(4)

「杏、手紙届いてたわよ」

 お母さんが言って、わたしはあっと声をあげた。

 赤と青のストライプ模様のエアメール。

 アメリカにいる柚子からの手紙だった。


『杏へ。


 元気ですか。

 私はこっちに来て、わからないことばかりだったけど、新しい友達ができて、ちょっとずつ慣れてきたよ。

 アメリカでは9月から新学期が始まるから、もう1回4年生やってるんだ。

 なんか変な感じ。

 また手紙書いてね。


 柚子より。』


 わたしはさっそく自分の部屋に駆け込んで、机から便箋を取り出した。

 この前、お小遣いでレターセットを買って、早く書きたくてうずうずしていたんだ。

 そうだ、と思いつく。

 瑠璃ちゃんにも手紙を書いてみようかな。


『私、あと半年で、学校を卒業するの』


 昨日、瑠璃ちゃんはそう言った。

 瑠璃ちゃんが住んでいるところは、わたしが知っている世界じゃないんだ。

 きっと、わたしが知らない決まりもたくさんあるのだろう。

 昨日、あと半年と聞いて、びっくりしたし、ショックだった。

 急に、まだまだあると思っていた時間が短くなったように思えた。

 でも、いきなりなくなるわけじゃないし。

 あと半年間、瑠璃ちゃんが卒業するまでは毎日でもお店に通うつもりだった。

 わたしはお気に入りの匂いつきのペンを持って、便箋に字を書いた。


 たけど、瑠璃ちゃんにその手紙を出すことはできなかった。

 次の日。

 放課後、4時になっても、『瑠璃色雑貨店』の扉は開かなかったから。


 ☆


「えっ」


 4時になっても光らない家庭科室の前で、わたしは立ち尽くした。

 おかしい。

 いつもなら、扉の隙間から、金色の光がまぶしいくらいあふれだしているのに。

 今日は、どこにも光が見えなかった。

 ほかの教室と同じ、夕方の景色の中に溶け込んでいな。


 ーーなんで……?


 胸の中がざわざわとする。

 なんだろう、この感じ。

 すごく嫌な感じかする。

「杏?」

 うしろから名前を呼ばれて、はっとした。

「玲央名くん……」

 わたしは、泣きそうになりながら振り返った。

「家庭科室、光って、ないよな」

「うん……」

「どうしたんだろう」

 玲央名くんが心配そうに家庭科室の扉を見つめた。

「いつも校庭から、家庭科室の窓が光ってるのが見えるのに、今日は見えなかったんだ」

 息を切らしながら、心配そうに言う玲央名くん。

 きっと、いつもと違うことに気づいて、あわてて走ってきたんだろう。

 いつもと同じ、昼間と同じ、家庭科室。

 普通、教室の扉や窓が突然光りだしたりしない。

 でも、わたしたちは、放課後あのお店に行って、瑠璃ちゃんに会った。

 そこでたくさんのものを買った。

 うさぎの人形、リボンや小物入れ、いちごの形の匂い袋。どれも、瑠璃ちゃんの手でひとつひとつ作った、大切な宝物だ。

 それがあるってことが、瑠璃ちゃんもお店も、幻なんかじゃないって教えてくれた。

 でも……

 光が消えたとたん、この1か月くらいの間の出来事が、幻のように消えてしまいそうになる。

 そんなわけないってわかってるのに。

 だって瑠璃ちゃんは、あと半年はここにいるって、言ったんだ。

 わたしは瑠璃ちゃんの言葉を信じたかった。

 突然いなくなったりしないって。

 そうだ、今日はきっと、用事があってたまたま来れなかっただけ。

 そうだよね、瑠璃ちゃん……。

「行ってみよう」

 玲央名くんが言って、わたしはドキリとした。

「……うん」

 そうしなきゃいけないのはわかってた。

 でも、扉を開けるのが怖かった。

 開けて、そこに何もなかったら。

 もう二度と、あのお店に行けなくなってしまったら。

 でも、たしかめないと。

 玲央名くんが扉を開けた。

 やっぱり……。

 そこはなんの変哲もない、見慣れた家庭科室だった。

 大きな机が6つあって、その奥に先生が座る机がある。

 いつも机いっぱいに並んでいる色とりどりの雑貨も、先生の席にちょこんと座る瑠璃ちゃんの姿も、どこにもなかった。

 壁の時計の針が、カチカチとすすんでいく。

 4時15分。30分になっても、何も変わらなかった。

 瑠璃ちゃん、わたしは心の中で呼びかけた。

 明日になったら、また会えるよね……?

