第6話 猪俣沙加恵
いや。
そんなことはどうでもいい。
三月まで、問題のマーチングバンド部の部長だった生徒だ。
そして、問題の
猪俣沙加恵を辞めさせたのはそのころの顧問の先生で、その顧問の先生が恒子を新しい部長として押し込んだ、というのが真相らしい。恒子ははっきりは言わないけれど、恒子に断るという選択肢はなかったようだ。
でも、そんな事情を知らない生徒から見れば、恒子が、そして恒子について行った
しかも、そのあと、その猪俣沙加恵の不満をなだめるために、その猪俣沙加恵を生徒会役員にした。
その沙加恵を追い出した顧問が言い出したとも、恒子が言い出したとも、生徒会の会長が言い出したともいわれるのだけど、だれの発案か、真相は不明。
部の部長が部長を退任して生徒会役員に移る、というのはよくあることだ。けど、部を辞めさせられた生徒が、生徒会の一般委員でもないのにいきなり役員に、というのは異常だ。
まあ、一度引退して、欠員が出たからと主任委員に戻ったわたしだって「異常」には違いないけど、それは「やむを得ない事情なので、経験者を主任委員に戻した」で説明がつく。
沙加恵のばあい、どうしても「そこまでして生徒会は辞めさせられたマーチングバンド部前部長の機嫌をとらないといけないのか?」と思われてしまう。
また、わたしはよく知らないけど、そこまでして機嫌をとらなければならない何かの事情がある、というのが真相かも知れないのだ。
ともかく、生徒会に来た猪俣沙加恵は、音楽とは縁を切るから音楽が関係する仕事はやらないけど、それ以外なら何でもやると言った。そこで、そのころはまだ残っていた向坂恒子派の役員が、沙加恵に「持続可能な発展」の仕事を押しつけた。学校から、国連も「持続可能な開発目標」の達成を目指していることだし、生徒会もこれからは「持続可能な発展」問題に取り組め、と言われていたのを利用したらしい。でも、もともとそんなのをやる予定はなかったから、予算はゼロ、担当する委員もいない。要するに、できもしない仕事を担当させて、恒子と対立した相手をいじめるつもりだったのだ。
ところが、猪俣沙加恵は、言われたその日のうちに「持続可能な発展」のための生徒会の行動計画を作成してしまった。そして、会長と副会長、書記の了解を取ると、瑞城の先生方はもちろん、学校外の団体や、大学の先生たちとも関係を作ってしまった。ほかに担当の委員もいないのに、一人で、ときには生徒会委員以外の生徒といっしょにあちこちを飛び回り、熱心に活動した。
そして、猪俣沙加恵は、二か月も経たないうちに、瑞城が位置する県北海沿い地域の環境団体や農業団体や漁業団体や地域福祉団体のあいだで「
どうしてそんなに情熱を燃やすのか?
本人にきいたときには、
「ああ。そのほうがAO入試とか自己推薦とかで有利になるから」
と、とてもあたりまえのように答えていたが。
その言いかたそのものに
「あんたなんかに本音を言ってたまるものですか」
という強い意志、そして軽蔑を感じたのは、わたしの「気にしすぎ」というものなのだろうか。
わたし自身は自分が恒子派だとは思っていないけど、恒子と仲がよかったのは事実だ。いや。一時期はほんとうに「恒子ファン」だった。ほんとうに心の底から恒子にあこがれていた親友の
猪俣沙加恵も、たぶん、わたしも恒子派だと思って、心を許していない。
しかも、その猪俣沙加恵は「音楽が関係する仕事以外なら」と言っていたのだ。ところが、今日は、生徒会が模擬店を出しているなどというのはどちらでもよく、むしろそのマーチングバンド部が演奏してマーチングをする、というほうがメインイベントだ。その演奏が終わったところでカウントダウンに移り、そして最初の花火が打ち上げられるという段取りなのだから。
今日のは、みごとに「音楽が関係する」仕事だ。
沙加恵を巻きこむなんて。
話がいっそうややこしくなりそうな予感だ。
いまもわたしの横ではポットのお湯が沸騰し続けている。沸騰した泡が弾けるぼこぼこいう音が耳障りだ。
その耳障りな音を押しのけるように
「なにー?
とハイテンションな通りのよい声が響く。
顔を上げたところにいたのは、小太り体型の……。
……いやそれはどうでもいい。
生徒会の恒子派といまのマーチングバンド部に強烈な敵意を持っているらしい猪俣沙加恵だった。
今日は、制服ではなく、胸回りがややはち切れそうなピンクの開襟シャツと焦げ茶色のキュロットという服装だ。一般のお客さんにまぎれて判別が難しいが。
それに、しばらく見ないあいだに小太りがいっそう進んだ感じもするけれど。
たしかに、その猪俣沙加恵に違いなかった。
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