8.外泊なんてしないはず
「どういうことですか?」
「いや、たぶん、どこかに私の家があって、住むところはあるはずなんだけど、その記憶がすっぽり抜け落ちてるっていうか、思い出せないっていうか」
しどろもどろになりながら、どうにか現状の説明を試みる。
「記憶喪失、みたいなことですか」
「たぶん」
過去の記憶が全てなくなっているわけではない。抜け落ちているのは、自宅に関する情報だけだ。
「財布に免許証とか入ってないんですか?」
「……だめ。実家の住所だ」
住所変更を怠っていた過去の自分を恨む。実家は県内ではあるものの、ここから電車とバスを乗り継いで二時間ほどかかる。終電まではまだ余裕があるけれど、終バスには間に合わない。母に電話して駅まで迎えに来てもらうか、徒歩で四十分以上歩くか、どちらにせよあまり選びたくない選択肢だ。
「どうしよう?」
「えっと、じゃあ、泊まっていきます?」
私が三階の佐藤くんの部屋で寝て、佐藤くんは二階の父親の部屋で寝ればいいと提案される。
「それはありがたいけど……」
「けど?」
自分から提案したくせに、なぜか佐藤くんは私よりも不安そうな顔をしている。
「いや、今日寝るところも問題だけど、それ以上に、帰るところがわかんないのが大問題っていうか」
寝て起きたら思い出しているという保証もない。しかし、こんなことで救急車を呼んでいいのかもわからなかった。そもそも、原因が何かわからないけれど、例の地下迷宮が無関係ではないだろう。
病院に運ばれたとして、現代医療で治療は可能なのだろうか?
「免許証以外に、何か住所の書いてあるものって持ってないんですか?」
「どうだろ。学校に戻ったら名簿とかに住所は書いてあると思うけど」
あの無愛想な職員が見せてくれるとは思えない。そもそもとっくに閉業時間だ。うちの学生課は規定の五分前には締まっていることで有名なのだ。
財布の中をさらに探してみたけれど、保険証も実家の住所のままだった。何でもできるスマートフォンも、意外と自分の住所なんかはメモしていない。
「あ!」
交通系ICのカードを取り出す。そこには大学の最寄り駅と、自宅の最寄り駅が印字されている。
「帰れるかも!」
わずかながらに手がかりが得られたことで、心の中を支配していた不安は消し飛び、高揚感が押し寄せてきた。
最寄り駅が判明してほくほくしていると、ずっと考え込んでいた佐藤くんが質問をしてきた。
「明沙先輩って、通販サイトとか、使わないんですか?」
「あんまり使わないけど……」
「ログインして、履歴があれば、住所もわかるんじゃないですか」
「なるほど」
言われたとおりにしてみると、確かにそこに住所の記載があった。
ここからさほど離れていないアパートだ。先ほど得た最寄り駅の情報とも矛盾しない。アパートの文字列を目にした瞬間、記憶が戻った。そこが自分の家だと確信する。
「ああ、ここだ! ここだよ! ありがとう!」
一度思い出してしまうと、先ほどまでなぜ思い出せなかったのかが不思議なくらいだ。一年以上住んだはずの我が家なのだ。もう二度と忘れたりしない。
「ありがとね! じゃあ!」
大きく手を振って別れる。佐藤くんは、ほっとしたようにも、呆れているようにも見えた。
駅までの道も、もちろん覚えている。大学までは何度も通ったはずの道なのだ。私の脳みそにしっかりと刻み込まれている。
大変な目に遭ったことをすっかり忘れて、浮かれた気分で電車に乗った。
いつもなら移動中の十数分は読書の時間に充てるのだけれど、今日はそれどころではない。考えるべきことや、考えたくないことがたくさんある。
今日はもう疲れすぎた。トーストの上で溶けるバターのように、ベッドに沈み込んで寝てしまいたい。お風呂もいい。メイクも落とさなくていい。全部明日やればいい。
見慣れたアパートについて、階段をのぼる。私の部屋は二階にある。あと少しだ。靴を脱いだらそのままベッドにダイブしてしまおう、と思っていたはずなのに、階段を上りきったところで、思わず足が止まる。
「うそ……」
自分の部屋のドアの前に、黒い何かが立っていた。
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