「これ、なんだろ」

 玲央名くんが床に落ちている四角いものを拾った。

 小さ木でできた青い箱。

 それを見て、あっと思い出す。

 瑠璃ちゃんがいつも、大事そうにそばに置いていた箱だ。

 そばには鍵が落ちていた。


『その箱、何が入ってるの?』

 尋ねると、

『秘密』

 瑠璃ちゃんはそう言って笑った。


「鍵が入ってたんだ……」

 わたしはその鍵を拾ってつぶやいた。

 ひんやりと冷たい金属の感触。

 絵本に出てくるような、クローバーの形をしたくすんだ金色の鍵だった。

 瑠璃ちゃんの家の鍵だろうか。

 そのとき、ふと思った。

 いままで、疑問に思わなかった。

 瑠璃ちゃんはどこから来るんだろう。

 いつも、どこから出入りしていたんだろう。

 瑠璃ちゃんを学校の中で見たことは一度もなかった。

 この家庭科室以外の場所では。

 もしかしたら、ここがべつの世界の入り口なんじゃないだろうか。

 それなら家庭科室以外で瑠璃ちゃんを見たことがないのも納得できた。

 わたしははっとして、開けっ放しだった扉を閉めた。

 すると、信じられないことが起こった。

 扉が内側から、ぽうっと光りはじめたのだ。

 玲央名くんと顔を見合わせる。

「もしかして、この鍵って……」

 隙間からまぶしいほどの光りを放つ扉の鍵穴は、ふつうの教室の鍵穴とは違っていた。

 わたしは吸い込まれるように、鍵穴に鍵を差し込んだ。

 ぴったりだった。

 ガチャリ、と鍵を回す。

 扉を開けて、わたしたちは息を飲んだ。

 扉の向こうには、教室があった。

 だけど、この学校の、ほかの教室とはあきらかに違っていた。

 そして、誰もいないその教室は、何かに荒らされたように、めちゃくちゃだった。

 椅子も机も、ひとつ残らず全部倒れていた。窓が割れて、床にガラスの破片が飛び散っていた。

 何かあったんだろう。

 ここはどこなんだろう。

 わたしは怖くなって、思わず扉を閉めた。

 その瞬間、光がすうっと消えて見えなくなった。

「なんだいまの」

 玲央名くんがつぶやく。

「わかんない……」

 これがーーこの先が、瑠璃ちゃんがいる世界?

 瑠璃ちゃんはきっと、違う世界に住んでるんだと、なんとなく思っていた。

 でも、きっとそこは、きれいな世界なんだと思ってた。

 だって瑠璃ちゃんは、いつもきれいな着物を着て、きれいな髪飾りをつけていたから。

 こんなのは、全然、想像もしていなかった。

 どう見ても普通じゃなかった。

 たまたま用事があって来られなかったんじゃない。

 何かあったんだ。

 ここに来れなくなってしまうような何かが、瑠璃ちゃんにあったんだ。

 それだけは、はっきりとわかった。

 なのにわたしたちは、もう一度その扉を開けることができなかった。


 ☆


 次の日もやっぱり、放課後になっても瑠璃ちゃんはいなかった。

 かわいい雑貨も、着物姿の小さな女の子もいない、いつもの家庭科室のままだった。

「やっぱり、この鍵がないと、瑠璃ちゃんはこっちに来れないのかな……」

 いつも大事そうに、青い箱の中に入れて、机の上に置いていた。

 そんな大事なものを、なんで落として行っちゃったんだろう。

 はっとした。

 昨日見た光景。

 人がいない教室。机や椅子がなぎ倒されて、窓ガラスが割れていた。

 何かに荒らされたような、台風が通り過ぎた後みたいな感じだった。

 わかったのはそれだけ。

 わたしたちが知らない場所。


『私はこの学校の4年生よ』


 瑠璃ちゃんは、嘘を言ってなかった。

 どこか違う世界の、どこかの学校。


 ーーきっとあれが、瑠璃ちゃんの学校だったんだ。


 昨日開いたあの扉のむこうが、瑠璃ちゃんのいる世界なんだ。

 でも、学校があんなふうにめちゃくちゃになるなんて、何があったんだろう。

「瑠璃ちゃんって、あの扉の向こうから来てるんだよな」

 玲央名くんが、何かを考え込むように言った。

「うん。そうだと思う」

「あれって、どこなんだろう」

「どこって?」

「いや、なんか、知ってるような気がしたんだよな。見たことあるっていうか」

「えっ!?」

 おどろいて玲央名くんを見た。

「行ったことあるってわけじゃなくてさ。なんか、写真とかテレビとかで見たことあるような気がしたんだ」

 写真とかテレビ……?


