第14章:「超人の哲学 - ニーチェの生の肯定」

 真夜中、静寂に包まれた書斎。机の上には一冊の本が開かれ、その横には一杯のコーヒーが置かれています。窓の外では満月が輝き、その光が部屋を淡く照らしています。


 そこに座っているのは、いつものお姉さん。でも、今日はちょっと様子が違います。普段の優しい表情とは打って変わって、眉間にしわを寄せ、何か深刻なことを考えているようです。


「ねえ、まだ起きてる? 今日はちょっと重い話になるかもしれないけど、聞いてくれる?」


 お姉さんの声に、私は目を覚まします。

 時計を見ると、午前2時を回っています。

 草木も眠る丑三つ時です。

 こんな時間に何があったのでしょうか?


「うん、ちょっと眠いけど大丈夫だよ。何かあったの?」


 私が答えると、お姉さんはため息をつきました。


「実は今、フリードリヒ・ニーチェという哲学者について考えていたの。彼の思想って、とても刺激的で魅力的なんだけど、同時にとても危険でもあるんだ。特に今の時代に……」


 お姉さんの表情が曇ります。私は少し身を乗り出して、彼女の話に耳を傾けました。


「ニーチェって、どんな人なの?」


「ニーチェはね、1844年にドイツで生まれた哲学者なの。彼の思想は、それまでの西洋哲学の伝統を根本から覆すような、とてもラディカルなものだったんだ」


 お姉さんは、机の上の本を手に取ります。


「彼の代表作の一つ、『ツァラトゥストラはかく語りき』っていう本があるんだけど、これがまた難解で……でも、その中に彼の思想のエッセンスが詰まってるんだよ」


 お姉さんは本を開き、ページをめくります。


「例えば、こんな一節があるの。『神は死んだ』って」


 私は驚いて目を丸くしました。


「神が死んだ? それってどういう意味?」


 お姉さんは微笑みます。


「そう、びっくりするよね。でも、これは文字通り神が死んだって意味じゃないんだ。ニーチェが言いたかったのは、近代社会において、絶対的な価値基準としての『神』がもはや機能していないってことなの」


 お姉さんは、さらに説明を続けます。


「思い出してみて。私たちがこれまで学んできた哲学者たち、プラトンやアリストテレス、そしてストア派やトマス・アクィナス。彼らの多くは、何らかの形で絶対的な存在や価値を前提にしていたでしょ?」


 私は頷きます。

 確かに、プラトンの「イデア」や、アリストテレスの「不動の動者」、キリスト教哲学における「神」など、絶対的な何かが常に存在していました。


「でも、ニーチェはそういった絶対的なものを全て否定したんだ。彼にとっては、全ての価値は人間が作り出したものに過ぎなかったの」


「じゃあ、ニーチェは無神論者だったの?」


「うーん、単純にそうとは言えないかな。彼は確かに伝統的な宗教、特にキリスト教を強く批判したけど、同時に新しい『神々』の必要性も説いていたんだ。でも、それは人間が自ら創造する『神』なんだよ」


 お姉さんは、少し考え込むように目を閉じます。


「ニーチェの思想で特に重要なのが、『超人』の概念なの。これは、既存の価値観を全て乗り越えて、自分自身の価値を創造できる人間のことを指すんだ」


「超人? なんだかカッコいい響きだね」



 お姉さんは深い吐息を漏らし、優しい眼差しで私を見つめながら、こう語り始めました。


「ニーチェの『超人』って概念、確かにカッコいいよね。でも、同時にとても危険な側面もあるの。


 ニーチェが言いたかったのは、自分で新しい価値観を作り出せる人のことなんだけど、これが誤解されると、今ある道徳や倫理を全部否定しちゃうことにもなりかねないの。


 実はね、ニーチェ自身は暴力や破壊を良いことだなんて一言も言ってないのよ。むしろ、自分の心の中で古い考えを乗り越えていくことが大切だって考えていたんだ。


 でも、悲しいことに、彼の死後、彼の思想が誤って解釈されちゃったの。特に、ナチスって知ってるよね? 彼らがニーチェの言葉を都合よく解釈して、自分たちの恐ろしい考えを正当化するのに使っちゃったんだ」


