第9話 隼人④

 小春がやってきたのは、隼人が駐在所と祖母の家を車で二往復した後だった。


「忙しそうだね」

「駐在所の掃除です」

「あんたがやってんの?」


 隼人が家に入ると、小春もそのまま後ろをついてきた。


「成り行きで仕方なくです。田所さんが見つからないらしくて、奥さんが町に探しに行きました」

「朝、自転車で出て行ってから、まだ帰ってないのかい?」と小春は眉をひそめた。「あんたも見たよね?」


「あの人、本当に田所さんでしたか? 私には別人に——」


 隼人は言葉を止めた。

 小春が玄関先に置かれた書き物机を撫でている。


「これ、どうするの?」

「駐在所に持って行こうと思っていますが、要りますか?」

「いいよ、いいよ。秋ちゃんのお気に入りだったんだ。若い人に使ってもらった方が、秋ちゃんも喜ぶよ」


 小春は寂しそうな目で、紫檀の机に手を置いた。


「——お茶でも淹れましょう」

「忙しいんだろ?」

「いえ、ちょうど休憩するところでした」


 隼人はキッチンに立ち、コーヒーを淹れた。

 亡くなった祖母の秋子は緑茶しか飲まないと思っていたが、キッチンを片付けていたら様々な種類のコーヒー豆が出てきた。

 それはすべて、コーヒー好きの小春のために用意されたものだった。

 隣人同士、小春と秋子は何度もお茶とおしゃべりを楽しんだのだろう。


 隼人はマグカップにコーヒーを半分注ぎ、ミルクと砂糖壺を持ってリビングに入った。

 コーヒー党と言いながら、小春はミルクも砂糖も大量に使う。


 小春は肘掛け椅子に浅く腰掛けて、背筋を伸ばして壁にかけられた掛け軸を見ていた。

 掛け軸には『いろは歌』が流麗な筆致で書かれている。


「あれ、出てきたんだ」

「納戸にしまわれていたんですが、いいものなのかと思い、飾ってみました」

「——とがなくてしす」

「はい?」

「下の文字を読むとそう読めるだろ? でも、あたしには、意味がわかんなかった。私より若いハナちゃんは、すぐ分かって、怖いねって言ったのに……あたしには、なんのことかさっぱり分かんなくって……でも皐月さんも、秋ちゃんも、みんな意味分かってて……あたしは、バカがばれないように、みんなに合わせて、一緒に怖がったんだ……もう大昔の話だよ……ハナちゃんが十五でこの村に嫁いできて、四人でこの掛け軸、見たときの話さ……ハナちゃんは、本当に可愛かった——気立てもいいし、働き者だしさ、村の人気者だった……あたしとおんなじで、弟とか妹の面倒見なきゃいけなくって、学校行けなかったのに、ハナちゃんは、自分で勉強して、本がスラスラ読めたんだよ……皐月さんは、よくハナちゃんに本を貸してた……」


 小春はコーヒーの入ったマグカップにミルクと砂糖をたっぷり注いで、スプーンでかき混ぜた。


「新しい駐在さんって、東京の偉い人なんだろ?」

「これから偉くなるんでしょうね」

「その人、頭、いいのかい?」

「まあ、そうでしょうね」

「——頭いい人って、なんか、怖いよ……怖くって、近寄れないよ……あたしみたいなバカ、なに言ったって、相手にされないだろうし……」

「そんなことありませんよ」と隼人は優しく笑った。


 小春は椅子から立ち上がった。


「うちに使ってないシーツがあるから取ってくるよ」


 小春は部屋から出ようとしたが、立ち止まり隼人を見上げた。


「あんた、髭、そった方がいいよ」

「そうですか?」と隼人は短い顎髭に触れる。「結構気に入ってるんですけど」

「それじゃあ、女の子にモテないよ。三十過ぎて独り者だなんて、恥ずかしいよ」


 隼人は笑って受け流した。




 小春が出ていくと、隼人は再び頼まれ仕事に戻った。

 駐在所に置くつもりの書き物机の引き出しを開けて、中を拭くとまた閉じた。

 引き出しは少し硬い。

 天板の隅に桜の彫刻が施されている。

 これが祖母のお気に入りだったというのは、小春から聞くまで知らなかった。


 机を車に入れると、隼人はまた家に入った。

 物置からウッドカーペットを取り出し、担ぐと車に戻った。

 車の中に置いた紫檀の机の上に、新しい布団カバーが載っている。

 小春が置いていったのだろう。

 隼人はそのまま、車を走らせた。


 徒歩でも五分とかからない距離だ。

 駐在所にはすぐに着く。

 隼人は車からカーペットを取り出して、肩に担いだ。


 橋の向こうから、スーツ姿の男が歩いてくるのが見えた。


 男はゆっくりと橋を渡り、隼人に向かって微笑んでいる。

 その微笑みは温かく、まるで長い間会えなかった知人にようやく出会えたときのような、懐かしさが含まれていた。


(誰だ……?)


 動悸が激しくなり、頭がぼうっと熱を持つ。

 男がさらに近づくにつれて、隼人の胸の内に奇妙な感覚が押し寄せてきた。


 それは、かつて経験したことのない、一瞬で心を奪われる感覚——。


 男が目の前に立つ。

 彼の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。


(——この人は、誰だ……?)


 隼人の思考は空回りし、何も言葉が出てこない。

 ただ心の中で繰り返されるのは一つの感情——。

 

 一目惚れだった。

 隼人は一瞬でその男に恋をした。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る