『私はここからずっと遠い場所から来たの』


 自分でもよくわからないのに、瑠璃ちゃんは、遠い場所だと言った。

 言葉は通じるし、見た目もわたしたちと同じ日本人だ。

 だけどたまに、わたしたちが知らないような、おどろくことを言うことがあった。

 だからわたしも、瑠璃ちゃんがわたしたちとは違う世界から来たんだって、いつの間にか思うようになっていた。

 でも、そうじゃなかったら。

 わたしたちの世界が、まったくべつの場所じゃなくて、どこかで繋がってるとしたら。

 気になっていたことがいくつもあった。

「瑠璃ちゃんって、いつも着物を着てるよね」

 ふと思いついて言った。

 赤い着物に青い花の髪飾り。

 瑠璃ちゃんはいつもその格好だ。とくべつな日に着る着物じゃなくて、きっと、それが普段着なんだ。

「それって、昔の人みたい」

 キラキラしたえんぴつや消しゴムを見て感動していたこと。

 100円が高級品と言っていたこと。

 バラバラだったたくさんの糸が、ひとつに繋がっていく。そして、形を作っていく。

「それだ!」

 玲央名くんが、がしっとわたしの手をつかんだ。

「瑠璃ちゃんは、昔の日本から来たんだ」


 わたしたちは、学校の図書室で、昔のことを調べることにした。

 壁際の本棚にずらりと並ぶたくさんの本の中から、関係のありそうなタイトルを探す。

 歴史の本や、戦争の本。戦国時代の武将について書いた本や、平安時代の歌集もある。

 昔といっても、どれくらい昔なのか、いつの時代なのかは、検討もつかなかった。

 いくつもの時代が、1冊の本にまとめられて、並んでいる。

 この時代のどこかに、ほんとうに瑠璃ちゃんはいたのかな……。

 知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちだった。

 瑠璃ちゃんが昔の人だったら、いまはもう生きていないってことになるから。

「瑠璃ちゃんって、学校に通ってるんだよな?」

 玲央名くんが本をめくりながら言った。

「うん、4年生って言ってた」

「学校制度が始まったのは、1872年って書いてある。いまから150年前くらいだ。だから瑠璃ちゃんは、それより後に生まれたってことになるんじゃないかな」

「150年前……」

「明治時代だ」

 明治時代ーー

 文明開化って言葉を、授業で習って知っていた。外国の文化や制度が流れてきて、それまでの日本よりなんとなく華やかなイメージがある。

 その本には、明治時代から始まった学校制度について、わかりやすく書いてあった。

 昔の学校は、小学校4が年、高等小学校が4年の、8年間がふつうだった。その後、教育の制度が変わって、小学校が6年生までになったのは、明治40年のことなのだ。

 瑠璃ちゃんは、4年生で学校を卒業すると言っていた。

 小学校が4年生までなんて、わたしの知っている世界じゃありえないことだった。

 小学校は、6年生まであるもの。それが当たり前だと思っていた。

 昔からずっとそうだったのだと思っていた。

 だとしたら、瑠璃ちゃんは、やっぱり明治時代から来たってことになる。

 そんなの、ふつうなら、あり得ないと思う。

 だけど昨日、わたしたちは、あり得ない光景を見た。

 家庭科室の内側から、あの鍵を差し込んで、光に包まれた扉を開けた。

 その向こうにあったのは廊下じゃなくて、知らない教室だった。

 机も椅子もみんな嵐のあとのようになぎ倒されて、窓ガラスが割れて、めちゃくちゃになっていた。

 あれが瑠璃ちゃんの学校……?

