懺悔

海崎しのぎ

第1話


 死んだ目をして働く男が居た。綺麗なシャツにネクタイも整っていて、スーツも靴も手入れが行き届いている。しかし目だけは死んでいる。これが外へ営業に行く時だけは火を灯した線香花火の如く輝くのだから大したものである。私はこの男の、会社に戻ってすぐに赤玉が落ち失せるのが好きだった。激しい炎が鋭さを欠かないまま何事もなかったかの様に死んでいく。

 本来生き物とは生きている状態が通常であり、そうあろうとするのが本能である。だから男の目が死んだ時、まるで元から死んだままであったと、あの花火は幻覚であると錯覚させる程に強く死の色を醸すのが、男が生きながらに生を切り捨てた顔をするのが、私は不思議で、堪らなく面白かった。

 いつだったか、何が男をそうさせるのかを聞いた事があった。男は短く、つまらないからだ、と言った。つまらない、しかし辞めたところで別段やりたい事もないし、新しいことを始めるにしても興味が向かない。体に染み付いた習慣が今日も体を動かすから、それに逆らわないだけである。とも言った。

 内にも外にも無関心なのだろう。事実、誰とでも分け隔てなく良好な関係を築く男に一際仲の良い者がいるという話は聞いた事がないし、そのような者を見た事もない。物静かな男の勤務態度を好む者はいたが、私的な交流で好む者はいなかった。

 男は決して付き合いが悪いわけではない。寧ろ誘いには必ず来る律儀さはあるが、特別面白い話をするでもなく、場を仕切るでもなく、周りが話に花咲かせている様を眺めながら端の方で静かにしている。話を振られれば快く応じ、気が付かぬうちにころりと話者を変え、また同じように静かに喧騒を聴きながら酒を呑む。話せばそれなりに楽しいが、わざわざ一緒にいる程かと問われれば否であるという、男は周囲からそういう評価を受けている人間であった。私も男の目の生き死にを繰り返すのに気付いていなければ、きっと彼らと同じ評価を下していたに違いない。

 私は男の目の変わり様を知ってから、男を呑みに誘う日を増やした。変化の面白いのに、出来るだけ沢山お目にかかりたいという魂胆から来る策略であった。男はやはり私の誘いを断らなかった。行きつけの店で長く呑む事もあれば、新規開拓で外れを引いて笑いながらさっさと解散した事もあった。

 こうして男と共に外へ出る様になって、いくらか分かってきた事がある。

 男は存外喋り好きであるらしかった。大勢いる場では躾けられた犬みたいに愛想良くしながら静かにしている癖に、二人で席に着くとその面影すら感じない。よく似た別人を連れてきたのかと錯覚する時すらあった。

 私がそれを言及すると、男は少し恥ずかしげに顔を伏せながら、喋るのは好きだが話を組み立てるのが苦手である事、集まりの時は場を白けさせるのが恐ろしいから、自分よりも話が上手い者に場を任せないと落ち着けない事などをつらつらと喋った。なるほど、この男は決められた台本が無いと本当に話が纏まらず、二転三転する癖があるらしい。くどい喋り方をする男はしかし、話終わりに必ず一言纏めを添えるので会話としてはきちんと成り立っていた。

 男は酒も弱かった。普段は管理しているらしい飲酒量も二人で呑むと途端に馬鹿になるようでみるみる酔い潰れていくのも面白かった。

 やはりこの男は変化する過程にこそ価値がある。それを男に私的な関わりを持ちたがらない誰もが知らないという事実に、私は言い知れぬ優越を感じた。

 男は一切の前触れなく変化した。

 何にも興味のない男は終業後に予定を入れている事もなく、誘われた呑み会には全て出席していた。それが突然断るようになったのである。会社で行われる大きな宴会も、同期同士で集まる小さな食事会も、全て断るようになった。そしてそれは、私の誘いですら例外ではなかった。聞くところによると引っ越しを控えているらしい。

