第17章:「他者と自由 - サルトルの実存主義」

 パリのカフェ。

 煙草の煙がもうもうと立ち込める中、熱心に議論を交わす人々の姿が見える。

 その光景を想像しながら、私はお姉さんに尋ねました。


「ねえ、お姉さん。フランスの哲学者って、みんなカフェで議論してたの?」


 お姉さんは微笑みながら、コーヒーカップを手に取りました。


「そうね、特に20世紀のフランスでは、カフェが知識人たちの集まる場所だったわ。今日話すジャン=ポール・サルトルも、カフェ・ド・フロールという有名なカフェでよく仕事をしていたんだよ」


「へえ、サルトルってどんな人なの?」


「サルトルは1905年にパリで生まれた哲学者で、20世紀を代表する知識人の一人よ。彼は哲学者であると同時に、小説家や劇作家、そして政治活動家でもあったの」


 お姉さんは本棚から一冊の本を取り出しました。


「サルトルの思想の中心にあるのは『実存主義』という考え方なんだ。彼の有名な言葉に『実存は本質に先立つ』というのがあるんだけど、これはどういう意味だと思う?」


 私は少し考えてから答えました。


「うーん、難しいけど……人間にはあらかじめ決まった本質みたいなものはなくて、生きていく中で自分自身を作っていくってこと?」


「すごいじゃない、よく理解できているわ。サルトルは、人間には予め決められた本質や運命はなく、自分の選択と行動によって自己を形作っていくと考えたの」


 お姉さんは窓の外を指さしました。


「例えば、あそこを歩いている人たちを見て。サルトルなら、彼らは皆、自分の人生を選択しているんだって言うわ。その服装も、歩き方も、今この瞬間にしていることも、全て自分で選んでいるってね」


「でも、生まれた環境とか、才能とか、そういうのは選べないんじゃない?」


「いい質問ね。確かに、私たちは自分の生まれや環境を選ぶことはできないわ。でも、サルトルが強調したのは、そういった与えられた状況の中でも、私たちには常に選択の自由があるってことなの」


 お姉さんは少し表情を引き締めました。


「ただし、この自由は重荷でもあるのよ。サルトルは『人間は自由の刑に処せられている』とも言ったんだ」


「自由が刑罰? どういうこと?」


「つまり、私たちは常に選択を迫られていて、その選択に対して責任を負わなければならないってことよ。これは時に重圧になるの。だから、サルトルは『人間は自由であるよう余儀なくされている』とも言ったんだ」


 私は少し考え込みます。

 確かに、自由に選択できることは素晴らしいけれど、同時に責任も伴います。


「サルトルの思想は、第二次世界大戦後のヨーロッパで大きな影響力を持ったの。戦争の苦しみを経験した人々にとって、自分の人生は自分で選び取るものだという考えは、新しい希望を与えたんだ」


 お姉さんは本を開き、ページをめくります。


「でも、サルトルの考え方は、それまでの哲学者たちとは大きく異なっていたわ。例えば、プラトンのイデア論や、アリストテレスの目的論的な人間観とは正反対よ」


「どう違うの?」


「プラトンやアリストテレスは、人間には理想的な形や目的があると考えたの。でも、サルトルはそういった本質主義的な考え方を否定したんだ。彼にとっては、人間は自分で自分を作り上げていく存在なのよ」


 お姉さんは少し考え込むように目を閉じます。


「また、デカルトの『我思う、ゆえに我あり』という考えも、サルトルは批判的に捉え直したんだ。サルトルにとっては、単に『考える』だけでなく、『行動する』ことこそが重要だったの」