 瑠璃ちゃんはいったいどこにいるんだろう。

 何もわからなくて、不安だった。

 だけどやっと、暗闇の中から手がかりを見つけた。

 でも、ほんの少し明かりが見えたけれど、その先はやっぱり暗闇のまま。ほかに手がかりになりそうなことは見つけられなかった。

「やっぱり、もっと大きい図書館で調べたほうがいいかも……」

 玲央名くんが疲れたように言った。

「杏?」

「これ……」

 わたしは1冊の本から、目が離せなかった。

 それは、本というより、冊子だった。

 新聞の切り抜きを集めて紐で閉じた、古い冊子。古い記事は黄色く色が変わっていた。

 その新聞の一面に、大きく書かれた見出し。


『1894年 明治東京地震』


 東京湾を震源として発生した地震。震度6。

 その日付はーー

 明治27年、6月20日。

 130年前の、昨日だった。

 その日付を見て、手が震えた。

 明治。東京。昨日の日付。そして、あの教室の光景。

 偶然とは思えなかった。

 あの嵐の後のような光景は、地震によるものだったんだ。

 玲央名くんも、記事を読んで言葉を失っている。

 昨日まで、なんにも知らずに、あのお店がずっとあったらいいな、なんてのんきに思ってた。

 いま思えば、気づくチャンスはたくさんあった。

 瑠璃ちゃんがいつも着物を着ていることも、言葉が通じることも、瑠璃ちゃんから聞いた話も。

 瑠璃ちゃんは何も教えてくれなかったけど、言葉の中にヒントはたくさんあった。

 でも、わたしは、ちゃんと知ろうとしなかった。

 ほんとは、よく知っている学校が自分の知らない世界に繋がっているんだって知るのが、ちょっと怖かった。

 そんなことがほんとうににあるって知ってしまうのが怖かった。

 瑠璃ちゃんを、心のどこかで、ここにいるのにいない、幽霊みたいな存在にしてしまっていた。

 だからそれ以上踏み込むのが怖くて、不思議なことは不思議なままでいいって、玲央名くんの言葉に納得したんだ。

 違うのに。わたしたちの前にいたのに。

 いつも勇気が持てなくて大事なことを言えなかったわたしに、瑠璃ちゃんは踏み出す勇気をくれた。

 わたしにとって、大切な友達だ。

 友達なら、知りたいと思うのは当たり前のことなのに。

 もっと、ちゃんと聞いたり調べたりして、地震でこの学校が壊れてしまうって知ってたら、瑠璃ちゃんに伝えられたのに……!

