第51話 恋なんてするもんじゃない⑪
神社の石段の前に立った時も、つい駐在所に目を向けてしまう。
彼は中にいるのだろうか……。
日が傾き始めた。
五月晴れの穏やかな一日が終わろうとしている。
隼人は石段を上り始めた。
周囲には誰の姿もない。
両脇に植えられたアカシアの木が、風にざわざわと揺れていた。
葉の擦れ合う音が耳にまとわりつく。
まるで無数のささやき声が隼人を見送っているかのようだった。
長い石段の途中に、狭いが踊り場があった。
苔むした小さな石の腰掛けが脇に置かれている。
隼人はふと立ち止まり、その苔の生えた腰掛けを見た。
誰かが座っているような気がしたが、無論誰もいない。
再び歩き始めた。
この村は過去何度も水害に見舞われてきた。
高台に建てられた蛇面神社は、信仰の場だけでなく、災害時の避難場所でもあった。
隼人も子どもの頃、一度だけこの神社に避難したことがある。
年寄りたちは川が静まるよう、夜通し拝んでいた。
隼人の家は無事だったが、土砂に押しつぶされた家もあった。
あの時、ハナの家も流された――。
「信心が足りないからだ」
家を失った家族に、隼人の祖父はそう言い放った。
その冷酷な言葉に当時の隼人は疑問を抱かなかったが、今ならその愚かしさがわかる。
石段を上りきると、村が一望できた。
この村自体が巨大な蛇のようだ。
大きな「頭」は槐家の大きな屋敷とその庭園。
家々が細長く続き、「尾」の先、もっとも低い土地にあるのがハナの家だ。
ハナを思う隼人の心中は、複雑だ。
祖父が祖母を責めていた理由は、祖母が子供を産めなかったからだ。
隼人は物心ついた時から、自分の母親が養女なのを知っていた。
村中みんな知っている。
皆が知らないのは、隼人の母親、怜子が誰の子かということだ。
槐善之の紹介で貰われてきた、どこかの落とし胤のように思われていたが、そんな大層な話ではなかった。
怜子は、善之本人がハナに産ませた子だったのだ。
善之の剣幕からすると誰にも知られたくない秘密なのだろう。
——こんなに、狭かったか……。
境内に足を踏み入れると、記憶と現実の差異に戸惑った。
記憶の中の境内は広大で、拝殿も荘厳だったはずだ。
隼人は本殿の裏に回った。
綱が張られていた。
『コノ先キケン』と赤いペンキで書かれた、古びた木札が下がっている。
綱の向こうは、鬱蒼とした林が広がっていた。
湿った土と枯葉の匂いがする。
——この先に避難所があったはずだ。
宇佐美の言う『お堂』とは、それだったかもしれない。
隼人が綱を潜り抜けようとしたその時――。
「そっちに行っては行けませんよ」
女の声に振り返ると、袈裟を着た尼僧が立っていた。
「足場が悪くて、危険です」
確かにもう薄暗い。
隼人は諦めてロープを戻し、尼僧に近づいた。
秋子が遺した地図を見せる。
「この辺りにお堂はありますか?」と隼人は地図を指した。
「あら、秋子さんが書いた地図ですね」と尼は顔を綻ばす。
「私は秋子の孫の隼人です」
隼人が名乗ると、尼は嬉しそうに目を細めた。
「私は慈恵院の妙恵と申します」
「ああ、庵主様ですか……」
皐月が慈恵院という尼寺を建てたという話は聞いていたが、詳しい話は知らなかった。
「林の奥に立派なお堂があります。でも明るい時に探検なさった方がいいですよ」
秋子の孫だと分かったからか、子供を諭すような優しい口調だった。
隼人は地図上の別の場所を指した。
「この『あねさんころがし』とは、何でしょう?」
「昔、人柱を立てた跡ですよ。いつか手を合わせに行って下さいね。とても危ない場所なので、それこそ明るい時じゃないと、ダメですよ」
妙恵は、隼人と並んで歩きながら、村に嫁としてやってきた女たちがどんなひどい目に合ってきたかを語った。
「何人もの女の人が崖から落とされたんです。どうか、供養してあげて下さいね」
隼人が初めて聞く村の歴史だった。
「隼人さん、この神社に最後に来たのはいつですか?」
妙恵の問いに隼人は眉を寄せた。
まったく思い出せない。
妙恵がポンと隼人の肘を叩いた。「ダメよ。ちゃんと思い出して」と笑った。
この村を出てからは一度も神社に来ていない。
ということは、十歳の子供の時が最後か——。
石段に差し掛かり、妙恵に挨拶をしようと振り返った。
だが、そこには誰もいなかった。
自分の庵に戻ったのだろう……。
そう考えながら石段を下りた隼人は、再び腰掛けの前で足を止める。
今度こそ誰かがそこにいるような気がした。
――白いワンピースの女の子!
記憶が一気に鮮明になる。
そうだ! 自分が最後にこの神社に来たのは二十年前の夜神楽の日だ。
あの夜、迷子の子供「ショウゴ」とも会っている!
どこからか、女の子の笑い声が聞こえた。
だがもちろん、空耳。
アカシアの木が揺れているだけだった。
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