「行動が大切なんだね」


「そうよ。サルトルは『人間は自分がそうしたところのものにすぎない』と言ったんだ。つまり、私たちは自分の行動によって自分自身を定義していくってことね」


 お姉さんは立ち上がり、窓際に歩み寄ります。


「サルトルの思想で特に重要なのが、『他者』との関係についての考察よ。彼は『他者とは地獄である』という有名な言葉を残したんだけど、これはどういう意味だと思う?」


 私は少し驚いた表情で答えます。


「えっ、他の人は地獄? それって人間嫌いってこと?」


 お姉さんは笑いながら首を横に振ります。


「そうじゃないのよ。サルトルが言いたかったのは、他者の存在が私たちの自由を制限し、時に苦痛を与えるということなの。例えば、他人の視線を意識することで、私たちは自由に振る舞えなくなることがあるでしょう?」


「あー、なるほど。人目を気にして本当の自分を出せないってことか」


「そういうことよ。でも同時に、サルトルは他者との関係なしには自己を確立できないとも考えたの。つまり、他者は私たちにとって不可欠な存在なんだ」


 お姉さんは再び座り、コーヒーを一口飲みます。


「ところで、サルトルの個人的な生活についても少し触れておきたいわ。彼には生涯のパートナーとして、シモーヌ・ド・ボーヴォワールという哲学者がいたの」


「へえ、哲学者同士のカップルなんだ、めずらしいね」


「そうなの。でも、二人の関係は当時としては非常に特殊だったのよ。結婚はせず、お互いの自由を尊重しながら、生涯にわたって深い絆で結ばれていたんだ


 私は興味深く聞き入ります。


「二人とも他の恋人を持つことを認め合っていたんだけど、それでも互いを『必要な愛』と呼んで、深い信頼関係を築いていたの。これは、サルトルの哲学における自由と責任の考え方が、実際の生活の中で実践されていた例と言えるわね」


「すごいね。でも、それって難しくなかったのかな?」


 お姉さんは少し物思わしげな表情を浮かべます。


「もちろん、簡単ではなかったでしょうね。サルトル自身、嫉妬や不安に悩まされることもあったようよ。でも、彼らはそういった感情も含めて、お互いの自由を尊重し合うことを選んだんだ」


 お姉さんは微笑みながら話を続けます。


「サルトルとボーヴォワールの関係は、本当にとてもユニークで興味深いものだったのよ。二人は1929年に哲学の高等教育資格試験で出会ったんだけど、そこからの話が面白いの」


 私は興味深く聞き入ります。


「サルトルはボーヴォワールに『あなたは私の分身だ』と言って、プロポーズしたんだって。でも、それは普通の結婚の申し込みじゃなかったの。サルトルは『僕たちは自由な関係を持とう。でも、お互いが必要な存在であり続けよう』と提案したんだ」


「え? それって普通の恋人同士じゃないってこと?」


「そうなの。さっきも言ったけど、二人はそれを『必要な愛』と呼んだんだ。結婚はせずに、お互いの自由を尊重しながら、生涯にわたって深い絆で結ばれていたのよ」


 お姉さんは少し考えてから続けました。


「例えば、1939年にサルトルが兵役に就いたとき、二人は毎日のように手紙をやり取りしていたの。その中でサルトルは自分の哲学的な考えを綴り、ボーヴォワールはそれに対して批評や意見を返していたんだ。これは二人の関係が知的にも深かったことを示しているわ」


「へえ、すごいね。でも、他の人と付き合ったりしなかったの?」


「実は、そこが特殊なところなの。二人は『偶然の愛』も認め合っていたのよ。つまり、他の恋人を持つことを互いに認めていたんだ。例えば、ボーヴォワールはアメリカの作家ネルソン・オルグレンと恋愛関係になったことがあるの」


 私は少し驚いた様子で聞いています。


「でも、それでも二人の絆は揺るがなかったのよ。1986年にボーヴォワールが亡くなったとき、彼女はサルトルの墓の隣に埋葬されたんだ。これは、二人の関係が生涯続いたことを象徴しているわ」


 お姉さんは最後にこう付け加えました。


「この関係は、サルトルの『自由』と『責任』の哲学を体現していたと言えるわ。二人は互いの自由を尊重しながら、同時に深い責任を持って関係を築いていたの。簡単な道ではなかったと思うけど、二人の哲学的な生き方を示す興味深い例だと思うわ」