 私はすぐに男は嘘をついているのだと思った。男は社を出てすぐに時計とネクタイを外して鞄に仕舞う日が多くなった。手入れのされていたスーツに更に手が入れられていた。そして何より、これは私だけが気付いている事だが、男の目が、燃え続けるようになったのである。

 同期の誰かが、女だ。と言った。

 私もきっとそうだと思った。そうだと信じて疑えなかったのに、それが是非嘘であれば良いと神か何かに願わずにはいられなかった。

 私は堪えきれずに男に聞いた。が、男は死んだ目で私を見るなり否定した。俄然むきになった私は、詮索などは野暮だと思いつつ男の否定を否定した。そして、男が言葉を継ぐ前に口を開いた。

 「君、もし女なら身なりはもっと気遣った方が良い。確かに君は気持ち悪い程真面目で綺麗な格好をしているがね、毎回同じ格好じゃあ、彼女だって面白みに欠けるだろうよ。」

 男は私から目を逸らした。鬱陶しがるようだった。

 「そら、図星じゃないか。」

 「呆れているのさ。」



 私はいつも通りいそいそと帰る男の背を追って退社した。二人分の革靴の音は帰宅する人々の雑踏に紛れたが、じきに男は人通りの少ない路地を左折した。私はほんの少し迷ってからその後を追った。実際迷った時間など刹那に消える程度であっただろうか、今の私には迷ったという事実だけで充分だった。

 私は男を尾行している。女では無いと主張する彼の、退社後の細やかな気遣いの節に感じる女の存在に痺れを切らしたからである。

 到底女との待ち合わせにはそぐわない湿った路地を歩く男の足取りは迷いなく、私は最も有力な仮説が崩れる事を悟って気持ちが軽くなっていった。

 男は路地を抜けて再び大きな通りに出た。真っ直ぐにコンビニに入り、ものの数分で出てきて再び何処かへ向かって歩きだす。路地を通り買い物を済ませて歩き続ける男の姿勢から、それがすっかり習慣化している事を知った。

 私は勇気を出して男との距離を詰めてみた。男に足音を聞かれぬよう雑踏に身を隠しながら接近し、私は幸運にも男が無造作にぶら下げているビニール袋の全貌を見る事に成功した。中身は何かの缶詰が二、三と、ペットボトルが一本入っていた。私は漸く男の向かう先に女が居ない事を確信できた。かくして男の思考を占領しているのがどこぞの女などではないという事を確認するという、私の極めて俗悪で愚かしい目的は達成された訳である。しかし、私は更にこの先に何が待っているのかまで確かめてみたくなって、男が進む道の人通りが少なくなってきても尚尾行を辞めなかった。

 男の向かった先は公園だった。遊具の少ない、すっかり人に忘れ去られたらしい寂れた公園の片隅にしゃがみ込み、男は茂みに向かって声をかけている。ビニール袋から缶詰を一つ掴み、封を開けて地面に置いているのが見えた。そして、今度ははっきりと、誰かの名前を呼んでいた。女の名前らしかった。

 呼び声に応えるように、茂みから甲高い猫の声がした。

 男が名前を呼ぶ。猫が律儀に応える。もう一度呼ぶ。もう一度応える。もう一度。もう一度。

 やり取りが漸く落ち着いた後、男は何やら猫に長々と喋りだした。語り切ったらしい男がおもむろに立ち上がる。茂みの揺れる音がして、男は茂みに小さく手を振り空を見ながら公園を出た。

 男が去った後の公園に、私は独り静かに足を踏み入れる。簡素なだけの公園は途端に禁域になった。果たしてそこは、正しく男と猫のみが存在を許される神聖な空間であった。犯してはならない大事な場所を、土足で踏み荒らす背徳感が拭えなかった。けれど私の足は止まらない。好奇心の赴くままに男が居た場所に歩みより、男が居たように立ってみた。声は出さなかった。猫とはいえ女の名を呼ぶのを躊躇った。

