第8章:「人間は白紙で生まれる? - ロックと経験論」

 お姉さんは、窓辺に座って外の景色を眺めながら、新しい章の話を始めました。


「さて、前回はデカルトについて学んだわね。今回は、デカルトとは少し違う考え方をした哲学者、ジョン・ロックについてお話しするわ」


 私は興味深そうに耳を傾けました。


「ジョン・ロックは1632年、イギリスのサマセット州で生まれたの。彼の父親は弁護士で、清教徒革命の際には議会軍の将校として戦ったのよ」


「へぇ、お父さんが軍人だったんだ」


「そうね。この経験が、後のロックの政治思想にも影響を与えることになるの。でも、まずは彼の生い立ちから見ていきましょう」


 お姉さんは、ロックの幼少期について語り始めました。


「ロックは、幼い頃から病弱だったの。特に喘息に悩まされていたわ」


「えっ、大変だったんだね」


「そうね。でも、この病気のおかげで、彼は読書や思索に多くの時間を費やすことができたのよ。病気のせいで外で遊べなかった分、本を読んだり考えたりする時間が増えたの」


「なるほど……。でも、やっぱり辛かったんじゃない?」


「きっとそうだったでしょうね。でも、ロックはこの経験を前向きに捉えていたみたい。彼は後年、『私の弱い体質が、私を学問の道に導いてくれた』って書いているわ」


「へぇ、すごいな。私だったら落ち込んじゃいそう。それにしても哲学者って体の弱い人がおおいよね? だからいろいろ考えちゃうのかな?」


「確かにそういう面はあるかもしれないわね。でも、ロックはそこから人間の健康について深く考えるようになったの。彼は後に『健康論』という本も書いているのよ」


「哲学者なのに健康の本も書くんだ!」


「そうなの。ロックは、心と体は密接に関係していると考えていたわ。『健康な精神は健康な身体に宿る』っていう言葉、聞いたことある?」


「あ、なんか聞いたことがある気がする」


「これはローマの詩人ユウェナリスの言葉なんだけど、ロックもこの考えに賛同していたの。彼は、健康であることが良い思考のための基礎だと考えていたのよ」


 お姉さんは少し間を置いて、ロックの学生時代について話し始めました。


「ロックは14歳でウェストミンスター校に入学したの。そこで彼は、古典語や論理学を学んだわ」


「14歳?  早いね」


「そうね。当時のイギリスでは、早くから高等教育を受けるのが一般的だったの。その後、ロックは20歳でオックスフォード大学に進学したわ」


「オックスフォード大学!  すごい!」


「そうね。でも、ロックは大学での教育にあまり満足していなかったみたいなの」


「え?  どうして?」


「当時の大学教育は、主にアリストテレスの哲学を暗記することが中心だったの。ロックはそれを『無益な言葉遊び』だと批判していたわ」


「へぇ、大学の先生に反抗的だったんだ」


「そうね。でも、ここでロックは重要な気づきを得たの。『本当の知識は、ただ暗記することではなく、自分で考え、経験することから得られる』っていうことにね」


「なるほど……。確かに、ただ覚えるだけじゃあんまり身にならないかも」


「その通りよ。これが後のロックの『経験論』につながっていくの」


 お姉さんは、ロックの若い頃の恋愛についても触れました。


「ロックには、若い頃に恋をした人がいたの。エリザベス・キングっていう女性よ」


「へぇ、哲学者にも恋人がいるんだね」


「もちろんよ。哲学者だって人間だもの。でも、この恋は実らなかったの」


「え?  どうして?」


「エリザベスの父親が反対したんだって。ロックはまだ無名の学者で、エリザベスの家柄には釣り合わないと思われたのよ」


「かわいそう……」


「そうね。でも、この経験がロックの思想に影響を与えたと言われているわ。彼は後に『人間は生まれながらにして平等である』という考えを主張するんだけど、この恋愛の失敗が一つのきっかけになったんじゃないかって言われているの」


