第7話 隼人②
六時半。
ジョギングシューズを履いた隼人は家を出た。
隣の小春の家からは、ラジオ体操の音楽がかすかに聞こえてくる。
小春の家とは十メートルは離れているはずだが、それでも耳に届く音量だった。
——小春さんも年をとったんだな。
隼人が蛇神村に住んでいたのは二十年前、十歳までのことだ。
当時の小春は、よく動き、よく喋る元気なおばさんだったが、寄る年波には勝てないということか。
ジョギング前のストレッチをしていると、目の前を軽自動車が通った。
パステルピンクの車体に、こげ茶色の屋根。
運転しているのは、去年蛇神村に移住してきた須田周平だった。
隼人は軽く手をあげて周平に挨拶をした。
周平も小さく頭を下げながら車を走らせていく。
家の前のなだらかな坂を下ると、すぐに駐在所に着く。
駐在所の前には、周平の車が停まっていた。
車の陰で姿は見えないが、土産物屋の沢木の声が聞こえる。
周平は気の良い男だ。仕事に行くついでだと、村人の買い物を引き受けている。
沢木に何か用事を頼まれているのだろうか。
隼人はそのまま走り過ぎた。
村を囲むように流れる『うねり川』——その川に架かる木橋、『蜿り橋』に近づくと、隼人は速度を落とした。
この橋は隼人が少年だった頃、車で通ることが出来た。
だが文化財に指定されてからは保存のため、車の通行が禁止されている。
橋の中央で足を止めた。
川の水量は多く、激しい流れがごうごうと音を立てている。
村を振り返り、山の中腹に建つ鳥居を見上げた。
『
この場所は村の観光マップに撮影スポットとして紹介されている場所だ。
朝もやに浮かぶ鳥居を撮るため、早朝からカメラを構える観光客もいるという。
隼人は美しい村の風景を苦々しい思いで眺めた。
過去の記憶が蘇りかけたが、大きく息を吐いて追い払う。
自分はもう、哀れみを受ける無力な子供ではない。
隼人は再び走り出した。
橋を渡りきると『文化財につき車の侵入禁止』と書かれた看板が目に入る。
その看板を横目に駐車場を抜け、県道に出た。
車道の脇を走ること一時間。
遠くにコンクリート造りの建物が見えてきた。
延寿警察署だ。
二十年前、十六歳だった
新しい環境に馴染もうとしていたある日、母親が電話で蛇神村の話をしているのを聞いた。
あんなに出たかった村なのに、名前を聞いた途端に懐かしくなり、隼人は耳をそばだてた。
省吾が警察に捕まったという話は衝撃だったが、「ゴウカン」の意味がわからない。
電話を終えた母親にきいても何も教えてくれなかった。
そして月日は流れ、隼人が事件の全容を知ったのは去年のことだ。
祖母、秋子の体調が悪化したと聞き、村に戻った隼人は、省吾の祖母、皐月から、真実を聞かされた。
『省吾は無実よ。それを証明してやりたいの。お願い、力を貸して』
皐月の横で、病床の秋子も頭を下げてきた。
断れるはずがなかった。
隼人は調査員を雇い、事件を調べさせた。
しかし、その結果は隼人を追い詰めるものになった。
『警察は最初から省吾さんを犯人だと決めつけていたようです。主張するアリバイを証明する親子のことも、まともに捜していません』
調査員は続けてこう言った。
『水無瀬さん、この件から手を引いたほうがいい。これ以上動くと、ヤバいところを怒らせますよ』
予言通り、順風満帆——学生時代に起業してから——だった隼人の人生は激変した。
省吾の父親、
自ら立ち上げた会社の運営にも支障が出たため、隼人は経営から退くしかなかった。
(ここまでして、何が残った……?)
省吾の主張するアリバイ——迷子の子供をおぶって石段を降り、駐車場で父親に引き渡したという証言。
——だけど、すいません省吾さん。その親子はどこにもいないんです。
隼人は踵を返し、再び村へと向かって走り出した。
——子どもの名前が、あなたと同じ『しょうご』だったというだけで……それを手がかりに親子を探すなんて、無理がありますよ。
悔しさと、これ以上進むべきではないという恐れが、胸の中でぶつかり合った。
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