 突っ立ちのままじッと茂みを見下ろす。茂みの奥から二つの好奇心が光る。私は咄嗟に後退り、その後茂みを覗くことは無かった。

 それからまもなく、男は会社を辞めることになった。上司が用意した送別会も、最後だからと同期内で企画されたちょっとした呑み会も、男は断りこそしなかったものの酒も呑まずに淡々と挨拶だけを残して帰ってしまった。とうとう男の評価は最後まで好転しなかった。

 最終日、男は誰にも惜しまれずに退職した。いつも通りの死んだ目で、私から見ればほんの少し生きている目で、男は一人会社を出た。私はその背中を追いかけて、今度はきちんと声をかけた。二人並んであの時とは反対の方へ、穏やかな空気の流れ行くのが心地良かった。

 私達は何も喋らなかった。私は一言くらい労いの言葉をかけてやろうと思ったが、口を開けなかった。そんな事をしたら心地良い空気に不純物が乗る気がした。あのお喋りな男が黙りを決め込んでいるのも、きっと同じ気持ちだからだろうと思うと物を言う必要性を感じなかった。

 しかし労う気持ちは示すべきだと、私は男を駅前のコンビニに誘った。そこで買った一缶分の時間で話をして、それで終わりにしようと思った。私は無根拠に、しかし確実に、私達の縁もその一缶の末に終わりを迎えると思っている。いわばこれが私達の最後の晩餐となる訳であるが、男も同じ事を思ったのか私達は揃って珈琲を手に取った。いつも仕事の合間に飲んでいる缶珈琲である。お互いの手元を見て笑い合った。笑いの治らぬまま近くの公園で缶を開けて、雑談に乗じて仕事での苦難を順番に話しては笑い飛ばした。一つ一つ、精算して整理するように、私達は些細な事でも大仰に取り上げて笑い続けた。じきに話す物事の線引きが曖昧になっていったのだろう、笑い事ではない真剣な悩み事ですら私達は笑いの種にした。私達の終わりが華やかで、軽やかで、すっぱり何も引かないのであれば何でも良い。その為なら私達はいくらでも馬鹿になれた。そんな事をしなければ綺麗に終われない自身の胸中に吐き気がしたが、男の笑い声がそんな反吐をかき消して私を狂気に引き戻してくれた。

 ふと、男がずっと正気に戻っていない事に気付く。公園に来てから缶の開いた口の向こうばかり向いていた視線をそっと上に逸らして視界の端で男を盗み見る。

 男の目は生きていた。誰と呑んでも、どこで呑んでも、頑なに息をする事のなかった男の目が今、この瞬間、上がった頬に細められた瞼の奥で静かに生きている。

 私はまだ残っている珈琲缶を危うく取り落としそうになった。それを見た男は一層楽しそうに狂った。酒の一滴も入っていないのに手元が覚束なくなった私が随分面白かったらしい。お前のせいだとでも言ってやろうと男の顔に向き合って、言えずにちょっと黙って、思わず吹き出してしまった。男が、缶の中身を疑うくらいに上機嫌な顔をしていたのだ。酒の席でしか見られない男がそこに座っていた。男がそこまで狂っていく様をみすみす見逃した自分を恨む程、完璧な生者が存在していた。

 元の味など思い出せないくらい酸化して冷め切った珈琲の、最後の一滴が私達を正気に戻した。壊れた玩具だった私達はその一瞬でネジを締め直され、いつの間にか登張が下りきっているのに気が付いた。