 お姉さんは私の目をしっかりと見つめ、優しく、でも真剣な口調で話し始めました。


「ニーチェには妹がいたの。エリーザベトっていうんだけど、彼女が起こしたことが、お兄さんの思想を大きく歪めちゃったんだ」


「どういうこと?」


 私が尋ねると、お姉さんは説明を続けました。


「ニーチェが病気で倒れた後、エリーザベトが彼の著作や未発表の原稿の管理を引き継いだの。でも、彼女はお兄さんの考えとは全然違う思想の持ち主だったんだ。彼女は反ユダヤ主義者で、後にはナチスを支持するようになったの」


「え? でも、それってニーチェの考えとは違うんでしょ?」


「そうなの。ニーチェ自身は反ユダヤ主義に反対していたのよ。でも、エリーザベトは自分の考えを押し付けるように、お兄さんの文章を編集しちゃったんだ。特に『力への意志』って本では、ニーチェの断片的な文章を自分の都合のいいように並べ替えたりしたの」


お姉さんは少し悲しそうな表情を浮かべます。


「結果として、ニーチェの思想があたかも反ユダヤ主義やナチスの考えと近いように見えてしまったんだ。後にナチスがニーチェの思想を自分たちのイデオロギーに利用したのも、こういう歪曲があったからなの」


「それって、とても悲しいことだね……」


「そうね。でも、今の研究者たちは、そういった歪曲に気づいていて、ニーチェが本当に書いたものを基に、彼の思想を正しく理解しようとしているの。これは私たちに大切なことを教えてくれるわ。誰かの思想を学ぶ時は、できるだけ原典に当たること、そして、その人の言葉がどういう文脈で語られたのかをしっかり確認することが大切なんだよ」


お姉さんは優しく微笑んで、こう締めくくりました。


「哲学を学ぶ時は、こういった歴史的な背景も含めて理解することが大切なの。それで初めて、その思想の本当の意味や価値が分かるんだよ


 だから、偉大な思想家の言葉でも、それをどう受け取るかは私たち次第なんだ。ニーチェの考えは本当は深くて面白いものなんだけど、同時に誤解されやすい危うさも持っているの。


 これは私たちに、どんな考え方に触れても、しっかり自分の頭で考えることの大切さを教えてくれているんじゃないかな」


 お姉さんは優しく微笑みながら、私の理解を確認するように目を覗き込みました。


「でも、ニーチェの思想には魅力的な部分もたくさんあるの。例えば、『永劫回帰』っていう考え方。これは、もし同じ人生を何度でも繰り返さなければならないとしたら、あなたはどう生きる? っていう問いなんだ」


 私は少し考え込みます。

 確かに、同じ人生を何度も繰り返すとしたら、後悔のない生き方をしたいと思い、それを素直にお姉さんに伝えました。


「そう、その通り! ニーチェはこの考え方を通じて、人生の一瞬一瞬を大切にし、自分の人生を肯定的に生きることの重要性を説いたんだ」


 お姉さんの目が輝きます。


「そして、『力への意志』という概念もあるの。これは、単に他人を支配する力じゃなくて、自分自身を乗り越えていく力のことを指すんだ。自分の弱さや限界と向き合い、それを克服していくことの大切さを説いているんだよ」


 私は感心して聞いています。

 確かに、自分自身を乗り越えていくことは大切だと思います。


「でも、ニーチェ自身の人生はとても苦しいものだったんだ。彼は若くして大学教授になったけど、健康上の理由で早々に退職せざるを得なかった。そして、晩年には精神を病んでしまって……」