「へぇ、恋の失敗が哲学につながるんだ」


「そうなのよ。人生の経験が、その人の考え方を形作っていくのね」


 お姉さんは、ロックの政治との関わりについても話し始めました。


「ロックは、政治にも深く関わっていたの。特に、アンソニー・アシュリー・クーパーという政治家との出会いが、彼の人生を大きく変えることになったわ」


「政治家と知り合いだったの?」


「そうよ。クーパーは後にシャフツベリ伯爵になる人なんだけど、ロックは彼の主治医兼秘書として働くことになったの」


「え?  主治医?  ロックってお医者さんだったの?」


「そうなの。ロックは医学も学んでいたのよ。でも、正式な医師の資格は持っていなかったわ。それでも、クーパーの信頼は厚かったみたいね」


「へぇ、すごいな。でも、どうして政治家の秘書になったの?」


「クーパーがロックの才能を見出したからよ。ロックの知識と洞察力が、政治の世界でも役立つと考えたんでしょうね」


「なるほど……。でも、政治って難しそう」


「確かにね。でも、ロックはこの経験を通じて、政治や社会の仕組みについて深く考えるようになったの。これが後の『統治二論』という政治哲学の著作につながっていくわ」


 お姉さんは、ロックの日常生活についても語り始めました。


「ロックには面白い習慣があったのよ。毎日日記をつけていたんだけど、その日記には天気の様子を細かく記録していたの」


「え?  天気?」


「そう。気温や湿度、風向きまで記録していたんだって。これは彼の『観察する習慣』の表れだと言われているわ」


「へぇ、まるで気象予報士みたい」


「うふふ、そうね。でも、この習慣は彼の哲学とも関係があるのよ。ロックは『人間の知識は全て経験から得られる』と考えていたでしょ。だから、日々の観察を大切にしていたのね」


「なるほど……。でも、毎日記録するのは大変そう」


「そうね。でも、ロックはとても几帳面な性格だったみたい。彼の友人たちは、ロックのことを『時計のように規則正しい人』って呼んでいたそうよ」


「へぇ、私には真似できそうにないな」


「そうかもしれないわね。でも、ロックのこういった習慣が、彼の哲学を支えていたのよ。日々の観察から、人間や社会について深い洞察を得ていたんだわ」


 お姉さんは、ロックの主要な著作について説明し始めました。


「ロックの代表作は『人間知性論』っていう本よ。この本で彼は、人間の知識がどのように形成されるかについて詳しく論じているの」


「へぇ、どんなことが書いてあるの?」


「ロックは、人間の心は生まれた時は『タブラ・ラサ』、つまり『白紙』の状態だと考えたのよ」


「白紙?  どういうこと?」


「つまり、人間は生まれた時には何の知識も持っていない。全ての知識は、生まれた後の経験を通じて獲得されるっていう考え方よ」


「えっ、じゃあ赤ちゃんは本当に何も知らないの?」


「そうね、これは議論の分かれるところね。現代の心理学では、赤ちゃんにも生まれつきのある程度の能力があると考えられているわ。でも、ロックの考え方は、当時としては革新的だったの」


「どうして?」


「それまでは、人間には生まれつきの知識や観念があるという考え方が一般的だったからよ。例えば、『神の存在』とか『善悪の観念』とかね。でも、ロックはそれを否定したの」


「へぇ、すごいね。でも、それって危険じゃなかったの?」


「鋭い質問ね。確かに、ロックの考え方は当時の宗教界からは批判されたわ。でも、彼は巧みに言葉を選んで、自分の考えを表現していたのよ」


「どういうこと?」


「例えば、ロックは『神の存在』そのものは否定しなかったの。ただ、『神の観念』は経験を通じて形成されると主張したのね。こうすることで、宗教界からの激しい批判を避けることができたのよ」


「なるほど……。難しそうだけど、面白いね」


「そうでしょ?  哲学って、こういう風に既存の考え方に疑問を投げかけて、新しい見方を提示するものなのよ」


 お姉さんは、ロックの思想が当時の社会にどのような影響を与えたかについても説明しました。


「ロックの考え方は、教育の分野にも大きな影響を与えたのよ」


「教育?  どんな風に?」


「ロックは『子供の教育論』という本も書いているの。そこで彼は、子供の個性を尊重し、体験を通じて学ぶことの重要性を説いているわ」


「へぇ、今でも言われてることだね」


「そうね。ロックの考え方は、今の教育にも生きているのよ。例えば、『子供の興味・関心に基づいて学ばせる』とか『体験学習を重視する』とかいった考え方ね」


「なるほど……。ロックって、すごく先進的だったんだね」


「そうなのよ。彼の考え方は、教育だけでなく、政治や社会の仕組みにも大きな影響を与えたの」


「政治にも?  どんな風に?」


「ロックは『社会契約論』という考え方を提唱したの。これは、政府の権力は人々の合意に基づいているという考え方よ」


「え?  よく分からない……」


「そうね、ちょっと難しいかもしれないわ。簡単に言うと、『政府は人々のために存在する』という考え方よ。だから、もし政府が人々の権利を侵害するようなことをしたら、人々にはその政府を変える権利があるっていうのね」