 公園のゴミ箱に缶を投げ捨てる。座っていたベンチから立たずに投げ入れてみようと思ったが、変に弾かれでもしたらまた狂ってしまいそうだったから辞めた。

 私達はまた二人並んで夜道を歩く。

 「猫はどうするんだ。」

 頭の片隅でぼんやり考えていた事が、思わず口の端から滑り落ちた。

 「知っていたのか。」

 男は歩みを止めず、こちらを見向きもせず、ただ淡々とそう返した。驚いているのだろうか。声色からは判断がつかない。

 「見てしまっただけさ。野良猫に無責任に餌をやるような君じゃない筈だろう。あの猫はどうするんだ。」

 咄嗟に嘘をついた私の声は存外冷静な調子で、つくづく己の薄情さを感じた。

 「最初は、引き取るつもりだったさ。お前の言う通り、俺はそんな無責任で残酷なことができる程お気楽じゃない。」

 空気が重くなる。熱が一気に引いて、冷たい風の鋭さが沁みる。

 「迎える気でいたんだ。借りていた部屋を引き払ってさ。一緒に住める物件ももう目星をつけていて、引っ越す準備だって済んでた。」

 「君の転職先は随分遠いと聞いたが。一体何がそこまでしてた君を諦めさせたんだい。」

 男は大きく息を吸った。男の目はもう死んでいる。

 「喰って、しまったのさ。」

 喉に貼り付いた声を、内壁を擦りながら無理やり絞り出してそう答えた。

 「僕はいつか、きっと、絶対にあの猫を殺してしまう。誇張じゃない。絶対にだ。わかるかい。あんなに大事に思っているのに、会う度に食い破りたい衝動が育っていく気持ちが、お前にはわかるかい。抑えられなかったんだ。いくら強い衝動とはいえあり得ないじゃないか、だって猫は食べ物じゃない。人間は賢い生き物だと、理性は本能を凌駕するんだと、それを疑う馬鹿があるものか。だが僕は。」

 告解。聴罪。私は懺悔室に立っている。見えない壁が、向こう側で叩頭する男の幻覚を視せた。

 「もう迎えられない。申し訳ないと思っている。あの猫にも、こんな話を聞かせているお前にも。猫に噛み付いたあの日から、僕はずっと夢を見るんだ。転職して遠くに越す事を決めてからやっと見なくなった。これは呪いだ。いや、罰と言った方が適切かもしれない。あの猫に嘘をついた。命を弄んだ。あの夢は彼女が僕を遠ざける為に見せていたんだろう。ああそうだ、僕は、あの猫を見つけなければ、出会わなければ良かったんだ。お互い知らない所で知らないまま死んでいけたら良かったんだ。」

 「落ち着けよ。その猫は君に一体どんな悪夢を見せたっていうんだい。そもそもただの猫にそんなことが出来るものか。君、まさか酒が入ってるんじゃないだろうね。」

 「お前は僕が酔っ払って戯言を吐いているように見えるっていうのか。」

 「いっそそうであれば良かったとは思っているさ。」

 男は少し黙って、一つ一つ、言葉を落とす。迷いが見えた。

 「公園の、茂みの前に立っているんだ。真っ暗で、月も出ていなくて、外灯が不規則に明滅するのだけが茂みと僕を照らしている。」

 暗い公園。一人の人間が茂みの前に。

 「彼女の名前を呼ぶんだ。腕にビニール袋を下げて、それが風に揺れて嫌に煩くて。でも彼女は鳴いてくれない。ずっと僕だけが呼び続けて。」

 茂みの中から光る好奇心が二つ。

 「諦めて帰ろうと。足を一歩後ろに引くだろう。そうすると、地面から音がするんだよ。水っぽい、粘ついた音がする。足元を見るんだ。その瞬間に。」

 鉄臭い匂いが立ち昇る。取り巻く空気が生暖かい。生き物が、猫が、その体温が。

 私は弾かれるように顔を上げた。澄んだ鋭い風が体に当たる。一瞬で充満した血の匂いは呆気なく霧散し残香すらも消えていた。

 「僕の右手は猫の首を掴んでいるのさ。靴は真っ赤で、靴下まで濡れている。認識した瞬間に血の匂いが立ち込めて、さっきまで首なんで持ってなかった筈なのに、ずっとそうしていたように思えてくるんだ。いや、持っていたんだ、ずっと。彼女の生首を。だってそうする事を望んだのは僕じゃないか。大事だから、大好きだから、食べた。愛していたから。愛しているから。」

