第11話 消えた巡査長②
電車が去り、駅周辺は再び静かになった。
売り子の女はまたベンチに座り、スマホをいじり始める。
世間話を始めた老人たちに挨拶をして、宇佐美はその場を離れた。
車に戻ろうかと思ったが、交番勤務の警官にも挨拶をしていこうと思い立った。
宇佐美はバス停前の交番に向かった。
「失礼します。蛇神村駐在所で研修させて頂くことになりました、宇佐美です。ご挨拶に参りました」
宇佐美が頭を下げると、交番内で眠たそうにしていた男は慌てて立ち上がった。
年は六十近そうだ。白髪頭を短く刈り込んだ骨格の立派な男だった。
柔道の猛者だったのか、耳が潰れている。
「お話はきいております。わざわざご苦労さまです」
男は宇佐美に椅子をすすめた。
「いやあ、警察庁の方にお会いするなんて、初めてですよ。田所も緊張していると思います——あっ、私は青木といいます」
宇佐美は礼を言ってパイプ椅子に腰を下ろした。
「田所さんとは、お知り合いですか?」
「昨日も一緒に飲みに行きました」
青木は冷蔵庫から緑茶が入ったペットボトルを取り出した。
どうぞお構いなくと、宇佐美は中腰になった。
「あいつ今回、特別に表彰されたじゃないですか。昨日、仲間が集まって、お祝いしたんですよ」
言いながら青木は、緑茶を注いだグラスを宇佐美の前に置いた。
「こちらで、集まったんですか?」と宇佐美は、ロータリーを挟んで交番の正面にある居酒屋に目を向ける。
「八王子です。あっちに田所の行きつけの店があるんです——私は仕事が」ここのというように青木は人差し指で下を指した。「あるんで、すぐに帰りましたが、毎日が日曜日みたいな者もいますから、遅くまで盛り上がったようです」
延寿駅は八王子と横浜を結ぶ横浜線の支線上にあったが、八王子に出るにはここから一時間はかかる。
蛇神村は駅からさらにバスで一時間弱。
二時間もかかる場所に行きつけの店をつくるものなのか?
「あっ、すいません宇佐美さん!」青木はしまったという顔で、頭をかいた。「この話、内緒にして下さい」と胸の辺りで指を一本立てる。
「ついさっき、田所の奥さんがここに来たんですよ、旦那がまだ帰って来ないっていうんですが——たぶん、あいつ、夕べはコレのところに泊まったんだと思います」
青木は立てた人差し指の代わりに小指を立てる。
「さっき話した店のママがそうなんですが、奥さんには言えないんで、駅前で集まって飲んだってことにしたんです。以前にも一悶着あったんですよ」
「田所さんは、お戻りになったんでしょうか?」
「奥さんが帰ってすぐに連絡したんですが、返信はまだです。駐在所の掃除で忙しいんだと思いますよ」青木はニヤリと笑った。「奥さんへの言い訳も考えなきゃならないし」
そうですかと宇佐美は空いたグラスを置いた。ごちそうさまでしたと頭を下げる。
そろそろ辞する時間だった。
「宇佐美さん、バスですか? あと二十分は来ませんよ」
「いえ、車です」
「だったら、気をつけて下さい」
青木は立ち上がり、机の引き出しから紙を一枚取り出した。
「よかったら持っていって下さい」
青木が寄越してきたのは『蛇神村観光マップ』と書かれた手書き風の観光案内だった。
随所に描かれたかわいいヘビのイラストが、吹き出しで名所を説明している。
「ここ、この『
青木が指した橋の説明書きには『県の指定文化財。橋の上は絶景スポットだよん♪』となっていた。
「駐在所の隣に、沢木っていう、うるさいのがいるんですよ。土産物屋やってるくせに、観光客がうっかり車で橋を渡ると怒鳴りつけるんです——駅の横で野菜売ってるの見ました? あそこで働いてる子、沢木の息子の嫁さんですよ。
饒舌な青木のお陰で、売り子の女の名前を知ることが出来た。
沢木琴恵——その名を宇佐美は心に留めた。
「住民の方は車で村に入れないんですか。かなり不便ですね」
宇佐美が言うと「逆です」と、青木は笑った。
「橋が通れなくなってから、村長の
「おかげで東京まで近くなりました。向こうの方が栄えてるし、みんな仕事も買い物も東京に行ってます——昨日も飲めない奴が車で来ていて、槐さんの道を使って、田所を送るようなこと言ってたんですけど、あいつは、帰らなかったんですね」
青木は困った奴だと苦笑いした。
そろそろ本当に出発しなければならない。
まだ話したそうにしている青木に頭を下げて、宇佐美は交番を出た。
駅から車で三十分ほど走ると、前方の小高い山の中腹に鳥居が見えてきた——蛇面神社だ。
『蛇神村へようこそ』のアーチ状の看板も見えてくる。看板には観光マップで見たのと同じヘビのイラストが描かれていた。
村のご当地キャラなのかもしれない。
アーチをくぐるとそこは駐車場だった。
前方に橋が見える。
青木に教わった通り、宇佐美は駐車場で車を停めた。
身の回りの品を入れたボストンバックだけを手にして、車を降りる。
車の外に出た途端耳に入ってきた川の音が、心地良かった。
清々しく冷たい山の空気の中で伸びをしながら、宇佐美は駐車場を見回す。
大型バスを停めるスペースもある広い駐車場には、ゴミ一つ落ちていなかった。
停まっている車が数台ある。
宇佐美はそれらを見て回った。
軽ワゴン、軽トラック、ワンボックスカー。
どれも地元ナンバーだ。
駐車場に防犯カメラが設置されているのも確認した。
公衆トイレは施錠されている。
貼り紙によると『利用は土曜祝日のみです。緊急の方は駐在所のトイレをお使い下さい』となっていた。
時刻は十一時半。
宇佐美は『蜿り橋』を渡った。
橋を渡り切る前に、駐在所の前に乗用車が一台停まっているのに気づいた。
車からカーペットのようなものを取り出している男がいる。
男はそれを肩に担ぐと、こちらに顔を向けてきた。
髭をはやしているが、それが誰なのか宇佐美にはすぐ分かった。
水無瀬隼人——この男の資料は全て読んで頭に入っている。
——ツイてるなあ!
村に入ってそうそう、ターゲットの男に会えるとは!
宇佐美の顔が自然にほころぶ。
思いっきり愛想のいい笑顔で隼人に近づいた。
水無瀬隼人は身じろぎもせずに立ちつくし、じっと宇佐美を見つめたままだった。
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