「へぇ、それって革命みたいなことも認めるってこと?」


「そうよ。実際、ロックの思想はアメリカ独立革命やフランス革命にも影響を与えたと言われているわ」


「すごい!  哲学って、そんなに大きな影響力があるんだね」


「そうなのよ。哲学は単なる机上の空論じゃなくて、実際の社会を変える力を持っているの」


 お姉さんは、ロックの晩年について触れました。


「ロックは晩年、オーツという女性の家に住んでいたの。彼女はロックの友人の妻で、ロックのことをとても大切にしていたわ」


「へぇ、優しい人がいたんだね」


「そうね。ロックは生涯独身だったけど、晩年はオーツ家の人々に囲まれて穏やかに過ごしたみたい。でも、彼の健康状態はあまり良くなかったわ」


「やっぱり喘息?」


「そうね、喘息だけでなく、他の病気も患っていたみたい。でも、そんな中でも彼は最後まで思索を続けていたのよ」


「すごいな……。でも、辛くなかったのかな」


「きっと辛いこともあったでしょうね。でも、ロックは『死』についても独自の考えを持っていたの」


「死について?  怖くなかったの?」


「ロックは、死を恐れるよりも、いかに生きるかを大切にすべきだと考えていたのよ」とお姉さんは言いました。


 私は少し考え込みました。そして、突然思いついたように言いました。


「あ!  それって、カーペ・ディエム(その日を摘め)みたいな感じ?」


 お姉さんは驚いたような表情を浮かべました。


「まあ、よく知ってるわね。そうよ、『今を生きる』という考え方ね。でも、ロックの場合は少し違うの」


「どう違うの?」


 お姉さんは窓の外を見やりながら、ゆっくりと説明し始めました。


「ロックは、人生を一種の『旅』だと考えていたの。私たちは皆、この世界という『宿屋』に一時的に滞在している旅人のようなものだと」


 私は目を丸くして聞き入りました。お姉さんは続けます。


「だから、この『宿屋』での滞在をいかに有意義に過ごすか、それが大切だとロックは考えたのよ。死は単に次の場所への出発にすぎない」


「へぇ……。なんだか、ちょっとロマンチックな感じがするね」


 お姉さんはくすっと笑いました。


「そうね。哲学者って、意外とロマンチストが多いのよ」


 そう言って、お姉さんは本棚から一冊の本を取り出しました。


「これはロックの『教育に関する考察』という本よ。ここに面白いことが書いてあるの」


 お姉さんは本をパラパラとめくり、ある箇所で止めました。


「ほら、ここ。『子供たちに美徳を教えるには、説教よりも実践が大切だ』って書いてあるでしょ」


「へぇ、確かにそうかも。でも、お姉さん、ロックって子供いなかったんでしょ?」


 お姉さんは微笑みながら頷きました。


「鋭い指摘ね。そうなの。ロックには子供がいなかった。でも、彼は友人の子供たちの教育に深く関わっていたのよ」


「そうなんだ。じゃあ、実際に子育ての経験はあったんだね」


「そうね。理論だけじゃなく、実践的な経験も持っていたのよ。それがこの本の説得力にもつながっているんだと思うわ」


 私はちょっと考えてから、こう言いました。


「でも、お姉さん。ロックの考え方って、今の時代にも通用するのかな?」


 お姉さんは嬉しそうな表情を浮かべました。


「いい質問ね。確かに、ロックの時代と今では、社会の仕組みも、人々の価値観も大きく変わっているわ。でも、彼の基本的な考え方――人間の尊厳や自由、平等といった概念――は、今でも重要だと思うの」


