9.侵入なんてされてない

「ぇぅ」


 悲鳴を上げようとする恐怖と、大声を出してはいけないという理性がぶつかり合って、わずかに理性が上回った。


 黒い何かは、音に反応してこちらを見たと思ったら、空気に溶け込むようにして消えてしまった。


 家がばれている。


 そもそも相手に知能があるのかもわからない。住所を知られたのか、後をつけられたのか、警察犬のようににおいを辿ってきたのか、手段はわからない。


 害意があるとは限らないけれど、先ほどまで戦闘をしていたのだ。こちらから積極的に敵対するつもりはないとはいえ、佐藤くんがナイフで傷を負わせている。言葉が通じる相手でもないのに、今から和解とはいかないだろう。


 いや、そもそもあれは同じ個体なのだろうか。地下で遭遇したのは天井に頭がつくくらい巨大で、今目にしたのは普通の人間くらいのサイズだった。


 おそるおそる歩みを進めて、自分の部屋のドアの前を通り過ぎる。足を止めて周囲を伺うが、視線は感じない。監視されている気配はなかった。素早く引き返して、自室のドアをあけ、室内に飛び込んだ。


 


 嫌な考えが頭をよぎって、戦慄したけれど、そこにあったのは、見慣れた暗闇で、不自然なものはなかった。


 眠気はすっかり覚めてしまった。身体は疲れているのに、神経が高ぶって眠れそうにない。


 シャワーだけでも浴びようと浴室に向かう。ドアに手をかけて、再び考える。


 


「いやいや、大丈夫大丈夫」


 あえて口に出して笑い飛ばす。手を握ったり開いたりして、なるべく身体の力を抜く。いざというとき、武器になりそうなものがないか部屋の中の物を思い浮かべる。


「開けますよ」


 中に誰もいなければ言う必要のない言葉を発して、勢いよくドアをあける。いつも通りのただのユニットバスだ。狭いがきちんと掃除はされている。


「ふう」


 何もいなかった。大丈夫。カギもちゃんとかけた。この部屋には自分しかいない。何も入ってくることはできない。理性を必死に働かせて自分に言い聞かせても、シャワーを浴びている間も、目をつぶることができなかった。


 シャワーを終えて、鏡を見ずに髪を乾かす。いつもならパジャマに着替えるところだけれども、今日は服を着たまま寝ることにしよう。


 別に何があるわけでもない。なんとなく、そんな気分なだけだ。


 ベッドの上に体育座りをしながら考える。


 


 そんなはずはない。どんな化物だって巣に帰って眠るはずだ。不眠不休で人を襲い続けるものなんて、存在するわけがない。


 ――正体を突き止めよ

 ――倒さぬ限り帰れない

 ――ひとつだけ持ち帰れる


 ノートに書かれていた文言について考える。


 つまり、あれは得たいのしれない何かなどではないのだ。正体を突き止めよ、と書かれていたということは、何かしらの正体がある。


 『倒さぬ限り』と書かれていたということは、倒せるということだ。


 正体がわかれば弱点もわかるかもしれない。吸血鬼がにんにくや杭に弱いように、メデューサが鏡に弱いように、正体さえ突き止めてしまえば倒せるはず。


 明日、佐藤くんに相談してみよう。古本屋に住む彼なら、そういった伝承などにも詳しいだろう。もしかしたら、今だって、夜通し資料を探してくれているかもしれない。


 人型の黒い何かの怪異や妖怪など、あまりメジャーではなくても存在するはずだ。

 

 あいつを倒す方法を突き止めなければならない。このまま、ドアを開けるたび、角を曲がるたびに怯える日々が続くなんて、耐えられない。


 『倒さぬ限り帰れない』


 夜が明けて、窓の外が明るくなってきたころ、ふとノートの文言の続きが気になった。私はあいつを倒していない。ただ逃げてきただけだ。家の場所を思い出せなかったのは、そのせいだろうか。


 しかし、一緒にあいつに相対した佐藤くんには、何の変調も生じずに、家に帰れている。


 もちろんノートの言葉が正しい保証なんてない。しかし、教授室に置いてあったあれが、無意味なものとは思えない。


 何が起きているのか。可能性を考える。


「私、もしかして、まだ帰れてない……?」

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