第16章:「存在の問い - ハイデガーの実存哲学」
秋の深まりを感じさせる夕暮れ時、私は窓辺に座って外を眺めていました。紅葉した木々が風に揺れる様子を見ていると、ふと、自分の存在について考え始めました。
「ねえ、お姉さん。私って、なんのために生きているんだろう?」
突然の問いかけに、お姉さんは少し驚いた様子でしたが、すぐに優しい笑顔を浮かべました。
「あら、急に深い質問が出てきたわね。でも、そういう疑問を持つのはとても大切なことよ。実は、今日はそんな『存在』について深く考えた哲学者の話をしようと思っていたの」
「へえ、どんな人?」
「マルティン・ハイデガーっていう、20世紀のドイツの哲学者よ。彼は『存在と時間』という難解だけど影響力の大きな本を書いたんだ」
お姉さんは本棚から分厚い本を取り出しました。
「ハイデガーは1889年に、ドイツの小さな村で生まれたの。彼の父親は教会の管理人で、幼い頃から宗教的な環境で育ったんだって」
「宗教的な環境? じゃあ、神様について考えたの?」
「実は、最初はそうだったの。若い頃は神学を学んでいたんだけど、途中で哲学に転向したんだ。彼が目指したのは、西洋哲学の伝統を根本から問い直すことだったのよ」
お姉さんは少し考え込むように目を閉じました。
「ハイデガーが問うたのは、『存在とは何か』という根本的な問いだったの。でも、彼のアプローチは今までの哲学者たちとは全然違ったんだ」
「どう違うの?」
「例えば、デカルトは『我思う、ゆえに我あり』って言ったでしょ? これは人間を『考える主体』として捉える見方よ。でも、ハイデガーはそういう考え方じゃ不十分だって考えたの」
お姉さんは立ち上がり、窓の外を指さしました。
「ハイデガーが言うには、私たちは常に『世界の中に投げ出されている』存在なんだって。つまり、私たちは孤立した主体じゃなくて、常に周りの環境や他者との関係の中で生きているってことなのよ」
「なるほど……でも、それって当たり前のことじゃない?」
お姉さんは微笑みました。
「そう思うよね。でも、ハイデガーが言いたかったのは、私たちがそういう『当たり前』を忘れがちだってことなの。彼は、日常生活の中で私たちが『存在』について深く考えることを忘れてしまっていると指摘したんだ」
「日常生活の中で……?」
「そう。例えば、あなたが今使っているペンを考えてみて。普段はただ書くための道具として使っているでしょ? でも、そのペンが壊れたときに初めて、そのペンの『存在』に気づくんだ」
私は手元のペンを見つめます。
確かに、普段はあまり意識していません。
「ハイデガーは、そういう日常的な物や道具との関わりを通じて、私たちの存在のあり方を考えようとしたの。彼はこれを『道具連関』って呼んだんだ」
「へえ、面白いね。でも、さっきの私の質問とどう関係があるの?」
お姉さんは優しく頷きます。
「いい質問ね。ハイデガーは、人間の存在を『現存在』(ダーザイン)って呼んだの。これは、常に自分の存在について問い、可能性に開かれている存在のことを指すんだ」
「可能性に開かれている?」
「そう。ハイデガーによれば、私たちは常に未来に向かって自分の可能性を投げ出しているの。『なんのために生きているんだろう』って考えること自体が、まさにその『現存在』としてのあり方なんだよ」
私は少し考え込みます。自分の存在について考えること自体が、人間らしさなのかもしれません。
「でも、ハイデガーの考え方には難しい面もあるの。例えば、彼は『本来的』な存在と『非本来的』な存在を区別したんだ」
「本来的? 非本来的?」
「簡単に言えば、自分の存在について真剣に向き合っている状態が『本来的』で、日常生活に埋没して自分の存在を忘れている状態が『非本来的』ってことね」
お姉さんは少し表情を曇らせます。
「でも、この考え方には批判もあるの。例えば、サルトルは、こういう区別自体が問題だって指摘したんだ」
「サルトル? キルケゴールの話に時に出てきた人だよね」
「そう、よく覚えてるわね。サルトルは、ハイデガーの影響を受けつつも、もっと徹底的に人間の自由を強調したの」
お姉さんは窓際に歩み寄り、夕暮れの空を見上げます。
「ハイデガーの思想には、もっと問題のある部分もあったの。彼はナチス政権下でフライブルク大学の学長を務めたことがあって、その関与の度合いについては今でも議論が続いているんだ。学長在任期間は約1年と短期間だったけどね」
私は驚いて目を丸くします。
「え? ナチスと関係があったの?」
「そうなの。これは哲学者の思想と実際の行動の関係について、深く考えさせられる問題よ。ハイデガー自身、後年になってもこの問題について十分な説明をしなかったことで批判されているんだ」
お姉さんは少し悲しそうな表情を浮かべます。
