第19話 あねさんころがし④
駐在所の浴室は物置代わりに使われていた。
宇佐美は水しか出ない流しで髪を洗い、濡れた髪をタオルで拭きながら、一階の戸締まりを確認した。
明かりを消し、二階への急な階段を上がる。
二階に上がると、隼人が持ってきた文机の上に置かれたレトロなパタパタ時計が音をたて、日が変わったことを告げた。
午前零時。
時計には数字の0が四つ並んでいる。
部屋に入った宇佐美は、吸い寄せられるように再び蛇の面の前に立った。
面には異様な迫力がある。
隼人は、この面が一階の通用口に落ちていたと言っていた。
——本来、この面は一階に飾られていたものなのだろうか?
明日、隼人に会ったら聞いてみよう。
宇佐美はそう思いながら、寝る準備に取り掛かった。
スマホを文机に置いた時、机の隅に桜の花が彫られているのに気づいた。
(……きっと、いい物なんだろうな)
宇佐美は丁寧に仕上げられた彫刻に触れながら、故人を偲んだ。
(秋子さん、あなたは昔の人柱の跡まで地図に記していたのに、なぜお堂の場所は、書かなかったんですか?)
ふと、一番上の引き出しに手をかけると、引き出しは固く、途中までしか開かなかったが、中に何か入っているのが見えた。
白いケースに入れられたVHSのビデオテープのようだ。
秋子の遺品を勝手に調べるわけにはいかない。
宇佐美はそれには触れず、引き出しをそっと閉じた。
布団に入っても、なかなか寝付けなかった。
明日のためにも休んでおかなければと思うが、どうしても田所の件が頭を離れない。
それでも、いつの間にか浅い眠りに落ちていたのだろう、車の音で目が覚めた。
耳を済ますと、川音に混じって車が停まる音がした。
宇佐美はそっと窓を開けて、外を監視した。
すると、橋を渡ってこちらに向かってくる小さな明かりが見えた。
宇佐美はルームウエアのまま、そっと階下に降りていった。
宇佐美が駐在所の引き戸をわずかに開けて外を伺っていると、光がこっちに近づいてきた。
片手に懐中電灯、もう片方にビニール袋を下げた老人の姿が見える。
宇佐美は駐在所の電気をつけた。
驚いた様子の老人が駆け寄ってくる。
「田所さん、どうした?」
宇佐美は引き戸を開け、頭を下げた。
「こちらの駐在所に研修に来ました。宇佐美です。夜分に驚かせてしまい、すみません」
「ああ、あんたが……びっくりしたよ。こんな時間に電気がつくから——」
老人はまだ目を丸くしている。
「短い間ですが、よろしくお願いします」
宇佐美は笑顔を作りながら尋ねた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、俺は幸吉。梅原幸吉。こっから川下に一キロぐらい行ったとこに、一人で住んでる——あんた、ここで寝んの? 田所さんトコ、泊めてもらえばいいのに」
「まだ田所さんにお会いできていないんです。昨夜遅く、ここに戻られたそうですが、今朝早く村を出て、それ以来連絡が取れません」
「ああ、そう……」
幸吉はそれよりも、深夜に出くわした宇佐美にまだ驚いているようだった。
「梅原さん、昨夜もこの時間にお帰りだったんですか?」
「昨日もおとついも、工事現場で棒振りだよ。おんなじ時間に帰ってる」
「ご苦労さまです」と宇佐美は頭を下げた。「昨夜、『蜿り橋』を渡った車を見ませんでしたか?」
「そんなもんまで、捕まえんの? 許してやんなよ」
幸吉は冗談めかして言ったが、その目は優しい。
「沢木さんだな、あの人うるさいもんなあ。人がこうして話しても、家の前通っても全然起きないけど、車とか自転車はすぐ目が覚めちまうんだって」
大変ですねと、宇佐美は同情する顔でうなずいた。
「——橋渡ったかどうか、分かんねえけど、道端に停まってる車なら見たよ。変なとこに停めてんなと思って通り過ぎたら、急に走り出して、すごいスピードで行っちまった」
「運転手は見なかったんですか?」
「どっかにいたんだろうけど、俺は見なかった」
「昨夜、駐在所の前を通った時、何か変わったことはありませんでしたか?」
「なんもなかった、静かなもんだったよ」
そう言いながら幸吉はビニール袋をガサガサさせて、中からカップラーメンを取り出した。
「夜食にしな」
ありがとうございますと、宇佐美は頭を下げて受け取った。
「仕事熱心はいいけど、身体大事にしな。夜はしっかり寝て、お天道様が出たら、また働きゃいいんだ」
「お引き止めしてすみませんでした。どうぞお休み下さい」
「いや、俺はいいんだ。もう先は長くないし。この身体、ボロボロになるまで使ってよ、死んだら神様に、幸吉を人間にしてやってよかったって褒めて貰いたいんだよ。あんたは、これからの人なんだから、身体を大切にすんだよ」
どうもありがとうございますと、宇佐美はまた頭を下げた。
暗闇に消えていく幸吉を宇佐美はしばらく見送った。
一人暮らしと言いながら、幸吉が手にしていたビニール袋には数種類のカップ麺や菓子パンがそれぞれ二個づつ入っていた。
誰かと住んでいるのではないか――そんな疑念が心をよぎる。
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