第52話 恋なんてするもんじゃない⑫
『オフィス溝端』は、溝端京介という探偵の個人事務所だった。
顧客が調査を依頼したことを知られたくない場合、『オフイス溝端』という名で領収書を発行する仕組みらしい。
「……知り合いの女性が、そこに百二十万払ってるんだが——」
電話の向こうで前川がクスリと笑った。
『隼人さん、女性から浮気調査されちゃいました?』
「浮気調査」と聞いた瞬間、隼人の脳裏に浮かんだのは、千香子の夫、周平の顔だった。だが、彼は浮気をするような男にはとても思えない。
『今夜、東京に戻ってくるんですよね? そのあたりも含めて、詳しい話を聞かせて下さいよ。何時頃になります?』
前川の軽い調子を受け流し、隼人は切り出した。
「……なあ、省吾さんが暴行した女の子って——」
『ダメですよ!』
前川の声が急に低くなった。
『その件にはもう関わらないで下さいって、お願いしたじゃないですか!』
隼人は口を開きかけたが、前川はさらに言葉を続ける。
『省吾さんは、ヤバいところを怒らせちゃったんです。そんな人に関わっていると、そのうち隼人さんまで消されちゃいますよ。結局、泣く子と地頭には勝てないんです』
泣く子と地頭には勝てない――。
前川は、上手いことを言う。
電話を終えた後も、隼人はしばらくソファーに座って考え込んだ。
省吾はもうこの世にいないと、善之は言っていたが、それは本当だろうか?
いったい省吾は何をして、誰に目をつけられたのだ?
地頭には勝てない。
そして泣く子にも——。
隼人の脳裏に迷子の男の子の姿が蘇る。
あの夜、泣きながら林の奥へと消えていった子供。
今まで忘れていたが、自分もその場にいた。
当事者だった。
呼び鈴の音に隼人は、ハッとなった。
玄関ドアが開く音、そして――。
「隼人くんいる?」
須田千香子の声だった。
「いますよ」
返事をすると、千香子が慌ただしくリビングに入って来た。
「ねえ、田所さん殺されたの?」
千香子は隼人の向かいの椅子にどさっと腰を下ろすと、早口でまくしたて始めた。
「皐月さんから頼まれて『歌姫』に行ったの。栞里さんが押しかけて来て、大変だったんだって! 警察も来たし、田所さんが見つからないってどういうこと? あの人、また何かやらかしたの? 隼人くんは、何か証拠、握ってるんでしょ? 宇佐美さんが嫌いだから黙ってるの?」
早口に圧倒されながらも、隼人は丁寧に耳を傾けていた。だが途中で話の筋がよく分からなくなってきた。
聞き捨てならないのは最後の言葉だ。
「……私が宇佐美さんを気に入らないと、誰が言ったんですか?」
「小春さん。『隼人は宇佐美さんと口もききたくないみたいだ』って」
「……私が握っている証拠とは、なんです?」
「皐月さんが言ってたよ。田所さん失踪事件の重大な情報を持ってる、みたいなこと」
自転車で去った男が田所ではないという話かと、隼人は合点がいった。
「二人の話をつなぎあわせると、隼人くんは宇佐美さんが嫌いだから、殺人事件の情報提供を拒んでるってことになるよね」
「なりませんよ」
隼人は呆れた。
「田所さんが亡くなったと決まったわけでもありません」
「なーんだ、つまんない」
千香子は椅子にもたれかかり、足を投げ出した。
「『歌姫』で何があったんです?」
「栞里さんが店に押しかけて、うちの亭主どこやったんだって『歌姫』のママと揉めたらしいの。それで警察が来たんだってさ」
「延寿署ではなく、八王子の警察が来たんですか?」
「そう。八王子の警察」
千香子は興味なさそうにうなずいた。部屋に入ったときの勢いはすっかり消え失せている。
「あたしさ、あの人、違うと思うよ」
「何がです?」
「あそこのママ、美人だった。色っぽいし。絶対に田所さんの愛人なんかじゃないよ。もっと大物がバックについてると思う。田所さんが勝手に、自分の女だとか言ってただけじゃないの?」
千香子は伸びをしながら大あくびをした。
「さあて、そろそろ娘ちゃんを迎えに行くかな」
立ち上がりかけた千香子に、隼人は例の領収書を差し出した。
「これを見てください。祖母のベッドを片付けた時に出てきたんですが、何か分かりますか?」
「秋子さんのだよ。あたしは名前を貸しただけ」
「探偵事務所からの領収書のようですが、祖母は何を調べていたんですか?」
「田所さんの女」
「と、いいますと——そのスナックのママですか?」
「ノンノンノンノン」
千香子は人差し指を振った。
「昔のだよ。ホント、女にだらしない男って嫌だよね。その点、うちの周平くんは清潔感たっぷりでしょ? タンパク質と優しさでできてるって感じ。あたしってホント、幸せ者だわ」
「田所さんの昔の女性関係を、なぜ祖母が調べていたんですか?」
「田所さんが表彰されるって決まって、秋子さん、それをブログに書いたの。そしたら変な手紙が来ちゃってさ、田所さんの昔の悪事がズラッと書いてあったんだけど、秋子さん、それを書いた犯人を突き止めたかったの」
「なぜ祖母は、千香子さんの名前を借りたんですか?」
「最初、皐月さんに相談したんだけど、放っておけって言われたの。でも秋子さん,
気になってるみたいだから、探偵事務所にでも頼もっかって、あたしが持ちかけたの。栞里さんのとこにも同じような手紙来てたみたいだから、気持ち悪いじゃん。皐月さんにバレてもあたしが勝手にやったことにすれば、女の友情にヒビ入んないでしょ」
「その手紙の送り主は分かったんですか?」
「秋子さん、直接会いに行ってた。会ってみたら気の毒な人だったって言ってたよ。それからすぐだった……秋子さん、亡くなったの……」
千香子は急にしんみりとした顔になった。
「……もう行くわ」
立ち上がりかけた千香子を、隼人は止めた。
「千香子さん、もう一つお聞きしたいことがあります」
千香子は再び腰をおろし、何?というように隼人を見た。
「二十年前の夜神楽の日、あなたはこの村にいましたか? 神社の石段にある腰掛けに、省吾さんと一緒に座っていませんでしたか?」
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