第5話 つくよみのみこと

 僕は目を丸くする。消失したはずの綱張神社つなはりじんじゃが目の前に現れたのだ。日はまだ沈んでいないとはいえ、夏の夕暮れの匂いがヒグラシの音色をたたえている。


「灯りがある……」


 僕は車を降りて、綱張神社の本殿に近づく。こんなところに一体誰がいるのだろう。


「すみません」


 本殿に声をかけると、すぐに中から一人の若い女性が出てきた。大きな三つ編みをおさげにした、今流行のレトロな髪型をしている。この神社の関係者だろうか。


「どうかされましたか?」

「あの、郷土史の研究をしていまして」


 誰かいるとも思わなかったので、僕はしどろもどろに答える。


「本来ですと事前に連絡してからお伺いするのが筋だと思ったのですが、夜分急にすみません」


 時刻は午後五時前だろうか。夕飯の準備をしているような時間帯だ。少なくともアポイントなしに突撃する時刻ではない。


「いえ、私たちはいつでもやってくる人を歓迎しています。少しでしたらお答えできることもありますよ。さ、どうぞ」


 女性は僕を社務所の縁台に案内する。縁台に腰かけた僕に、女性は小さな缶ジュースを手渡す。


「研究されているなんて、偉いですね」

「いえ、ほんの趣味みたいなもので」


 女性に褒められると、悪い気はしない。


「それで、何をお知りになりたいのですか?」

「……この神社の御神体と歴史について教えてもらってもいいですか?」


 僕は老婆のインタビューでの失敗から、「やむすび祭」についてすぐに尋ねないことにした。僕は携帯している懐のICレコーダーのスイッチを入れる。


「まあ、そんな立派なお話はできないんですけど」

「いえ、どんなお話でも研究の役に立ちます」


 女性は恥ずかしそうに話し始める。


「この神社はツクヨミ信仰の一環として、月読命つくよみのみことをおまつりしています」

「ツクヨミ信仰、ですか?」


 月読命つくよみのみこと天照大御神あまてらすおおみかみ建速須佐之男命たけはやすさのおのみことの兄弟神として夜や月の神として知られている神だ。古事記において他二神の活躍が多いため割をくったのか、あまり登場しないことでも有名な神である。


 それでも月読命つくよみのみことを祀っている神社はそれなりにある。まったくマイナーな神様というものでもないが、ツクヨミ信仰という言葉は初めて聞いた。


「はい、そもそもどうして月読命つくよみのみことが古事記に登場しないかご存じですか?」


 女性の意外な質問に、僕は面食らった。そんなこと、考えたこともなかった。


「太陽のアマテラス、海のスサノオ、そして夜のツクヨミ。アマテラスとスサノオが争ったことは有名ですが、実は古事記には記載されていないツクヨミの物語がある、というのがツクヨミ信仰です」


 なんだそんな話、聞いたこともないぞ?


「この神社も元々はツクヨミ信仰の元で月隠神社つきなばりじんじゃと呼ばれていました。それがつなばり、綱張と変化していったのでしょう」


 女性はにこやかに話を続ける。


「古来、ツクヨミは世の摂理に反して時の流れと生きとし生けるものの在り方を変えようと試みた。それをアマテラスとスサノオが諫め、ツクヨミは夜の食国よるのおすくにへ封じられた……これがツクヨミ信仰の定説です」


 聞いたこともない話を聞きながら、僕は情報を整理する。この神社がツクヨミを祀っているのであれば、「やむすび祭」や「よるのむすび」というワードに説得力が出てくる。おそらく彼女の言うツクヨミ信仰とやらの何らかの儀式なのだ。しかし、何故老婆はあそこまで露骨に嫌ったのだろう?


「そのツクヨミ信仰について、もう少し詳しく教えていただいてもよろしいですか?」


 ここに「やむすび祭」の真相が隠れているに違いない。ICレコーダーを握る僕の手に力が入る。


「ええ、簡単に言えばツクヨミの力を用いて世界の滅亡及び死者の蘇生を行えるというものです」


 いきなりスケールが大きな話になって、僕は息を飲んだ。女性は何事もなく話を続けようとする。そういえば、この女性は一体何者なんだ?


「世界の滅亡だなんて、そんな大げさな」

「あら、でも皆さん大好きでしょう? 環境破壊、終わらない戦争、ノストラダムスの大予言……世界は終わりたがっている。これがツクヨミ信仰の基本理念です」


 女性の笑顔は変わらなかった。僕は相槌を打つことも忘れて、女性の顔を見つめていた。ヒグラシの鳴き声だけが境内に虚しく響いていた。

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