 男は焦点の合わない眼で私を見た。

 「胴体を探すんだ。周りを見渡すと、これは毎回違うんだが、大体ちょっと離れた茂みの所に血溜まりがあって、蓋の空いた缶詰があって、思い出すのさ。ここで僕が何をやったのか。思い出して、そうして、僕は口の中に毛の残りが張り付いているのに気付く。それを溜まった血と一緒に唾液で浮かせて飲み込んで。」

 私は、男と共に外へ出る様になって、いくらか分かってきた事がある。それはこの男は育ちが良く、礼儀正しいという事である。それは例えば箸の使い方が綺麗であったり、正しい敬語で然るべき礼節を欠かさない事であったり。

 「首を胴体の上に乗せて。」

 そう、例えば、食事の後に、手を合わせて。

 「ご馳走様でした。」

 後方から、ビニール袋が擦れる音がする。

 「言った瞬間に、目が覚める。」

 くたびれたスーツの男が足早に私達の脇を通り過ぎて行った。

 「おい、聞いているのか。話せと言ったのはお前だろう。」

 「ああ、ああ。目が覚めたよ。」

 どういう意味だと喚く男の頭からつま先までを検める。当たり前のことだが、男は変わらず手入れのされたスーツにネクタイを締めた姿のままだった。

 「なんだい黙りこくって。幻滅でもしたかい。」

 「幻滅だって?とんでもない。驚きはしたがね、私は君のそういう所を好ましく思っているんだ。」

 「そういう所とはなんだ。」

 「誠実な所さ。」

 騒がしい大通りは今日も生き急ぐ人で溢れている。彼らの頭上に駅の名前の煌々とするのが見えて、私達はちょっと黙った。

 やはり猫の話は悪手だった。男がこの話を出すまで悩みも葛藤も素振りを見せなかったのは、彼自身の中で終わりを決めたかったからだろう。男は責任だとか礼儀だとか、そういうのに敏感な質だった。だからこそ猫の事に関しては私の思い届かぬ所まで考え詰めていた事は想像に難くない。分かっていながら抉ったのだ。我ながら配慮の足りない人間である。

 私達は中途半端に終わった。最後だというのに顔すらまともに見られなかった。あれだけ好んでいた目を、別れる前に近くでもう一度見ておきたいと思っていたのに、終ぞ見る事はできなかった。死んでいる事は明確だった。私が殺したも同然である。勝手に殺しておきながら、私はそれを確認するのが恐ろしかった。

 暗然たる罪悪感が一握の寂寥と共に私の足を突き動かす。土の匂いの混ざる重い風を掻き分けながら、小糠雨の夜道を引き返した。無意識に動く足とは対照に頭はやけに意識的で、この雨が珈琲を飲んでいる時に降らなくて良かった、などとどうでも良い事をずっと考えている。

 薄暗い電灯の明滅に私の足は歩みを止めた。雨は急速に激しさを増し、アスファルト上は雨粒の跳ねっ返りで霧立っている。私は折り畳み傘を開きながら電灯が照らす公園に入り、一直線に件の茂みの前に立った。

 「猫。」

 雨にかき消されそうな程か細い声が、はっきりと震えながら茂みを揺らす。緊張しているらしかった。

 「いないのか。猫。」

 もう一度、今度はもっと大きな声を出した。まだ震えていた。

 「おい。」

 猫、と続けようとした先は音にならなかった。

 茂みが揺れ、奥から好奇心が二つ覗く。私は傘を傾けて茂みに被せた。

 「よく聞けよ、猫。お前に執心していた男だがな、あいつはもう此処には来ない。君が何をしたかは知らないが、もう来ないんだ。遠くに行ってしまうからな。あの男、最後まで君を案じていたぞ。君を、引き取れない事をだ。」

 光る双眸がじっと私を据える。

 「君にその気があるなら僕と一緒に来ると良い。それで、あの男にもうあんな真似するのは辞めてやれ。」

 頭上で雷鳴が奔る。照らされたスーツの足元が黒く、水を吸っていた。

 暗い公園の、茂みの前に男が一人。

 猫に話しかける。彼女は応えず、ずっと私だけが呼び続ける。

 もう帰ろうと思った。猫に人間の言葉など通じない、そんな常識を私はたった今思い出した。靴下まで重くなった足を一歩踏み出す。

 後ずさる。泥と化した土が、足元でぐちゃ、と鳴った。

 茂みの奥に好奇心が居ない。まさか。まさか。私は、自分の右手を。

 雷が響く。一段と大きく重く長く響いた雷が、容赦無く私の右手を暴いた。

 私の右手は雨に濡れて、強く握りしめた所為で掌に爪の跡が赤く残っていた。

 私はゆっくり息を吐く。停止した思考が回り出すのを感じながら、重い足に鞭を打って帰路に着いた。

 家に着く頃には雨は若干弱くなっており、雷も通り過ぎていた。階段を上りながら鍵を探す。いつもはすぐに見つかる筈のそれが、何故か中々見つからないまま部屋の前まで着いてしまった。傘を閉じて視界を開き、鞄の中に光を入れて手を突っ込む。下を向いた視界の端で、黒い塊が動いた。

 あの猫だった。雨に撫でつけられ骨が浮かび上がったみすぼらしい黒猫が私の影に入って見上げている。

 「猫。」

 試しに呼んでみた。猫は擦り寄るばかりで応えはしない。男が付けたのと同じ名で呼ぶべきだっただろうが、私の愚かな矜恃がそれを許さなかった。

 指先が鍵を見つけだす。僅かに開いた扉の隙間から猫が侵入した。伝わる筈のない苦言を零しながら私も中に入り、上がり框の前で座っている猫を抱き上げた。動物飼育が可能なアパートに住んでいるとはいえ実際に飼うとなると話は別である。男に対する罪悪感だけで迎え入れた猫を乾かしながら、私は今後の生活について考えねばならなかった。

 幸いこの猫は少々知能が高いらしい。訳を言って聞かせれば多少の生活の苦は受け入れてくれるだろう。まずは私が猫を飼う生活に慣れなければいけない。

 我が物顔で部屋を歩き適当な場所で寛ぎ始めた猫を横目に、私は寝台に寝そべって動物病院を探しながら眠り落ちてしまった。

 猫との生活は危惧していたよりも安定していた。猫は若くもなく老いてもなく、大きな怪我も病気もしていない、右耳が欠けてぐずぐずしているのと痩せこけているのを除けば良い猫であった。出したものはきちんと食べ、最近は私が新たに付けた名前にも反応するようになった。私の帰宅に合わせて玄関で待っているものだから、私は退社後に付き合いで行っていた呑みの予定を入れなくなった。

 同僚はそんな私を見て女か、と茶化した。面倒だからそういう事にしておいた。顔だの性格だの出会いだのを根掘り葉掘り、余計に面倒な事になった。

 猫は私のくだらない会社での話をいつもよく聞いてくれた。そして私は献身的な傾聴の礼に少し良い缶詰をあげるのが習慣になっていた。猫というのは不思議なもので、私が何も言わなくとも話をしたいと思っている時は必ず察して側に寝そべるのである。猫が私の世話をしていると言っても過言ではない。事実、猫が来てから私の暮らしは心身ともに余裕ができた。そして、それを私はとても幸せだと思っていた。ただ一つ気にかけているのは、本来この暮らしを送っていたのはあの男だったのだと、ふとした時に思い出す事である。

 わざわざ引っ越しまで決めてこの猫と共に生きる事を望んだ男を襲った衝動とやらに、私はまだ襲われていない。本当に食い破るかは別として、私はいつか男と同じ衝動をこの胸に抱かねばならない。それがあの日、男の葛藤と決意を抉った事への贖罪になると信じているからである。男が諦めざるを得なかった日々を引継ぎ、男と同じくらい、食べたいと思うくらい、この猫を愛して、大事に育ててやるのだ。

 私の寝台の上で猫がのうのうと欠伸をする。

 私はそっと近づいて、まだ綺麗な三角の左耳を軽く喰んだ。

 猫は驚いた素振りもなく面白そうににゃあと言った。

 口の中に細い毛が絡まる不快感だけが残った。



 男の訃報を受け取った。猫との生活が始まって三年程経ったある晩秋の頃であった。

 運の悪い、不幸な事故だったらしい。死んだのは遠方の勤め先だが、葬儀は実家のあるこちらで行うから是非、という話だった。

 私は猫の写真をいくらか撮って、写りの良いのを二、三枚程印刷して持っていく事にした。本当は猫ごと連れて行きたかったが、雷の煩い雨の中を連れ出すのはかわいそうだったので男には写真で我慢してもらう事にした。どうせ気になったら霊体にでもなって直接覗きにくるだろう。そうなった時に男が入る扉を間違えないよう、写真の裏に住所を書いておいた。

 焼香は恙無く終わった。写真も棺桶に納めさせて貰えた。

 別れを告げたその格好のまま、私は男とよく行っていた居酒屋に入った。悲しみよりも強く湧き出る謝罪の気を、酒で鎮めてから帰りたかった。

 居酒屋は最奥のカウンターに女が一人座っているだけだった。女も喪服だった。私に気付いた女が穏やかに微笑んで会釈をする。細められた目に好奇心を見た私は、ごく自然に女の右隣に座った。

 短い黒髪の、虹彩の金色が眩しい女だった。女の耳は不格好に欠けていた。

 「今日は。」

 最初に口を開いたのは女の方だった。

 「お別れをしてきたのかしら。」

 「ええ。」

 昔カウンターに二人並んでジョッキをぶつけ合ったのを思い出した。私はあの時と同じものを同じ順番で注文をした。女もそれに倣ったが、頼んでいたのは日本酒だった。

 「貴方も、ちッとも泣かないのね。」

 「それはそちらも同じでしょう。」

 「あの人、私の前で凄く泣いていたのよ。そして、その次から私のところに来なくなってしまったの。だから、人って別れる前は皆壊れちゃったみたいに泣くものなんだって思ったの。でも違うみたい。だって誰も泣いてなかったじゃない。あの人が特殊だったのね、きっと。」

 女が慈しむように独り言を続けるものだから、私はそれを黙って聞いていた。今頃家で待っているであろう猫も、一人垂れ流す私の話をこんな気持ちで聞いていたに違いない。少し変わったその女は、私が口を挟まないの良い事に語りを進めた。赤子に寝物語をするときのような調子だった。

 「あの人、夜の公園で猫を世話していたのよ。初めて猫と会ったのは満月の日だと行っていたかしら。運命を感じたらしいわ。あまみって名前を付けてね、あぁ、名前の由来くらい聞いておけば良かったわね。」

 私はその名を知っている。忘れる訳もない、それは、結局私が一度も口にできなかったあの名前だった。男が愛おしげに呼び続けた、あの猫の名前だった。

 「お名前、満月に出会ったのならば天満月から来ているのでしょう。あの男は、そういう安直な考えをする奴ですから。」

 酒は回っていないのに私は酷く夢見心地で、女の正体が透いているというのに私はそれを気に留めなかった。そんな事よりもこの女の語る物の方が重要であった。

 「そういえばあの人、猫のことを月みたいだってよく言っていたかしら。お喋りな人でね、お仕事の話を沢山聞かせてくれたの。話の合間に、噛み締めるみたいにいうのよ、お前の目は月みたいだって。猫も一緒に話を聞いているのだけれどね。私、それが可笑しくって。だって月は二つも昇らないでしょう。」

