第7章:「我思う、ゆえに我あり - デカルトと近代哲学の幕開け」

 お姉さんは、次の章に進む前に、一杯のお茶を淹れました。窓から差し込む柔らかな陽光の中、私たちは居心地の良いソファに腰を下ろしました。


「さて、前の章ではルネサンス期の哲学者たちについて学んだわね。今回は、近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルトについてお話しするわ」


 お姉さんはそう言って、静かに話し始めました。


「デカルトは1596年、フランスのラ・エ・アン・トゥーレーヌという小さな町で生まれたの。彼の家族は裕福な法律家の家系だったわ」


「へぇ、お金持ちだったんだ」


「そうね。でも、デカルトの人生は決して平坦ではなかったわ。彼が1歳の時にお母さんを亡くしているの。そして、幼い頃から病弱だったのよ」


「えっ、そうなんだ……」


「そうなの。でも、この経験が彼の思想形成に大きな影響を与えたの。デカルトは、自分の弱い体質のせいで、多くのことを疑うようになったんだって」


「疑う?  どういうこと?」


「例えば、医者の言うことを簡単に信じなくなったの。『この薬を飲めば良くなる』って言われても、『本当にそうかな?』って考えるようになったのよ」


「なるほど……」


「そして、この『疑う』という姿勢が、後にデカルトの哲学の中心になるの。彼の有名な言葉、『我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)』も、この『疑い』から生まれたものなのよ」


「『我思う、ゆえに我あり』?  なんだかカッコいい!  でも、どういう意味なの?」


 お姉さんは優しく微笑んで説明を続けました。


「デカルトは、全てのことを疑ってみることから始めたの。世界は本当に存在するのか、自分の体は本当にあるのか、自分が見ている景色さえ夢なのではないか……。そうやって全てを疑っていった時、唯一疑えないものが何だと思う?」


「えっと……分からない」


「それが『自分が考えているということ』なのよ。『私は考えている』という事実は、たとえ全てが夢や幻だとしても、疑うことができない。だから、『私は考えている。だから、私は存在する』という結論に至ったの」


「へぇ~、すごい!  でも、なんだか難しそう……」


「確かに難しい考え方よね。でも、デカルトはこの考えを基に、新しい哲学の体系を作り上げたの。彼は、全てを疑うことから始めて、確実な知識を積み上げていこうとしたのよ」


「全部疑うの?  大変そう……」


「そうね。でも、デカルトはそれを実践しようとしたの。彼には面白い日課があってね。毎朝、ベッドで数時間過ごすんだって」


「え?  寝てるの?」


「いいえ、起きてるの。ただ、ベッドに横たわって、じっと考え事をするの。この時間を使って、彼は自分の考えを整理したり、新しいアイデアを練ったりしていたのよ」


「へぇ~、私もそんな風に考え事できるかな」


「もちろん!  実は、デカルトのこの習慣は今でも『デカルト式思考法』として知られているのよ。静かな環境で、リラックスした状態で考えることで、より深い思考ができるっていう考え方ね」


「試してみたいな」


「そうね。でも、寝坊しちゃダメよ!」


 お姉さんはくすっと笑いながら、話を続けました。


「デカルトには他にも面白い習慣があったの。彼は、毎日同じ服を着ていたんだって」


「え?  毎日?  洗濯とかしないの?」


「もちろん、洗濯はしていたと思うわ。でも、同じデザイン、同じ色の服を何着も持っていて、それを毎日着ていたのよ。彼は、服を選ぶのに時間を使うのは無駄だと考えていたんだって」


「へぇ~、確かに時間の節約になりそう」


「そうね。デカルトは時間を大切にする人だったの。彼は『人生は短い。だから、できるだけ多くのことを学び、考えなければならない』って考えていたのよ」


「なるほど……。でも、デカルトって、数学者としても有名なんでしょう?」


「あら、よく知ってるわね!  そうなの。デカルトは哲学者であると同時に、優れた数学者でもあったの。特に、座標系を発明したことで有名よ」


「あ!  xy座標のこと?」


「その通り!  デカルト座標系って呼ばれているでしょ。これも彼の大きな功績の一つよ」


「すごいね。でも、数学と哲学って、全然違う分野じゃないの?」


「一見そう見えるかもしれないけど、実はデカルトにとって、数学と哲学は密接に関係していたの。彼は、数学の論理的な思考方法を哲学にも応用しようとしたのよ」


「どういうこと?」


「例えば、数学では公理から出発して、論理的に結論を導き出すでしょ。デカルトは、哲学でも同じようなことができないかと考えたの。『我思う、ゆえに我あり』を出発点として、そこから論理的に世界の仕組みを解き明かそうとしたのよ」


「へぇ~、なんだかすごそう」


「そうね。でも、この考え方には批判もあったのよ。全てを論理的に説明しようとすると、人間の感情や経験といった、数値化できないものが軽視されてしまうんじゃないかって」


「確かに……」


「そういう意味で、デカルトの哲学は『合理主義』って呼ばれているの。理性や論理を重視する立場ね」


 お姉さんは少し考え込むような表情をして、続けました。


「でも、デカルトの人生にも悩みはあったのよ。彼は、自分の考えが教会の教えと矛盾しないかどうか、常に気にしていたの」


「え?  どういうこと?」


「当時のヨーロッパでは、教会の力がとても強かったの。ガリレオが地動説を唱えて迫害されたことは知ってる?」


「あ、聞いたことがある!」


「そう。デカルトも同じように、自分の哲学が教会から批判されないか心配だったの。だから、彼は自分の著作の中で、しばしば神の存在を証明しようとしているのよ」


「へぇ~、大変そうだね」


「そうね。実際、デカルトの著作の一部は教会から批判を受けて、禁書目録に載せられてしまったこともあるのよ」


「禁書目録? ラノベ?」


「違うわよ(笑)。教会が『読んではいけない』と指定した本のリストのことよ。この目録に載ると、その本を読むことは罪とされたの」


「怖いね……」


「そうよね。でも、デカルトはそんな中でも、自分の考えを伝えようと努力し続けたの。彼は『真理を探求することは、神から与えられた使命だ』と考えていたのよ」


 お姉さんは少し間を置いて、デカルトの恋愛や結婚生活についても触れました。


「デカルトは生涯独身だったの。でも、彼には恋人がいたのよ」


「えっ!  哲学者にも恋人がいるんだ」


「もちろんよ。哲学者だって人間だもの。デカルトの恋人は、ヘレーナ・ヤンスという女性だったの。彼女との間に娘フランシーヌが生まれたんだけど……」


 お姉さんの表情が少し暗くなりました。


「残念ながら、フランシーヌは5歳で亡くなってしまったの」


「そんな……なんか若くしてお子さんを亡くしてる哲学者の人多くない?」


「そうね。でもこの経験は、デカルトに大きな影響を与えたわ。彼は娘の死後、『機械論的自然観』という考え方を発展させたの」


「機械論的自然観?」


「世界を巨大な機械のように捉える見方よ。全ての現象は、物質の運動によって説明できるという考え方ね。デカルトは、この考え方を人間の体にも適用して、体を一種の機械として捉えようとしたの」


「体が機械?  なんだか変な感じ」


「確かにそう感じるかもしれないわね。でも、この考え方は近代医学の発展にも大きな影響を与えたのよ。体を機械として捉えることで、より科学的に人体を研究できるようになったの」


「へぇ~、すごいね」


「ただ、デカルトはここでジレンマに陥ったの。体は機械のように説明できても、心や魂はどう説明すればいいの?」


「あ、確かに……」


「そこでデカルトは、『心身二元論』という考え方を提唱したの。体(物質)と心(精神)は別のものだという考え方よ」


「別のもの?」


「そう。体は空間を占める物質だけど、心は空間を占めない非物質的なものだって考えたの。でも、この考え方にも問題があったのよ」


「どんな問題?」


「もし体と心が全く別のものなら、どうやって相互に作用し合うの?  例えば、"手を動かそう"と思った時、実際に手が動くでしょ。この心と体の関係をどう説明すればいいの?」


「うーん、難しそう……」


「そうなのよ。この問題は『心身問題』と呼ばれて、今でも哲学の大きなテーマの一つになっているわ」


 お姉さんは少し考え込んでから、デカルトの晩年について話し始めました。


「デカルトは晩年、スウェーデンのクリスティーナ女王に招かれて、宮廷に住むことになったの」


「え?  外国の女王に?  すごいね!」


「そうね。クリスティーナ女王は知的好奇心が強く、デカルトの哲学に興味を持ったの。でも、これがデカルトにとっては不幸な選択になってしまったわ」


「どうして?」


「クリスティーナ女王は、朝の5時から哲学のレッスンを受けたがったの。寒いスウェーデンで、暖房もろくにない城の中を歩いて……」


「うわぁ、寒そう」


「そうなの。そして、この生活の変化がデカルトの健康を害してしまったの。彼は1650年、肺炎で亡くなってしまったわ」


「え……。せっかく招かれたのに……」


「そうね。でも、デカルトの思想は彼の死後も大きな影響を与え続けたわ。彼の考え方は、その後の哲学や科学の発展に大きな影響を与えたの」


 お姉さんは少し間を置いて、デカルトの死生観について触れました。


「デカルトは、死後の世界についても考えを巡らせていたわ。彼は魂の不滅を信じていて、死は単に魂が体から離れる瞬間だと考えていたの」


「へぇ、怖くなかったのかな」


「そうね。彼にとって死は、新しい世界への旅立ちのようなものだったのかもしれないわ。でも、同時に彼は『この世界でできることをしっかりやろう』という考え方も持っていたの」


「なるほど……」


「さて、ここでちょっと考えてみましょう。デカルトの『我思う、ゆえに我あり』について、あなたはどう思う?  本当に『考えている』ということだけが確実なことなのかな?」


「うーん……。難しいけど、面白い質問だね」


「そうよね。こういうことを考えるのも哲学の醍醐味なのよ。デカルトの考え方は、今でも多くの人に影響を与え続けているわ」


 お姉さんは、さらに調べてみるべきことをいくつか提案しました。


さらに調べてみよう:

1. デカルトの主著『方法序説』を読んでみよう。彼の思考法がよく分かるわよ。

2. デカルトの数学への貢献について調べてみよう。特に解析幾何学の発展における彼の役割は重要よ。

3. デカルトと同時代の哲学者たち、例えばフランシス・ベーコンやトマス・ホッブズとの思想の違いを比較してみるのも面白いわね。



 お姉さんは少し考えてから、話を続けました。


「デカルトの哲学は、その後の西洋思想に大きな影響を与えたのよ。特に、彼の『方法的懐疑』という考え方は重要ね」


「方法的懐疑?  それって何?」


「全てのことを一度疑ってみて、本当に確実なものだけを受け入れようという方法よ。これは、科学的な思考方法の基礎にもなっているの」


「へぇ、すごいね。でも、全部疑うのは大変そう……」


「確かにそうね。でも、時には当たり前だと思っていることを疑ってみるのも大切よ。例えば、『なぜ空は青いの?』って考えたことある?」


「えっと……ないかも」


「そうでしょ?  でも、こういう『当たり前』を疑うことから、新しい発見が生まれることもあるのよ」


 お姉さんは優しく微笑んで、デカルトの影響について話を続けました。


「デカルトの考え方は、哲学だけでなく、科学や数学、さらには芸術にまで影響を与えたの」


「芸術にも?  どんな風に?」


「例えば、透視図法という絵画技法があるんだけど、これはデカルトの座標系の考え方と関係があるのよ。画面を平面座標と見立てて、そこに立体的な世界を表現する方法ね」


「へぇ、すごい!  哲学って、いろんなところにつながってるんだね」


「そうなのよ。哲学は、私たちの考え方の基礎になっているの。だから、哲学を学ぶことは、世界の見方を広げることにもつながるのよ」


 お姉さんは少し間を置いて、デカルトの人間関係についても触れました。


「デカルトには多くの友人や支援者がいたの。特に、マラン・メルセンヌという修道士との交流は有名よ」


「修道士さんと仲良しだったの?」


「そうね。メルセンヌは、当時のヨーロッパの知識人たちの橋渡し役みたいな存在だったの。彼を通じて、デカルトは多くの学者たちと意見を交換していたのよ」


「へぇ、昔からSNSみたいなものがあったんだね」


「うふふ、そうね。手紙でのやり取りだったけど、今のSNSと似たような役割を果たしていたわ。デカルトは、こうした交流を通じて自分の考えを深めていったのよ」


 お姉さんは、デカルトの人間性についても語り始めました。


「デカルトは、とても几帳面な性格だったみたいよ。毎日同じ時間に起きて、決まった順序で日課をこなしていたんだって」


「えー、毎日同じことの繰り返し?  退屈じゃなかったのかな」


「そうかもしれないわね。でも、デカルトにとっては、そうすることで集中して思考できたんじゃないかしら。彼は『混乱した生活からは、混乱した思考しか生まれない』って考えていたのよ」


「なるほど……。確かに、規則正しい生活は大切かも」


「そうよね。でも、デカルトにも悩みはあったの。彼は、自分の考えが世間に受け入れられるかどうか、常に不安を抱えていたのよ」


「え?  でも、すごい哲学者なのに……」


「そう。どんなに偉大な人でも、不安や悩みはあるものなのよ。デカルトは、自分の著作を公表するのをためらうことも多かったんだって」


「へぇ、意外だな」


「でも、そんな不安を抱えながらも、彼は真理を追求し続けたの。それが彼の強さでもあったのよ」


 お姉さんは、デカルトの哲学が現代社会にどのような影響を与えているかについても触れました。


「デカルトの考え方は、今でも私たちの生活に影響を与えているのよ。例えば、『合理的に考える』ということの重要性は、デカルトの影響が大きいわ」


「合理的に考える?」


「そう。感情や偏見にとらわれず、論理的に物事を考えることよ。これは、科学的な思考の基礎にもなっているの」


「なるほど……。でも、感情って大切じゃないの?」


「いい質問ね。確かに、感情も人間にとって重要な要素よ。デカルトの考え方を批判する人たちは、まさにその点を指摘しているの。人間を単なる『考える機械』として捉えすぎているんじゃないかって」


「うーん、難しいね」


「そうよね。これは今でも哲学の重要なテーマの一つなの。理性と感情のバランスをどう取るか、人間をどう捉えるか……。こういった問題について考えることも、哲学の大切な役割なのよ」


 お姉さんは、最後にデカルトの言葉を紹介しました。


「デカルトはこんなことも言っているわ。『良識は世界で最も公平に分配されているものである。なぜなら、誰もが自分の持ち分に満足しているからだ』」


「え?  どういう意味?」


「つまり、誰もが『自分の考え方は正しい』と思っているってことよ。でも、本当にそうかな?  時には自分の考えを疑ってみることも大切じゃないかしら」


「なるほど……。確かに、たまには自分の考えを見直してみるのも良さそう」


「そうよね。哲学って、そういう風に自分の考えを見つめ直すきっかけを与えてくれるものなのよ」


 お姉さんは、デカルトの話を締めくくりました。


「デカルトの哲学は、近代的な思考の基礎を作ったと言えるわ。彼の考え方は、その後の哲学者たちに大きな影響を与え、また批判の対象にもなったの。でも、それこそが哲学の発展につながったのよ」


「へぇ、哲学って面白いね。もっと知りたくなってきた」


「そう言ってくれて嬉しいわ。次回は、デカルトの後を受けて登場した経験論の哲学者たちについて話すわね。特にジョン・ロックという人物は重要よ」


「楽しみ!」


 お姉さんは満足そうに微笑み、次回の話に向けて準備を始めました。

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