 お姉さんの声が少し震えます。


「彼の最後の著作活動の時期には、極度の孤独感に苛まれていたんだ。例えば、彼はこんなことも書いているの」


 お姉さんは再び本を開きます。


「『私の時代はまだ来ていない。ある者は死後に生まれる』」


 私は息を呑みます。なんて寂しい言葉でしょう。


「ニーチェは自分の思想が当時の人々には理解されないことを痛感していたんだね。でも、彼の予言は当たったんだ。今、私たちが彼の思想について語っているように」


 お姉さんは静かに続けます。


「ニーチェの思想は彼の死後、20世紀に入ってから大きな影響力を持つようになったんだ。特に実存主義の哲学者たちに強い影響を与えたんだよ」


「実存主義? それって、前に話してくれたキルケゴールのことかな?」


「そうそう、よく覚えてたわね! そう、キルケゴールもニーチェも実存主義の先駆者と言われているの。でも、二人のアプローチはかなり違うんだ」


 お姉さんは少し考え込むように目を閉じます。


「キルケゴールが信仰を通じて実存の問題に向き合おうとしたのに対して、ニーチェは徹底的に人間の力を信じたんだ。神に頼るのではなく、自分自身の力で自分の人生の意味を見出そうとしたんだよ」


「でも、それって大変なことじゃない? 神様がいないって考えたら、すごく不安になりそう」


 私が言うと、お姉さんは優しく微笑みます。


「そうね。ニーチェの思想は確かに不安を伴うものかもしれない。でも、彼はその不安こそが人間を成長させると考えたんだ。『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』(善悪の彼岸 第146節)って彼は言ったわ」


「怖い……」


「確かに怖いわね。でも、この言葉には深い意味があるの。私たちが人生の真の姿、その不確実性や危険性を直視する時、それは同時に私たちの内なる力や可能性を呼び覚ますってことなんだ」


 お姉さんは立ち上がり、窓際に歩み寄ります。満月の光が彼女の横顔を照らしています。


「ニーチェの思想は、時に破壊的に見えるかもしれない。でも、それは古い価値観を壊して、新しい価値を創造するためなんだ。彼の言う『価値の転換』ってのはそういう意味よ」


「新しい価値を創造する……」


「そう、それがニーチェの言う『生の肯定』なの。たとえ人生が苦しみに満ちていても、それを含めて全てを肯定する。そして、自分の人生を芸術作品のように創造していくんだ」


 お姉さんが振り返ると、その目には強い光が宿っています。


「ねえ、あなたはどう思う? もし全ての価値観が人間の創造物だとしたら、あなたはどんな価値を大切にしたい?」


 私はしばらく考え込みます。そして、ゆっくりと口を開きます。


「うーん、難しいな。でも、思いやりとか、勇気とか、そういうのは大切にしたいかな」


 お姉さんは満足そうに頷きます。


「素晴らしい選択ね。ニーチェも人間の創造性や勇気を高く評価していたわ。でも、彼の考えでは、それらの価値さえも常に問い直し、再評価する必要があるんだ」


「え? でも、思いやりって絶対に良いことじゃないの?」


「良い質問ね。確かに、普通は思いやりは良いものだと考えるわ。でも、ニーチェは全ての価値観を疑ってみることが大切だと考えたの。例えば、過剰な思いやりが相手の自立を妨げることはないかな? 勇気が無謀さにつながることはないかな? そういう風に、常に批判的に考え続けることが大切なんだ」


 私は少し混乱した様子で首を傾げます。


「でも、そんな風に全部疑っちゃったら、何も信じられなくなっちゃわない?」


 お姉さんは優しく笑います。


「そうね、確かにそういう危険性もあるわ。でも、ニーチェが目指したのは、ただ全てを否定することじゃなくて、批判的に考えた上で、自分自身の価値観を創造することなんだ。それが彼の言う『自由精神』ってものよ」


 お姉さんは再び本棚に目を向けます。


「ニーチェ以前の哲学者たち、例えばカントなんかは、普遍的な道徳法則を追求したわ。でも、ニーチェはそういった普遍的な価値観の存在自体を疑ったんだ」


「じゃあ、ニーチェにとっては、何が正しいとか間違っているとかって決められないの?」


「そうね、ニーチェの考えでは、絶対的な『正しさ』は存在しないの。でも、だからこそ私たち一人一人が自分の価値観を創造する責任があるって考えたんだ。それが彼の言う『運命愛』という考え方につながるんだよ」


「運命愛? なんだかロマンチックな響きだね」


 お姉さんは少し笑います。


「確かにロマンチックな響きがあるわね。でも、これはとても深い概念なの。自分の人生に起こる全てのこと、良いことも悪いことも含めて、全てを愛し、肯定するという考え方なんだ」


