の付属校なんて行けるほど、頭もお金もないし……だから、高校行ってからの省吾のことは、よく知らない……」
「でも、二十年前の夜神楽は、省吾さんと一緒に行く約束をしたんですね?」
千香子はゆっくりと、うなずいた。
「——高校でも、省吾はフアンクラブ出来るくらいモテてた。その中で一番可愛い子と付き合ってるって噂、聞いて……もう諦めようって、思ったんだけど、どうしても出来なくって……駅で待ち伏せして、告白したの——そしたら、省吾も、好きだって言ってくれた……付き合おうって……その時、週末の夜神楽に行く約束したんだけど……あたしは、何年も会ってないお父さんに会いたくなかった……酒飲んで、暴れる父さんしか覚えてなかったから……そう言ったら省吾は、バスで一緒に行こうって……ずっと側にいるって、言ってくれたの。だから、駅で待ってた……」
千香子の声が震えている。
泣き出すのかと隼人が思った次の瞬間、千香子は急に顔を上げてニッコリ微笑んだ。
「でも、会えなかった。省吾は駅に来なかった。だから、石段にいたのは、あたしじゃない。きっと高校で出来た彼女だよ」
「その彼女が、省吾さんを訴えた少女ですか?」
「隼人くん!」
千香子が非難するような声を上げた。
「それ作り話だったんだよ!」
「分かってます。何の証拠も出なかったんですよね」
訴えた少女の体内に残っていた精子のDNAは、省吾のものと一致しなかった。
だからこそ省吾の疑いは晴れたのだが、被害者の親たちの怒りは収まらなかった。
槐の家が圧力をかけて証拠をもみ消したのだと言い張った。
「その子、他の男と遊んでたのに」千香子は汚らしそうに顔をしかめる。
「それを省吾のせいにしようとしたんだよ!」
「その女の子の名前を覚えてますか?」
「沙也加。名字は忘れた。気になるんなら、沢木さんとこの嫁に聞くといいよ」
「沢木さんのお嫁さんですか?」
「違う。息子の嫁。琴絵」
千香子は嫌な顔をした。
「うちの中学から、省吾と同じ高校行ったの琴絵だけなの。省吾のフアンクラブ作ったの琴絵だし、高校に入ってからの省吾や、沙也加のことも琴絵なら知ってるよ——あたし、中学ん時。琴絵にすごい意地悪された。省吾にベタベタしてたからだと思う。だから沙也加も嫌われてたかもしれない」
隼人は考え込んだ後、再び問いかけた。
「省吾さんは子供を助けに向かう時、『ここで待っててくれ、行き違いになったらイヤだ』——そう、女の子に言って、走って行ったんです」
いつも落ち着いている省吾がひどく慌てていたのを、隼人ははっきり思い出していた。
「省吾さんは、あそこで誰かを——千香子さんを待っていたんじゃないんですか? 携帯で省吾さんと連絡は出来なかったんですか?」
「……落としちゃったの」
千香子はうつむいたまま、小さく肩をすくめた。
「カバンに入れてたと思ってたのに、なくって——親切な人が交番に届けてくれたから、次の日に出てきたんだけどね……」
突然、ロック調の曲が大音量で流れた。千香子がカバンからスマホを取り出す。
「——スラダン観た? マジで良かった。絶対観た方がいいよ」
千香子がスマホを開くと疾走感のある曲が止まった。
「——ごめん、もうちょっと待って、周平くんとファミレスでご飯食べててよ——事件が起きて、新しい駐在さんの歓迎会なくなった——もう少ししたら、そっち行くから、詳しく話す」
スマホを閉じた千香子は笑顔を作ったが、その表情はどこか強張っていた。
「娘から。今夜、皐月さんの家で夕食会だったんだけど、こうなったら、それどころじゃないよね。田所さん、無事だといいね」
隼人は何も言わなかった。
いま千香子の口からききたいことは、そんなことではない。
「……携帯にメッセージ入ってたよ……省吾から……神社の石段にいるって……たくさんメッセージ来てた……でもそれ聞いたの翌日だった。携帯手に入ってから、省吾に何度連絡してもつながらなくって……そのうち、無理やりエッチして彼女から訴えられたって、噂きいて……もう、省吾に連絡すんの、やめちゃった……」
千香子は、隼人から顔を背けたまま立ち上がった。
「——あの時、蛇神村行きのバス、何本も見送ったんだよ……意地、張ってさ、ずっと駅前のベンチにいたの……」
バスに乗ればよかったと呟いて、千香子は部屋を出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます