第34話 後宮の私室にて

「……え!? ケイト様、殿下とご一緒にエインズワースへ向かわれるのですか?」

「ええ、昨日レナード様がいらっしゃった時に、そのように仰っていました」


朝食の後。

食後の紅茶を淹れていたアンは非常に驚き、僅かに手元を狂わせた。

白磁の器に溢れた薄茶色の雫を拭き取ることもせず、アンは目を見開いてケイトを見つめた。


「昨日、でございますか。また随分と急なお話ですね……」


春の宴の労をねぎらうために訪れたはずのレナードが残していったとんでもない置き土産に、アンは非難がましい声をあげた。


「そのようです。出立は一週間後だそうだから、荷造りを手伝って貰える?」

「はぁ……」


納得のいっていない様子で、アンは驚愕と同時に探るような眼差しを向けてくる。

ケイトは普段通りの表情を心がけて、アンを宥めるように落ち着いた笑みを浮かべてみせた。


「エインズワースへ視察に向かわれるので、皇国の見学も兼ねて、よければと。ありがたいご好意です」


適当な理由をつけて答えれば、アンは怪訝そうに眉をひそめる。


「殿下の『視察』……ご公務にご同行されるのですか?」

「……まぁ、そのようなところです。旅行がてら、と」

「……『旅行』ですか……殿下が……」


言葉を濁すケイトの様子に、これ以上深く尋ねてはいけないと察したのか、アンは口を噤んだ。

そのまま眉を寄せて考え込むアンの様子に、ケイトは平静な顔を保ちながらも、己の失敗を悟った。


考えてみれば、この国で皇族としての公務に就くのは、基本的には『皇族』である正妃のみ。

それ以外の『妻』達が、公の場に出ること自体が少ないのだ。

後宮に入った側室達の務めは、子をなし、未来の国主を支える人材を健やかに育てることなのだから。


加えて、ケイトは男だ。

いくらレナードに正妃が居ないとはいえ、この国で男が『妻』として後宮に入ることは褒められた行いではない。

子を生すという勤めすら果たせない男の側室は、爛れた欲望のためでしかないと思われるからだ。

この保守的な国で、男の側室が正妃代理として認められるとは思えなかった。


ケイトが表舞台に立つことは、リスクが高すぎるはずだ。

それなのに、公務に付き添うなど、無理があったか。


眉を寄せて考え込んでいるアンを、ケイトは僅かな不安とともに見守った。

しばらく黙り込んでいたアンは、一つ息を吐くと顔を上げ、どこか腹を括ったような目でケイトを見た。


「私もお供致します。ケイト様」

「……いえ、今回は侍女は付けないことになっているから……」


苦笑して首を振るケイトに、アンはわざとらしく憤慨するように眉を釣り上げた。


「まぁ!第一の側妃であられるケイト様が、侍女も連れずにご旅行を?」

「旅行ではなく、ご公務ですし。……対外的には、『私』が行くわけではありませんから」


一呼吸躊躇った後で口にしたケイトに、やっぱり、とでも言いたげにアンが顔を顰める。

思慮深く、厳しい眼差しで、アンはケイトを見据えた。


「……では、どのようなお立場で」

「…………はぁ。殿下の、側仕えとして、です」

「………………そんな」


ここまで来てアンを誤魔化せるとは思えなかったケイトは、諦めるようにため息を一つ吐いて簡潔に告げた。

ケイトの答えから厄介な未来を予測したのか、アンが額を押さえて呻く。


「……明らかに異国の方と分かる容姿のケイト様を側仕えとして連れて行こうだなんて……なんてこと……側仕えとして人々の記憶に残ってしまえば、ケイト様はますます後宮から出られなくなってしまわれるではありませんか」


アンは主人に向けるとは思えないような非難の眼差しを向け、レナードの無茶な要求と、ケイトの軽率さを嘆いた。

その言葉に、ケイトは眉を下げて「それは困ったこと」と返し、表情だけは同意してみせた。


正直なところ、ケイトはこの一瞬で、未来の状況を的確に想定してみせたアンの洞察力に舌を巻いていた。

おそらくおおむね、アンの予想通りになるだろう。

この旅から戻ってきたら、ケイトはきっと、後宮から出られなくなる。

側妃として人々の前に顔を見せることは、不可能になるだろう。


「まぁ、でも、元々私は、このまま後宮で一生を過ごす予定だったのですから。外に出る予定もありませんでしたし、構わないでしょう」

「ケイト様……」


肩を竦めるだけで受け入れるケイトの言葉に、アンはため息を重ねる。

けれど、ケイトにとっては本当に、大きな問題ではなかったのだ。


ケイトは後宮の外の世界にも、城の外の世界にも、大した興味はなかった。

それに元々、性別を含めて、ケイトの素性が詳らかになることは避けたかったため、今後公の場に出ることはなかっただろう。

だから、状況はきっと大差ないのだ。


きっとレナードは、それで良いと思っているのだろう、とケイトは想像している。

春の宴の準備のために議論を重ねていた時も、事あるごとに「後宮に閉じ込めておくには勿体なさすぎるな」と嘆いていたから。




忙しない春の宴の準備の合間。

終わりがけには、ほとんどをケイトに丸投げしていたレナードは、打ち合わせのためと称してケイトの私室にやってきては、ケイトの横で様々な政務を持ち込んで、作業を並行して片付けていた。