 私は少し考え込みます。


「でも、辛いことや悲しいことまで愛するなんて、難しそう……」


「そうね、確かに難しいわ。でも、ニーチェはそこに人間の偉大さがあると考えたんだ。苦しみさえも肯定し、それを自分の成長の糧にできる。そんな強さを持つことが、彼の言う『超人』の特徴なんだよ」


 お姉さんは窓の外を見つめます。夜明けが近づいているようで、空が少しずつ明るくなり始めています。


「ニーチェの思想は、時に危険で過激に見えるかもしれない。でも、それは私たちに、自分の人生に対する責任と、創造的に生きることの重要性を教えてくれるんだ」


 お姉さんの言葉に、私は深く考え込みます。確かに、自分の人生は自分で創り上げていくものだと思うと、少し怖いけれど、同時にワクワクする気持ちも湧いてきます。


「ねえ、お姉さん、ニーチェって、本当に幸せだったのかな?」


 お姉さんは少し悲しそうな表情を浮かべます。


「難しい質問ね。ニーチェの人生は決して平坦なものではなかったわ。彼は若くして大学教授になったけど、健康上の理由で早々に退職せざるを得なかったの。そして、晩年には精神を病んでしまって……」


「え? そんなに大変だったの?」


「そうなの。ニーチェは極度の孤独感に苛まれていたんだ。彼の思想があまりにも先進的すぎて、当時の人々にはほとんど理解されなかったからね」


 お姉さんは、机の上に置かれた本を再び手に取ります。


「ニーチェの思想は確かに難しいけど、同時にとても力強いものでもあるの。彼は私たちに、自分の人生を芸術作品のように創造していくことを教えてくれたんだ」


 朝日が部屋を明るく照らし始めます。お姉さんは深呼吸をして、私に向き直ります。


「ねえ、最後にニーチェの言葉を一つ紹介するね。『汝の人生を生きるがいい。それをはじめから繰り返し、絶えずあとから繰り返すがいい』」


「これは、さっき言ってた永劫回帰の考え方だよね?」


「そうよ。この言葉は、私たちに毎日を大切に、後悔のないように生きることを教えてくれているの」


 私は深く頷きます。

 ニーチェの思想は難しいけれど、何か心に響くものがあります。


「ごめんね、もう朝になっちゃったね。さあ新しい一日が始まるよ。今日をどう生きるか、あなた自身で決めてみて」


 お姉さんの言葉に、私は勇気をもらった気がしました。


「うん! 今日も一日、精一杯生きてみるよ」


 お姉さんは満足そうに微笑みます。


「そうそう、それでいいの。でも、ニーチェの思想を学んだからといって、急に何もかも変える必要はないわ。少しずつ、自分の価値観を見つめ直していけばいいの」


「分かった。ありがとう、お姉さん」


 私たちは朝日を浴びながら、新しい一日の始まりを感じていました。ニーチェの哲学は、私の中で何かを変えたような気がします。これからの人生を、もっと主体的に、創造的に生きていきたい。そんな思いが芽生えました。


「さあ、朝ごはんの準備をしましょう。今日は何を食べたい?」


「うーん、目玉焼きがいいな!」


「了解。じゃあ、一緒に作ろうか」


 こうして、私たちの新しい一日が始まりました。ニーチェの思想を胸に、今日も一歩一歩、自分の人生を創造していく。そんな決意を胸に、私たちは台所に向かいました。


さらに調べてみよう:

1. ニーチェの主要著作『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んでみよう。難しい本だけど、少しずつ読み進めてみるのも面白いかもしれないね。

2. ニーチェの「永劫回帰」の概念について、もっと詳しく調べてみよう。この考え方が現代の哲学や心理学にどんな影響を与えているか、探ってみるのも面白いよ。

3. ニーチェと同時代の他の哲学者たち(例えばキルケゴールやショーペンハウアー)の思想と比較してみよう。彼らの間にどんな共通点や相違点があるか、考えてみるのも興味深いかもしれないね。

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