 お姉さんは本棚から別の本を取り出します。


「あとサルトルの思想は、彼の文学作品の中にも色濃く反映されているの。例えば、『嘔吐』という小説では、主人公が世界の不条理性と向き合い、自己の存在の意味を問い直すんだ」


「哲学小説みたいなものなんだね」


「そうよ。サルトルは哲学的な考えを、小説や戯曲を通じて表現することが得意だったの。それによって、より多くの人々に彼の思想が伝わったんだ」


 お姉さんは少し表情を曇らせます。


「ただ、サルトルの生き方や思想には批判もあったわ。例えば、彼は長年、共産主義に共感的な立場を取っていたんだけど、それが時に現実の政治状況と齟齬を来すこともあったの」


「政治的な活動もしていたんだ」


「そうよ。サルトルは知識人として、社会や政治に対して積極的に発言し、行動した人なの。例えば、アルジェリア独立戦争やベトナム戦争に反対する運動に参加したりしたわ」


 お姉さんは窓の外を見やります。


「サルトルの思想で特に興味深いのは、『状況』という概念よ。彼は、人間は常に特定の状況の中に置かれているけれど、その状況をどう解釈し、どう行動するかは自由だと考えたの」


「状況? それってどういうこと?」


「例えば、今のあなたの状況を考えてみて。学生で、家族がいて、この部屋にいる。これらは与えられた状況ね。でも、その中で何を学び、どう行動するかは、あなた自身が選択できるの」


 私は少し考え込みます。

 確かに、同じ状況でも人それぞれ違う選択をすることがあります。


 お姉さんは窓際に立ち、遠くを見つめるような目で話し始めました。


「サルトルの晩年の姿は、彼の哲学そのものを体現していたと言えるわ。1973年頃から、彼の視力は急速に衰え始めたの。最終的にはほぼ完全に失明してしまったんだけど、それでも彼は決して諦めなかったのよ」


 お姉さんは椅子に座り、私の方を向きました。


「例えば、サルトルは視力を失っても、毎日数時間は執筆や口述筆記を続けていたのよ。彼の最後の大作『家の馬鹿息子』は、ほとんど盲目の状態で書かれたんだ。想像してみて。目が見えないのに、複雑な哲学的な考えを表現し続けるなんてすごいことじゃない?」


 私は驚きの表情を浮かべます。


「でも、それだけじゃないの。サルトルは視力を失った後も、政治的な活動を続けていたんだ。1979年には、ベトナムからのボートピープルを支援するために記者会見を開いたりしてね。彼は自分の影響力を使って、社会的な問題に取り組み続けたのよ」


 お姉さんは少し間を置いて、静かに続けました。


「サルトルは自分の状況を『新しい状態』と呼んでいたそうよ。『私は盲目ではない。私は新しい状態にあるのだ』って。これは、彼が自分の置かれた状況を否定するのではなく、それを受け入れた上で、なお自由に生きようとする姿勢を示しているわ」


「最後まで哲学者だったんだね」と私が言うと、お姉さんは頷きました。


「そうよ。彼は視力を失う前から『老い』について考察を重ねていたの。そして、自身の経験を通じて、その思索をさらに深めていったんだ。彼は自分の身体の変化を、哲学的な探求の新たな機会として捉えていたのよ」


 お姉さんは最後にこう締めくくりました。


「サルトルの晩年の姿は、彼の言う『状況の中の自由』を体現していたわ。視力という重要な感覚を失うという厳しい状況の中で、それでも自由に生き、考え、行動し続けた。これこそが、サルトルの哲学の真髄だったと言えるわね」


 お姉さんは優しく微笑みます。


「サルトルの思想は、私たちに重い責任を課すけれど、同時に大きな可能性も示してくれるの。『人間は自由であり、自由とは選択であり、選択とは責任を負うことである』というサルトルの言葉は、今でも多くの人の心に響いているわ」


