第8話 隼人③
ジョギングから村に戻った隼人は、駐在所の前で声をかけられた。
「隼人さん、うちの人、みませんでした?」
駐在の妻の
スマホを握りしめた栞里は、弱りきった顔で小首を傾げながら隼人を見上げる。
「いくら電話しても連絡、つかなくって……東京からお客さんが来るのに、部屋の準備もまだだし……
どうしましょうと言われても、返答の仕様がない。
こんなところに突っ立ってないで、身体を動かせばいいのにと隼人は思った。
「……お布団も、古いのしかなくって……お客さんに出せるものが、ないのよ……」
「祖母の遺品に新しい布団があるので、持ってきます。あと何か入り用のものは、ありますか?」
「何がいるのか、私には、さっぱり……隼人さん、中を見てもらえません?」と栞里は駐在所の中に隼人を招く。
自分が見てもしょうがないだろうと思いつつ、隼人は中に入った。
建物の前はよく通るが、隼人が駐在所の中に入るのは初めてだった。
中は古い木造建築の匂いがした。
スチール製の机と、パイプ椅子。
殺風景な部屋の奥には四畳半程度の板敷きの間があった。
その床板がひどい。変色し、所々剥げたり反り返ったりしている。
ビールや缶酎ハイの空き缶も転がっていた。
駐在夫婦は、ここには住んでいない。近くに自分たちの家がある。
長年人が住んでいなかったのだから仕方ないが、いくらなんでもこの上に布団は敷けない。
隼人は処分しようとしていた白いウッドカーペットがあるのを思い出した。サイズ的にもちょうどいい。
「この床に合う敷物を取ってきます。ゴミを片付けていて下さい」
返事がないので、隼人は振り返って栞里を見た。
栞里はぐったりと、パイプ椅子に腰掛けている。
「——隼人さん、うちの人、捕まるんじゃないかしら……」
「田所さん、何か悪いことしたんですか?」言いながら隼人は土足で床の間に上がった。
他に何が必要なのか見てみようと思ったが、靴を脱いで上がる気がしない。
「東京から来る人、研修なんかじゃなくて、あの人のこと調べに来るんじゃないかしら」
板の間の右には急な階段があり、左には小さな台所があった。
流しにタバコの吸殻が数本落ちている。
「大丈夫ですよ。知り合いに聞いたんですが、警察庁の人間が交番に研修に来ることって、本当にあるらしいです。おかげで現場が混乱して、めんどくさがられてるみたいですよ」
流しの下に鍵が落ちていた。
車の鍵だった。
隼人は鍵を拾い上げて、それを栞里に見せた。
「これ、落ちてました」
「やだあ! そんなとこにあったの?」鍵を見た栞里は勢いよく立ち上がった。「車があるのに、鍵がないから困ってたのよ!」
隼人から鍵を引ったくるように受け取ると、栞里は駐在所から出ていこうとする。
「私、あの人を捜しに行ってくる! あとのことはお願いね!」
(え?)
ポカンとする隼人を残して、栞里は行ってしまった。
駐在夫婦の車は橋の向こうの駐車場にあるのだろう。
栞里は小走りで『
なぜ自分が駐在所の掃除をしなければならないのだとは思うが、ここが人の住める状態でないのを知ってしまったら無視は出来ない。
隼人は台所を点検した。
小さな冷蔵庫は使えそうだが、プロパンを止めているのか、ガスが点かない。
鍋類も食器も何もなかった。
電気ケトルとお茶のセット位は持ってくるかと、隼人は台所横の通用口に目をやった。
たたきに何かが落ちている——。
拾い上げて表に返す前に、隼人にはそれが何か分かった。
蛇の面だった。
——懐かしいな。
昔は自分の家にも飾ってあった。
村に代々伝わる魔除けの面だ。
どこから落ちたのかと隼人は部屋の壁を見上げたが、面を飾るような位置に釘は刺さっていなかった。
隼人は面を片手に急な階段を上がった。
天井が低く、身を屈めなければならない。
二階は真っ暗だった。
下からの明かりを頼りに、隼人は窓にたどりつく。
腰窓を開けて、固くなった雨戸を引くと日の光が入り、川の音が聞こえた。
『蜿り橋』もよく見える。
別な窓も同じように開けると、気持ちのいい風がさっと抜けていった。
こっちの窓からは神社へと続く石段とその脇に植えられたアカシアが見える。
アカシアは今が花の盛り。
甘い匂いが風に乗ってやってきた。
二階の方が暮らしやすそうだと、隼人は明るくなった室内を探し始めた。
——あった。
隼人はやっと蛇面をかけられる釘を見つけた。
蛇面は正しい位置にかけなければならないと、祖父から厳しく言われた。
正しい位置——お面に向かい頭を下げると、
だが階下には、その位置に釘は刺さっていなかった。
隼人は蛇面をかけると、手を合わせて頭を下げた。
昔、祖父母と一緒に行ったように。
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