第21話 あねさんころがし⑥

 懐中電灯の明かりを頼りに暗い石段を上がるたび、宇佐美は心の奥底がじわじわ沈んでいくのを感じた。

 暗闇の中、一人で歩いている不安だけではない。

 この村の人は皆、親切だ。

 世話になりっぱなしだというのに、宇佐美はここで会った全員に疑念の目を向けている。

 仕事で疲れているのに質問応じ、カップ麺を差し出してくれた幸吉でさえもだ。


 観光で訪れただけなら、どれほど気が楽だったか。

 少なくともただの研修ならよかったのに——。


 ふと、昼間うどんを囲んでいた時の光景が脳裏に浮かぶ。

「僕の上司が子どもの頃、こちらの神社で蛇の化け物を見たそうです。身体は一つなのに頭はいくつもあり、手足が何本も生えていたそうです」

 もしそう話していたら、沢木や隼人、皐月たちはどう反応しただろうか。


「ここは神奈川県! 未開の地じゃないんだよ」と小春は大笑いし、皐月さつきは口に手を当てて、あらいやだと品よく微笑んだかもしれない。

「じゃあ今から神社を案内します」と誰かが言い出したなら、宇佐美は喜んでついて行っただろう。


(田所さん、お願いですから無事に帰って来て下さい)


 田所がもうこの世にはいないという自分の勘が外れることを、宇佐美は切に願っていた。

 隼人の言うことが真実ならば、その方がいい。

 



 石段を登り切り、一礼して鳥居をくぐった先は、漆黒の闇。

 常夜灯一つなく、懐中電灯のたよりない光が足元を照らすだけ。

 嫌な夢を見て居たたまれなくなり、後先考えず出てきたが、やはり明るくなってから来ればよかったかもしれない。

 後悔の念を抱きつつ、それでも拝殿を目指して歩を進めた。


 拝殿に一礼し、本殿の裏に回ると、隼人の言葉通りロープが張られていた。

『コノ先キケン』と書かれた張り紙がぶら下がっている。


 やはり帰ろうかと思いかけた時、周囲がかすかに明るくなっていることに気付いた。

 夜が明け始めているのだろう。

 土の上に、誰かが踏みしめた跡も見える。

 せっかくだ、もう少し行ってみようと、宇佐美はロープをくぐった。


 人が通った跡を辿って、着いた先に『お堂』はあった。

 白み始めた林の中に突如現れたその姿は、宇佐美の想像以上に大きい。

 入母屋造りの屋根に高床式の堂々たる建物が、朝の薄明りに浮かび上がっていた。

 

 正面の階段に泥がついていた。

 泥は乾ききっていない。最近、誰かが上ったようだ。

 ぎしぎしと音を立てながら、宇佐美は正面の階段を上がり、扉に手をかけた。

 だが、扉はぴくりとも動かない。

 どこからか中を覗けないかと、ぐるりと一周してみたが、どの扉もすべてきっちり閉じられていた。

 わずかな隙間も見つからない。


 これだけ大きな建物いっぱいに這い回る大蛇の化け物を、六歳の九我は見た——いや、見たと信じている。

 さぞかし怖かっただろう……。


 宇佐美は何か音はしないかと、扉にぴたりと耳を押し当てた。


(……ヘビさん、いますか?)


 その時、不意に声をかけられた。


「おはようございます」


 振り返ると、剃髪姿の女性が立っていた。微笑みながら、穏やかな声で言う。


「お早いんですね」


 おはようございますと、宇佐美は頭を下げて、階段を降りた。


「村の駐在所に研修に来ています宇佐美です。庵主さまですか?」


妙恵みょうけいです」


 妙恵は可笑しそうに笑っている。


「早朝から、パトロールですか?」


「……いえ……村の危険箇所の点検に……この建物は、いつも締め切っているんですか?」


「さあ、どうかしら」

 妙恵は首をかしげながらにっこりした。

「詳しいことはえんじゅさんにお聞きになって下さい」


 三十半ば位だろうか。近くで見ると妙恵がずいぶん若いことが分かった。

 一体どのような理由で、この若さで仏門に入ったのだろうかと、疑問に思いながら宇佐美は妙恵を見つめた。


「落ちたらひとたまりもない危ない場所があるんですが、ご案内しましょうか? 村の人からは『あねさんころがし』と呼ばれています」


 あの人柱を立てた跡かと、隼人の言葉を思い出した。


「お供させて下さい」




 通い慣れた道なのか、妙恵は軽々としなやかな身のこなしで、急な山道を下っていく。

 一方で宇佐美は、足を滑らせるたびに木の幹で体を支え、必死についていった。


 やがて川の音が近づいてきた。

 狭い岩場に着くと、妙恵が足を止め、振り返る。


「ここが、一番流れが急な場所です」と妙恵が笑顔で指した場所を見下ろして、宇佐美は息を呑んだ。

 大きな岩の間を縫うように、白い急流が轟音をたてて流れ落ちている。


「落ちたら、死体も上がりません」

 妙恵は静かに語り始めた。

「昔、この村では人柱の風習があったんです。他所から嫁いできた女性たちが犠牲になり、ここから落とされたんですよ。初めから、人柱にするつもりで、村の見目好い若者が女に言い寄り、村に連れてきたとの話もあります。そういった人柱の風習がなくなっても、ここから身を投げる女の人が何人もいたんですよ」


 宇佐美が顔を向けると、妙恵は川に向かい手を合わせていた。


「この村は昔から、よそ者には厳しくて、嫁は道具のように扱われてきたんです。貧しい家から来た者は帰る場所もなくて、辛さに耐えきれず、ここから身を投げたんですよ」


 妙恵は読経を唱え始めた。

 宇佐美も手を合わせる。


 短い読経を終えると、妙恵は朝のお勤めがあると言って去っていった。


 宇佐美はしばらく、崖の上から川を見下ろした。


 ——九我さん、あなたは男に川に投げられそうになったと言いましたが、それは、この崖ですよ……二十年前、その男は本気で六歳のあなたを殺す気だったんです——。


 

 

 

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