そして次第に、ケイトは少しずつ事務仕事を手伝わされるようになっていた。


ある日、渡された書類には、何桁もの数字が並んでいた。

国の財政に関わる報告文書の内容と数値の確認を頼まれ、ケイトは呆れて笑いながら言ったのだ。


「こんな重要な……側近の方々ならともかく、これは私に見せてはいけない書類では?何かあったらどうするのです」


冗談のつもりで口した言葉に、平然と「お前だから頼んでいるんだ」と返されて、ケイトは言葉を失った。


「何も問題はないだろう。……お前がよく言うように、お前が俺のものなのならば、俺の物に俺の情報を、『俺の不利になるように』使われることはないだろう?」


レナードは自明の理を告げるかのように、自信に満ちた口調だ。

予想外の言葉に固まったケイトにくすくすと笑いながら、レナードは悪戯っぽい顔で首を傾げる。


「それとも、お前は誰かと、それこそ帝国と通じて、俺を裏切るのか?」

「…………ま、さか。僕は、僕を捨てた帝国に義理立てする意味はありませんよ。それに、人質に取られるような、身内も大切な人間も、誰一人おりませんし」


強張った喉を無理やり動かして、ケイトは震えそうな心から、誓いの言葉を絞り出す。


「私の身命は、間違いなく、レナード様のものですよ」

「ふふっ、どこかで聞いたような台詞だなぁ……まぁ、その言葉を信じておくか」


どこか照れたように笑って、優しく緩む瞳に、寄せられる信頼に、ケイトは泣いてしまいそうだった。





レナードはきっと、ケイトを側妃ではなく、側近にしたいのだ。

今回のことは、きっとそのための準備の一つなのだろう。

様々な状況を考え合わせた末に、ケイトはそう結論づけた。


それならば、それでいいと思った。

レナードの力になれるのであれば、それはケイトにとって喜びであった。


今後も体を求められることは決してないのだろうという確信に満ちた予感に、心の片隅へ絶望の欠片が落とされたことは事実ではあったが。




「まぁ、良いではありませんか。レナード様のお力になれるのでしたら」

「ケイト様は、殿下に甘すぎますわ。おおかた、味方の少ない殿下に、共に狐退治をしようとでも頼まれたのでしょうけれど。……アデ様は、とても、危険な御方ですわ」


軽やかに笑って話を終わらせようとしたケイトを咎めるように、アンが小さく首を振った。

真剣な眼差しの忠告に、ケイトの背筋にも緊張感が走る。


「かつて、アデ様が皇宮にいらっしゃった頃、皇帝陛下は決して一人で出歩かれなかったと聞きます」

「それ、は」


アンの言葉が指し示す事実に、ケイトは一瞬言葉に詰まった。

穏やかに国を治めている今代帝は、いつ何時、刺客に襲われてもおかしくはない状況だった、ということだろう。

今の平和さに比べて、一体当時の皇宮はどれほど殺伐としていたことだろうか。


言葉を探すケイトを前に、既に衝撃から立ち直ったらしいアンは止まっていた手を動かして、新しい茶器を取り出し、紅茶を淹れ直した。


「まったく、春の宴が終わったばかりだというのに、お疲れを癒す間もなく……なんてこと……いえ、きっとこのタイミングだから、なのでしょうけれど」

「……本当に、アンは優秀なのね」


嘆息混じりに呟かれた言葉から、おそらくアンが春の宴での『失敗』についても勘付いていたことを察して、ケイトは諦めまじりの賞賛を送った。

一にも満たぬ僅かの情報からほとんど全容を察してしまう有能すぎる侍女に、ケイトは苦笑いしか出来ない。

何故これほど聡明な娘が、ケイトの侍女などしているのかと、首を傾げてしまう。


「でも、これで侍女を連れて行かれない理由は、分かってくれた?」

「いえ。では私は、殿下の侍女として参ります。そのような、どこに敵がいるか分からぬ場所に、ケイト様を身ひとつで送り出すなど、とうてい出来ませんわ」


半ば以上無理であろうと思いつつアンに訊ねれば、アンははっきりと首を横に振った。

アンの澄んだ碧眼は強い光を宿し、使命感に燃えている。

固く心に決めたような様子に、ケイトはアンの説得を諦めた。


「……レナード様がいらした時に、お願いしてみましょう」


ケイトはそっとため息をつき、了承を示すように頷いた。

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