「なるほど……」


「例えば、ロックは『所有権』についても深く考えていたの。彼は、人が自分の労働で得たものは、その人のものになるべきだと主張したのよ」


「え?  それって当たり前じゃないの?」


 お姉さんは首を横に振りました。


「今ではそう思えるかもしれないけど、当時は違ったのよ。多くの財産は貴族や教会が持っていて、普通の人々にはあまり権利がなかったの」


「へぇ、そうだったんだ」


「ロックの考え方は、後の資本主義の発展にも影響を与えたと言われているわ。でも同時に、彼は『必要以上のものを独占してはいけない』とも主張していたの」


 私は少し考え込みました。そして、ふと思いついたように言いました。


「あ、それって今の『格差社会』の問題にも関係あるのかな?」


 お姉さんは嬉しそうに微笑みました。


「その通りよ。ロックの考え方を現代社会に当てはめて考えてみるのは、とても意義深いことだと思うわ」


 そう言って、お姉さんは立ち上がり、台所に向かいました。


「さて、少し休憩しましょう。お茶を淹れるわ」


 お茶を飲みながら、私たちはロックの思想が現代社会にどう適用できるか、しばらく話し合いました。


 休憩後、お姉さんは再び話を始めました。


「ところで、ロックには面白い趣味があったのよ」


「どんな趣味?」


「園芸なの。特にチューリップの栽培に熱中していたみたいよ」


「えっ、哲学者なのに?」


 お姉さんはクスッと笑いました。


「哲学者だって、頭の中だけで生きているわけじゃないのよ。実際、ロックは『自然との触れ合いが、思考を深める』と考えていたんだって」


「へぇ、意外だな」


「そうでしょ?  でも、よく考えてみると、園芸って哲学的な要素がたくさんあるのよ」


「え?  どういうこと?」


 お姉さんは目を輝かせて説明し始めました。


「例えば、種を植えて育てる過程は、『因果関係』や『時間の概念』を考えるきっかけになるでしょ。それに、植物の成長を観察することで、『変化』や『成長』について深く考えることができるの」


「なるほど……。確かに、そう言われてみれば」


「それに、ロックは園芸を通じて、『人間と自然の関係』についても考えを深めていったみたいよ。彼の『自然状態』という概念も、こういった経験が基になっているんじゃないかって言われているの」


「へぇ、趣味が哲学につながるんだね」


「そうよ。だから、あなたの趣味や日常生活の中にも、哲学的な要素がたくさん隠れているかもしれないわ」


 私は自分の趣味や日常生活を思い返してみました。そして、ふと気づいたことがありました。


「あ、そう言えば、私、料理するとき、いつも『なぜこの調味料を使うんだろう』とか考えちゃうんだ」


 お姉さんは嬉しそうに頷きました。


「それ、とても哲学的な思考よ。『なぜ』を考えることは、哲学の基本なの」


「へぇ、じゃあ私も少し哲学者かも?」


「そうね。みんなの中に、小さな哲学者が住んでいるのよ」


 お姉さんはそう言って、優しく微笑みました。


「さて、ロックの話に戻りましょうか。彼の晩年のエピソードで、とても印象的なものがあるの」


「どんなエピソード?」


「ロックが亡くなる直前、彼は友人たちを集めて、こう言ったんだって。『私は幸せな人生を送りました。でも、人生はお芝居のようなもの。どんなに素晴らしい芝居でも、最後には幕を下ろさなければならない』って」


「へぇ……。なんだかちょっと寂しい感じがするけど、でも凛としてるね」


「そうね。ロックは最後まで、自分の人生を肯定的に捉えていたのよ。そして、死をも自然なこととして受け入れていたの」


「すごいな……。私には、まだ難しそう」


「大丈?よ。哲学は、そういうことを少しずつ考えていく過程なの。一朝一夕にはいかないわ」


 お姉さんは優しく微笑んで、こう付け加えました。


「でも、ロックの考え方を知ることで、私たちも自分の人生や死生観について、深く考えるきっかけになるんじゃないかしら」


 私は静かに頷きました。ロックの人生と思想について学ぶことで、自分自身の人生や価値観についても、少し考えさせられた気がしました。


 お姉さんは、最後にこう言いました。


「さあ、ここでちょっと考えてみましょう。ロックは『経験が人間を形作る』と考えたけど、あなたはどう思う?  生まれつきの才能や性格は、本当にないのかしら?」


 私は少し考え込みました。そして、おずおずと答えました。


「うーん、難しいけど……。多分、両方かな。生まれつきの部分もあるけど、経験で変わる部分も大きいんじゃないかな」


 お姉さんは満足そうに頷きました。


「いい答えね。哲学っていつも、こういう風に考え続けることが大切なの」


さらに調べてみよう:

1. ロックの『人間知性論』を読んでみよう。特に「タブラ・ラサ」の概念について深く考えてみるといいわ。

2. ロックの政治思想が、アメリカ独立宣言にどのような影響を与えたか調べてみよう。

3. 現代の教育理論と、ロックの教育論を比較してみるのも面白いわよ。


 お姉さんはこほんと咳ばらいをしてから、次回の予告をしました。


「次は、ロックと同時代に活躍した別の哲学者、ゴットフリート・ライプニッツについて話すわ。彼はロックとは違う考え方をしていて、とても興味深いのよ」


 私は期待に胸を膨らませながら、次の章を楽しみに待つことにしました。

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