「でも、だからこそ私たちは、哲学者の思想を学ぶときに、その人の生き方や時代背景もしっかり見ていく必要があるのよ」
私は深く頷きます。哲学は単なる抽象的な思考ではなく、実際の人生や社会と深く結びついているのだと改めて感じました。
「ところで、ハイデガーの思想には他にも興味深い点があるの。例えば、彼は『死への存在』という概念を提唱したんだ」
「死への存在? なんだか怖そう……」
お姉さんは優しく微笑みます。
「怖く聞こえるかもしれないけど、実はとても大切な考え方なのよ。ハイデガーによれば、私たちは常に死の可能性に直面しているからこそ、人生の有限性を意識し、本当の意味で『生きる』ことができるんだって」
「へえ、死を考えることで、むしろ生きることの意味が分かるってこと?」
「その通り! よく理解できてるわ。ハイデガーは、死を単に恐れるべきものとしてではなく、私たちの存在の本質的な部分として捉えたのよ」
お姉さんは窓の外を見つめながら、少し物思いに耽るような表情を浮かべます。
「ハイデガーの思想は、現代の実存主義哲学に大きな影響を与えたんだ。例えば、前に話したサルトルやカミュといった哲学者たちも、ハイデガーの考え方を発展させていったのよ」
「実存主義って、キルケゴールの話をしたときにも出てきたよね?」
「そう、よく覚えてたわね! キルケゴールは実存主義の先駆者と言われているけど、ハイデガーはそれを20世紀的な文脈で深めたんだ。彼の『存在と時間』という本は、現代哲学の古典と言われているくらいよ」
お姉さんは本棚から別の本を取り出します。
「ハイデガーの思想は難解で、彼独特の用語がたくさん出てくるの。例えば、『気遣い(Sorge)』『被投性(Geworfenheit)』『頽落(Verfallen)』なんていう言葉。これらを理解するのは本当に大変なんだけど、彼が言いたかったことの本質は意外とシンプルなのよ」
「シンプル? どういうこと?」
「要するに、私たちは常に『世界の中に投げ出されている』存在で、その中で自分の可能性を実現しようとしている。でも同時に、日常生活に埋没してしまいがちで、本当の自分を見失う危険性もある。だから、常に自分の存在について問い続けることが大切だってことなの」
私は少し考え込みます。
確かに、日々の生活に追われていると、大切なことを忘れがちになる気がします。
「ハイデガーは晩年、技術の問題にも取り組んだのよ。彼は現代の科学技術が、私たちの存在のあり方を根本的に変えてしまう危険性があると警告したんだ」
「技術の問題? でも技術って便利なものじゃない?」
「確かに便利よね。でも、ハイデガーが心配したのは、技術によって世界や自然が単なる『資源』として扱われるようになってしまうことなの。そうなると、私たち自身も技術の道具になってしまう危険性があるって」
お姉さんは窓の外を指さします。
「例えば、あの美しい夕焼けを見て。ハイデガーなら、私たちはその美しさをただ感じるのではなく、なぜそれが美しいと感じるのか、その体験が私たちの存在にどういう意味を持つのかを考えるべきだって言うかもしれないわ」
私は夕焼けを見つめながら、その意味について考えてみます。確かに、ただ「きれいだな」と思うだけでなく、もっと深く考えることができそうです。
「ハイデガーの思想は、現代の環境問題や技術倫理の議論にも大きな影響を与えているのよ。彼の問いかけは、今でも私たちに重要な示唆を与えてくれるんだ」
お姉さんは本を閉じ、私の方を向きます。
「さて、最初の質問に戻ろうか。『なんのために生きているんだろう』って。ハイデガーの考えを踏まえると、どう思う?」
私は少し考えてから答えます。
「うーん、まだよく分からないけど……でも、その問いを持ち続けること自体に意味があるのかな?」
お姉さんは満足そうに頷きます。
「その通りよ。ハイデガーが教えてくれたのは、答えを見つけることよりも、問い続けることの大切さなんだ。そして、その問いを通じて、自分の存在のあり方を常に意識し、可能性に開かれた生き方をすることが重要なのよ」
窓の外では、夕焼けがゆっくりと夜の闇に変わっていきます。私は自分の存在について、もっと深く考えてみようと思いました。
さらに調べてみよう:
1. ハイデガーの主著『存在と時間』の入門書を読んでみよう。難しい本だけど、ハイデガーの思想の核心に触れることができるよ。
2. ハイデガーの技術論について調べてみよう。現代の AI や環境問題との関連を考えるのも面白いかもしれないね。
3. ハイデガーと他の実存主義哲学者(サルトルやカミュなど)の思想を比較してみよう。共通点や相違点を見つけるのも興味深いはずだよ。
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