 初めて、女の笑みに憂いが差した。

 「貴方は、あの男を随分好いているのですね。」

 「大好きよ。私、誠実な人が好きなの。」

 女は緩慢に横髪を耳にかける。歪んだ耳の縁を確かめるように指先でなぞった。懐かしむようだった。

 「誠実、ですか。」

 「ええ。殆ど毎日世話をしに来るのよ。引き取るつもりで、引っ越しまで考えていてね。叶わなくなったって分かったら泣いていたの。気持ちは分かるわ。あの人が居なくなったらあの子は飢えてしまうものね。」

 「だから、愛情が恨みに変わったんでしょうか。猫も弄ばれたと理解したのだとしたら、とても賢い猫ですね。まるで人間のようだ。」

 女がこちらを向く。瞳孔が丸く重く、私を捉えた。

 「意味が分からないわ。」

 「夢を見続けていたんだそうですよ、彼。猫の命を弄んだ罰だそうで。」

 「一体どんな夢を見せたの。」

 「それはもう、酷い夢を。」

 「猫がそんな事できると思っているの。酷い人。私を揶揄うのね。」

 女は顔を伏せて、そんなに思い詰めていたの、と蚊の鳴く声で呟いた。

 「心配しないで。猫はあの人の事を恨んじゃいないわ。だってあの人と一緒に居た時間は幸せだったもの。それに後に来てくれたお友達のお陰で今も幸せに生きているもの。変な夢なんて見せていないわ、今も、もちろん昔も。ねぇ、信じてよ。」

 猫撫で声で女は乞う。無遠慮に相手を激昂させる私の愚行は未だ健在であるらしい。謝罪の意味を込めて店主に魚を注文した。

 女が落ち着いた頃合いを見て、私は慎重に言葉を選びながら問う。

 「その、猫を拾った奴の話ですが、よく彼の友人だとわかりましたね。」

 「あの人、いつもお仕事の話をすると言ったでしょう。話の中で沢山出てくるから、公園に来た時にきっとそのお友達だと思ったの。その人とお友達ね、ちょっと似てるのよ。誠実な所とか、感性とか。」

 「あの男が友人の話をしたのですか。」

 「寧ろお仕事の話とそのお友達の話ばかりだったわ。お仕事終わりによくご飯に誘ってくれたんですって。私と出会ってからは行けなくなってしまったけれど、私を家に迎え入れられたらまた一緒に、今度は自分から誘うんだって意気込んでいたわ。私、それが誓いを立てるみたいに聞こえて、叶うといいわね、きっと楽しい思い出になるわねって、言っていたの。」

 罪悪感が肥え太る。公園で珈琲を交わしたあの日、猫の話をした時よりももっと強く、強く私が私を責め立てる。息が上手く出来なくなった。

 「泣いているの?」

 女が私の顔を覗き込む。

 「友人に、懺悔しなければいけない用事を思い出したのです。」

 君の友人に。私を認めてくれていた、私の友人に。

 「何をしてしまったの?」

 「私は。」

 ただ彼の面白さだけを追っていた。ちょっとしたきっかけで印象を全く変えてしまう、その過程を見る為に側にいた。そして、それを知っているのが自分だけであるという優越感に浸かってただ一人ずっと気持ちよくなっていた。私はただの一度も、男の心情に寄り添った事も支えた事も、そうしようと考えた事もない。全て打算で、己の利益だけを追った行動である。

 「裏切ったのです。たった今、それに気付いたのです。」

 人形を取った猫と醜い化け物が並ぶ居酒屋に、土砂降りの雨の窓を殴るのだけが響く。

 扉が開いて、一組の客が入ってきた。

 それを見た猫が席を立つ。

 「最後に、教えて欲しいことがあるの。はくしゅうって、どういう意味?」

 「雨脚の白い、大粒の激しい雨の事ですよ。」

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懺悔 海崎しのぎ @shinogi0sosaku

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