「なるほど。自由って素晴らしいけど、同時に怖いものでもあるんだね」


「そうよ。でも、サルトルならこう言うでしょうね。『その恐れさえも、あなたが選んでいるのよ』って」


 私は深く頷きます。

 サルトルの思想は難しいけれど、何か心に響くものがあります。


 お姉さんは、目を輝かせながら話し始めました。


「さて、今日の最後に一つ面白いエピソードを紹介するね。サルトルは1964年にノーベル文学賞を受賞したんだけど、それを辞退したの」


 私は驚きの声を上げました。


「えっ、なんで? すごい名誉なのに」


 お姉さんは微笑みながら、ゆっくりと説明を始めました。


「サルトルは、そういった制度化された栄誉が、作家の自由を制限すると考えたんだ。彼は『作家は、制度化されることを拒否し、自由でなければならない』と主張したのよ」


 お姉さんは本棚から新聞の切り抜きのようなものを取り出しました。


「実はね、サルトルは賞の発表前から、もし選ばれても辞退すると決めていたんだって。でも、スウェーデン・アカデミーは彼の意思を無視して発表してしまったの」


「それで、サルトルはどうしたの?」


 私は興味深く尋ねました。


「サルトルは即座に声明を発表したわ。『私の拒否は個人的な行動ではなく、作家という職業に対する私の考えに基づいています』って。彼は、作家が特定の制度や権威と結びつくことで、その批判的な立場が損なわれることを恐れていたのよ」


 お姉さんは新聞の切り抜きを指さしながら続けました。


「面白いのは、サルトルのこの行動が世界中で大きな話題になったこと。ある意味で、辞退したことで彼の主張はより広く知られることになったんだ。ノーベル賞を辞退したことで、彼の思想がより多くの人に届いたとも言えるわね」


「でも、賞金はすごく高額だったんじゃないの?」


  私が尋ねると、お姉さんは頷きました。


「そうよ。当時で約53,123ドル、今の価値に換算すると約40万ドルくらいかな。でも、サルトルはそれも辞退したの。『もし受け取れば、それは私の原則を裏切ることになる』って」


 お姉さんは最後にこう付け加えました。


「サルトルのこの行動は、彼の哲学そのものを体現していたと言えるわ。自由であることの重要性、そして自分の信念に従って行動する勇気。これこそが、サルトルが私たちに教えてくれたことなんだと思う」


 この話を聞いて、私はサルトルの信念の強さに感銘を受けました。名誉や金銭よりも自由を選ぶ。それは簡単なことではないはずです。でも、それこそがサルトルの哲学の真髄だったのかもしれません。


 お姉さんは本を閉じ、私の方を向きます。


「さあ、サルトルの話を聞いて、あなたはどう思った? 自分の人生や選択について、新しい視点は得られた?」


 私は少し考えてから答えます。


「うーん、難しいけど……でも、自分の選択に責任を持つことの大切さは分かったよ。それに、他の人との関係も、もっと深く考えてみたいな」


 お姉さんは満足そうに頷きます。


「それがサルトルの哲学を学ぶ意義なのよ。自分の人生を主体的に生きること、そして他者との関係の中で自己を見つめ直すこと。これからの人生で、きっと役に立つはずよ」


 窓の外では、夕暮れの空が美しく染まっています。私は、サルトルの言う「自由の重さ」を感じながら、新たな決意を胸に秘めました。


さらに調べてみよう:

1. サルトルの代表作『存在と無』を読んでみよう。難解な本だけど、サルトルの思想の核心に触れることができるよ。

2. サルトルとボーヴォワールの関係について、より詳しく調べてみよう。二人の書簡集を読むのも面白いかもしれないね。

3. サルトルの実存主義と、前に学んだキルケゴールやニーチェの思想を比較してみよう。共通点や相違点を見つけるのも興味深いはずだよ。

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