第44話 恋なんてするもんじゃない④

 何かがおかしい。

 いったい自分はどうしてしまったのか。


(ああ、そうか……疲れているんだ)


 重たいウッドカーペットを肩から下ろした隼人は、自分が導き出した結論に安堵した。

 栞里に半ば強引に駐在所の掃除を押しつけられてから、休む間もなく動き続けている。

 疲れが出ても不思議はない——そう思い込むことで、自分の動揺を正当化したかった。


 だが、その安堵も束の間だった。

 彼が駐在所に入ってきた。


「田所さんは、まだお戻りではないんですね」

 涼し気な声が耳に入るだけで、隼人の身体は再び緊張に包まれる。


 まただ——。

 なぜこんなにも交感神経が過剰に反応するのかわからない。

 動悸、めまい、発汗、緊張——まるで体が勝手に反応しているかのようだ。


「着替えをしたいのですが、お部屋をお借りできますか?」


 その言葉に、隼人はなんとか「二階を使ってください」と返したが、声がかすれた。

 それでも伝わったのか、彼は「ありがとうございます」と礼を言い、二階へ上がっていった。

 隼人は深呼吸をして、なんとか平静を取り戻そうとする。


(平常心を取り戻さなければ——)


 彼の名前は……宇佐美さんだったか。

 そう思い出しながら、隼人は作業に戻る。


 二階に文机を運び、ゴザを鋲で留めれば作業は完了する。

 家に戻ってもこの不調が治らなければ、午後にでも病院に行ったほうがいいのかもしれない。

 ため息をつき、隼人は二階へ向かった。


 二階に上がると、宇佐美が蛇の面の前に立っていた。

 着替えの途中なのか、シャツのボタンが外れ、肌が露わになっている。

 その姿に、隼人は一瞬で視線を逸らした。


「これは何ですか?」

 宇佐美が蛇の面を指しながら尋ねてきた。


「……魔除けの面です……気味悪いなら、片付けます」


 宇佐美の問いに答えながらも、隼人はなぜか胸の奥に苛立ちを感じていた。

 理由がわからない。


「この村では、皆さんこうした面を家に飾っているのですか?」


「……私が子どもの頃は、そうでした」


 ゴザを鋲で留めながら、隼人は自分の内面に湧き上がる感情を探った。

 なぜ、不快に感じる? なぜ、彼の言葉や仕草に腹が立つ?


「こちらの神社に古いお堂があるそうですね。それも文化財に指定されているんですか?」


 宇佐美の言葉に、隼人は一瞬手を止めた。

「お堂ですか? どこのことだろう……」


 文化財に指定された建物は『うねり橋』以外にもあるのだろうか?

 観光客に案内を頼まれた時のような素直な気持ちで考え込む。


「林の中に建っているらしいんです」

 宇佐美は隼人の前に正座し、「ご存じありませんか」と顔を覗き込んできた。


 その瞬間、隼人の全身に血が逆流するような感覚が走った。

 宇佐美と視線を合わせた途端、頭が真っ白になる。


「宇佐美さあん! うどん出来たよ!」


 下から呼ぶ沢木の声に、隼人は勢いよく立ち上がった。

 逃げるように階段を駆け下りる。


 階下では皐月、小春、そして沢木が、じっと隼人を見つめていた。


「隼人さん」

 皐月が低く静かな声で言った。

「宇佐美さんって、どんな方?」


 隼人は「知りませんよ!」と叫びたかった。


「もし誠実な方なら、省吾のことを相談してみようと思うの」


 皐月の言葉に、小春と沢木がうなずく。


「皐月さんのお孫さん、無実なのに警察に追われてひどい目にあってるだろ?」

 沢木が眉をひそめる。


「こうしてる間にも真犯人は野放しじゃんか」と小春が続く。

「宇佐美さんって、そういう話を聞いてくれそうな人かい?」


 隼人は目を閉じた。

 皐月の気持ちも、小春や沢木の正義感も、理解できる。

 だが——いまの自分は、それどころではない。


 二階での不快感の正体が、隼人にはわかってしまったのだ。


 ——あろうことか、自分は彼に欲情した。


 羞恥と自己嫌悪が胸を締めつける。

 このまま駐在所を飛び出したい——。


「どうなんだい、隼人!」

 小春が問い詰める。


「……私は……あの人とは、関わり合いたくないです」

 隼人は横を向き、険しい表情で呟いた。

「……好きになることは、ありません……」


 小春と沢木が、がっかりしたように息を吐く。

 皐月はじっと隼人を見つめた。

 隼人は誰とも目を合わせようとせず、顔を背けたまま。


「……お話があるのでしたら、みなさんで、なさって下さい」

 


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