第45話 恋なんてするもんじゃない⑤
宇佐美が二階から下りてきても、隼人は努めて彼を見ないようにした。
その存在を意識しないために。
自分にはもっと大事なことがある!
午後には荷物をまとめて村を出ようと隼人は決めた。
祖母の秋子が病気になっても、一度見舞いに来ただけで、あとは皐月や小春に任せっきりだった。
隼人の母親はさらに冷たかった。
その負い目からか、隼人は皐月に頼まれたことを引き受けてきた。
今後、祖母が眠る矢野家の墓参りも一番やってくれるであろう、小春の用事も手伝った。
だがもう十分だろう。
村での滞在中、頭の片隅にあったビジネスのアイデアがまとまりつつある。
そろそろ腰を上げて動き出さなければ。
「田所さんは、いつ頃お戻りになられますか?」
宇佐美の声が隼人の耳に届いた。
その時、隼人は(聞こえない、聞こえない)と自分に暗示をかけた。
駐在所を出たら秘書に連絡し、ホテルを取らせる。タクシーを呼んで村を出る。
その段取りを呪文のように心の中で繰り返す。
「まだ帰ってこないの?」
今度は小春の声がした。自分に向けられているようだ。
隼人は無言でうなずいた。
「朝、出て行ったきりなの? 栞里さんは?」
知らない——そう答えるのも億劫だったが、幸い沢木が代わりに応えてくれた。
「栞里さんは、九時前くらいに田所さんを探しに行ったよ——田所さんの方は朝見たっきり、会ってないなあ——朝五時半くらいに、自転車が倒れる音が二回もして、起きちゃってさ、外出たら、田所さんが自転車に乗って坂上がって行くのが見えたよ」
「私たちも、そんくらいの時間に田所さん、見たね」
小春が隼人に顔を向ける。
「自転車のベル、うるさくならしながら、皐月さんの家の方に走っていったよね?」
小春は何度も自分に話を振ってくる。
隼人は内心で訴えた。
放っておいてください……。この会話に入ったら、忘れたい存在を意識しなくてはならなくなる。
「それから、ずっとお戻りではないんですか?」
宇佐美の声。
——心が掻き乱される。
どうして彼の何もかもが、自分の琴線に触れるのか——もううんざりだ。
「田所さん、皐月さんのとこに行ってないの?」
小春が皐月に問う。
「いいえ。今日は一度も田所さんと会っていません」
静かに皐月が答える。
皆は田所が行きつけにしているスナック『歌姫』のママの話を始めた。
自分には関係ないと、隼人は今後の仕事の計画について頭を働かせた。
「隼人さん!」
ハッとなり顔を上げると、宇佐美と目が合った。
「今朝、自転車に乗っていたのは田所さんでしたか?」
「そうだよね、隼人!」
小春が畳みかける。
「どうなんです。隼人さん」
皐月も穏やかな声で促す。
だが小春も皐月もどうでもいい。
宇佐美の瞳が自分を見つめている——。
隼人は目をそらしながら、「……はあ……まあ……」と曖昧に呟いた。
「なんだよ! はっきりしないね!」
小春が苛立ちを隠さず声を張り上げる。
「隼人! 宇佐美さんが知りたがってるんだから、しっかりしな!」
「まあまあ、隼人さんは、栞里さんの代わりにここを掃除して疲れてるんだよ」
沢木が間に入るように言った。
「第一さ、警官の制服着る人なんか、この村に田所さん以外いないんだし、制服着て、いつもの自転車に乗ってたんだから、田所さんに決まってるよ——やだなあ宇佐美さん、怖い顔しないでよ」
沢木がどれだけ場を和ませようとしても、宇佐美は納得していないようだった。
沢木と小春に今朝の状況を聞き取った後、スマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「蛇神村駐在所で研修中の宇佐美です。至急、応援お願いします——」
宇佐美の口調の真剣さに、その場にいた全員が箸を止めた。
昼食会は思わぬ展開を見せ、早々にお開きとなった。
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