5.化物なんていないはず

 エレベーターのドアが開いたとき、私は不思議な感覚に襲われた。


 何か奇妙なものがあったからではない。そこに広がっていた光景が、先ほどまでいたフロアとだったからだ。


 大学の建物なのだから、一階と二階にさほど大きな違いはない。地下一階と二階に違いがなくても不思議はない。しかし、話はそういうことではない。廊下の傷や壁のシミなど、そっくりそのままなのだ。ノートにリュックなど、似たようなものを立て続けに見たせいで、驚くのにも飽きてきた。


「ここ、なんなの?」


 そもそも、旧一号館には地下一階までしか存在しないはずだ。リュックの中から取り出した懐中電灯で照らしながら、周囲の確認をする。天井に蛍光灯はついているが、壁のスイッチを押しても反応はなかった。電気は通っていないらしい。


「わかりません。僕も実際にここに来たのは、入学してからなので……」


 入学してまずすることが、使われていない建物への侵入とは、かなり変わっている。教授に繋がる手がかりを持っているかもしれない以上、邪険にはできないが、信頼しすぎるのは危険かもしれない。


「祖父も熊楠大の出身で、日記に地下施設ことが書いてあって、それを確かめに来たんです」

「地下施設って、ここのこと?」

「はい。ここから物品を持ち帰ることができれば、財を成すことができるって」


 思っていたよりも俗っぽい目的だった。持ち帰る、という言葉は教授のノートにも残されていた。何か繋がりがあるのかもしれない。


「サトーくんの事情は、あとでちゃんと聞かせてもらうから」


 そう言って先に進もうとする私を、佐藤くんは制した。


「あ、ちょっと待ってください」


 リュックから取り出したロープをエレベーターからの横にある手すりのような部分に結びつけ、もう片側を自分の胴にくくりつけた。


「何してんの?」

「こうしないと、帰れなくなるかもしれません」

「どういうこと?」

「来る度に、地形が変わるんです」


 佐藤くんの言うには、最初にここに来たときは、迷子にならないように地図を書きながら探索したそうだ。地下は入り組んでおり、おそらく旧一号館の何倍もの広さがあるという。ある程度マッピングが進んだところで、その日は探索を切り上げた。廊下や部屋に何かが落ちているようなこともなく、特に収穫はなかったらしい。


 問題はその翌日、地図を頼りに進もうとしたら、昨日は通路だったはずの場所が壁になっており、部屋があったはずの場所にドアはなかった。


「ここにいる間に壁が動いたり、ドアが動いたりしたことはありませんが、念のためこうしておいた方がいいと思います」


 佐藤くんの真似をしてロープをエレベーターの脇に結び、もう一端をリュックに結ぶ。


「リュックだと、いざというときに外れませんか?」

「いや、なんか、身体に巻くの嫌じゃない」


 そもそもいざというときとは何なんだ、と思いながら二人で並んで進む。


 地形が変わるというのは、にわかに信じがたいが、そうでなくても案内板も何もない謎の空間で、何を頼りに進んでいいかがわからない。ロープさえあれば、少なくとも帰ることはできると思うと安心できた。


「ここが地下二階だとして、このフロアには誰もいなかったんだよね?」

「はい。けっこう奥まで探しましたけど、何もありませんでした」


 佐藤くんの言葉をどこまで信じるかは置いておくとして、このあたりに教授がいる気はしなかった。多少の距離なら気合いと根性で這ってでも移動するだろう。喬一おじさんは精神的にも肉体的にもかなり逞しい。事故やケガで帰れなくなっているのだとしたら、もっと奥だ。


「なら、とりあえず、さらに下を目指そうか? たぶん、あるんだよね?」

「あると思います。階段を見かけたので」

「なるほど。うん? 見かけただけってことは、降りなかったの?」


 探索が目的だとしたら、階段を発見したら降りる一択だろう。ここまで来る度胸はあるのに、階段を降りる度胸がないなんてことはあり得ないはずだ。


「いや、僕も何度か来たんですが、進めないんです。その、黒い人がいて」

「黒い人?」

「そうとしか言えないというか、その、あ!」


 ダン、と大きな音がした。最初は岩や消火器など、何か重いものが落ちたのだと思った。

 それが足音だと理解するのに、数秒を要した。

 そして目の前の光景を受け入れるのに、さらに十数秒必要だった。


「なに、あれ……」

「わかりません」


 余裕たっぷりで登場したくせに、この男は案外頼りにならない。


 私たちの目の前にいるのは、黒い何かだ。


 階段を塞ぐようにして立っている。どうやら、下の階から上がってきたようだ。階段は下にのみ続いていて、ここより上に行くための道はない。黒い何かは、先なんてないのに、壁に頭をゴリゴリと擦りつけて、足踏みを続けている。


 頭があって、手と足が二本ずつあるけれど、今までに見たどんな生き物にも似ていなかった。手が長すぎるし、足が短すぎる。頭が大きすぎるし、胴が細すぎる。比率が狂っていて、なぜ二足歩行ができているのかわからない。


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 人間の言葉とも、獣の咆吼とも違う、奇妙な音が発せられる。光を吸い込むような黒い顔に、口があるのかすらわからない。


蜃コ蜿」縺ッ縺ゥ縺薙〒縺吶°谿コ縺輔↑縺�→蜃コ繧峨l縺ェ縺�


「なんて言ってるの?」


 理解できたとしても、知りたくはなかった。黒い何かが発する音の意味を理解できないことが、むしろ救いのように感じる。ダン、ダン、ダン、と鳴り続ける音の間に、ときおり音が挟まれる。


「わかりません」


 これに近づきたくない。強烈な忌避感が身体を凍らせる。逃げなきゃいけないとわかっているのに、ただ立ち尽くすことしかできない。佐藤くんも同じようで、目を見開きながら正面を見つめていた。


 逃げないと。逃げないと。逃げないと。


 頭の中で何度繰り返しただろう。そうしているうちに、ふと、音がやんだ。何が起きているのかわからなかった。目から入る情報を必死に処理する。黒い何かが足踏みをやめたのだ。


 そして、何かは、こちらを向いた。

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