 涙がぼろぼろこぼれ落ちた。

 滲んだ景色の向こう、見慣れた校舎の端にある家庭科室の窓は、今日も光っていない。

 いつもと同じ、ほかの教室の窓と同じ。

 そのとき、はっと思い出した。

 瑠璃ちゃんが落としていった鍵は、いま、わたしが持っている。

 そうかーー

 あの鍵がないと、瑠璃ちゃんはこっちに来たくても来れないんだ。

 瑠璃ちゃんがいま、どこで何をしているのか、想像もできないけれど。

「……行かなきゃ」

 つよく、そう思った。

 瑠璃ちゃんに会って、この鍵を渡すんだ。

 わたしはすっくと立ち上がった。

「杏? どこに……」

「家庭科室っ!」

 わたしはそう言って、図書室を飛び出した。


 ☆


「……いい?」

 わたしは玲央名くんを見て言った。

「……うん」

 玲央名くんが、緊張した表情でうなずく。

 手ばかりじゃなく、全身が震えた。

 本に載っていた写真はどれも白黒のものばかりで、現実感が全然なかった。

 扉の向こうに何があるのか、どんな世界が広がっているのか、ほんとうにそこに瑠璃ちゃんがいるのか。

 きっとそれは、どれだけ調べたってわからないことだ。


 ーー怖い、けど。


 この鍵を渡さなかったら、きっともう、瑠璃ちゃんには二度と会えない。

 だから、行かなきゃ。

 扉を閉めると、昨日と同じように、隙間がぽうっと光りはじめた。

 この鍵を差し込めば、あっちの世界に行ける。

 瑠璃ちゃんが100年前のこの場所から扉を通って来たように、わたしたちも、瑠璃ちゃんのいる場所に。

 だけど、行かなきゃ、って思うのに、やっぱり怖くて、足がすくんでしまう。

 震えるわたしの手に、玲央名くんの手が触れた。

 ぎゅっとつよく、握りしめる。

「何があっても離れないようにしような」

「……うん」

 温かくて、力強い手。

 玲央名くんだって不安なはずなのに。

 自分が不安でも、そう言うことができる玲央名くんは、やっぱり強いなと思う。

 そんな玲央名くんだから、一緒なら大丈夫って思えた。

 さっきまでの怖さが、すうっと消えていった。

 鍵穴に鍵を差し込んで、ガチャリと回した。

 扉を開けると、その向こうに広がるのは、昨日と同じ景色ーー

 地震が起こって、めちゃくちゃになってしまった教室だった。

 ドキドキしながら、一歩を踏み出す。


 ついに、来ちゃった。

 瑠璃ちゃんがいるところに。

 扉のまわりに散らばったガラスの破片をよけながら、床に立つ。

 誰もいない教室は、不気味なくらい静かだ。

「……わたしたち、帰れるかな」

「帰れる。てか、絶対帰る」

 根拠なんて何もないはずなのに、玲央名くんは迷わずそう言った。

 そして、ズボンのポケットから何かを取り出した。

「そうだ。お守り、持ってきたんだ」

 玲央名くんはそう言って、黄色いうさぎの人形をがれきの上にちょこんと置いた。

「じつはわたしも」

 わたしもスカートのポケットから朱色のうさぎの人形を取り出して、となりに置いた。

 小さなうさぎの人形が、扉の前にちょこんと並んで座っている。

「かわいい……っ!」

「だな」

 こんなときなのに、って思うけど、こんなときだから、お守りが心強かった。

 教室を見回すと、机や椅子のほかにも、本棚や鞄など、あらゆるものが床に投げ出されていた。

 ここにいたはずの人たちは、どうしたんだろう。

 瑠璃ちゃんは避難できたのかな……。

 不安な気持ちを振り払って、どうすればいいか考えた。

 わたしは、瑠璃ちゃんのことをほとんど何も知らない。

 名前と、この小学校に通う4年生ってことしか。

 そのとき、あっ、と大事なことを思い出した。

「そういえば、瑠璃ちゃんの家、お店やってるって言ってた。ゴフクヤをやってるって」

「ゴフクヤ……?」

 玲央名くんが首をかしげて、何か思い出したみたいに言った。

「そっか、昔の着物売ってる店だ!」

 さっき玲央名くんが読んでいた本に、呉服屋の歴史が書いてあったという。

 いまの百貨店は、昔は着物を売る呉服屋が大きくなったものなんだって。

「とりあえず人に聞いてみよう」

 学校をはなれて通りに出ると、人がたくさんいた。

 みんな着物を着ていた。わたしたちをチラチラと見ながら通りすぎていく。

 わたしたちの格好は、この時代の人たちから見たらおかしな格好に見えるんだ。

 街も、人も、建物も、昔の白黒写真でしか見たことがなかったものたちが、はっきりとした色をもって目の前にある。

 道が狭くて、家はほとんどが木造で、車も全然通っていない。知っている景色とは全然違う。

 わたしたち、ほんとに、明治時代にいるんだ。

「杏、大丈夫?」

 玲央名くんが心配そうに覗き込む。

 立っている場所からガラガラと音をたてて崩れてしまいそうな不安。

 だけど、立ち止まってたら何もできないし、どこにも行けない。

「……うん、大丈夫。瑠璃ちゃん探しに行こっ!」

 意気込んで歩き出したとたん、

「おい、危ないだろ!」

 いきなり怒鳴り声が飛んできた。

「ごめんなさいっ!」

「いきなり前に出てくるんじゃねえよ、ガキンチョが」

 男の人が怒りながら言う。

 男の人は小型の車を引いていた。ぼろぼろの着物に、肌は日焼けしていて真っ黒だ。

「わあ、人力車、初めて本物見た……!」

 わたしは近寄ってまじまじと見つめる。

「なんだお前ら、ガイジンか? よく見りゃ変な服着てるし」

 人力車のお兄さんは、怪しげな目でわたしたちを見る。

「ちょっと事情があって変わった格好してるけど、日本人です。僕たち瑠璃っていう女の子を探してるんですけど、知りませんか?」

 玲央名くんがすっと前に出て、すらすらと言った。

 そうだった。人力車に感動している場合じゃない。

「さあ、知らねえなあ。瑠璃って名前のばあさんならたまに乗せるけど。人探しなら屯所に行って聞いたほうがいいんじゃねえか?」

「屯所?」

「交番みたいなところじゃないかな」

 玲央名くんが小声で言った。

 明治時代にも交番みたいなところがあるんだ、と納得する。

「あのっ、おじさん、そこまで案内してくれませんか?」

「何言ってんだ。後ろにお客さんが乗ってんのが見えねえのか。あとおれはおじさんじゃねえ。18だ」

「はあ……すみません」

 また怒られてしまった。

 見ると、人力車に乗っている女の人が心配そうに見ている。

「あの、困ってるみたいだし、わたしはここで降りるから乗せてあげてちょうだい」

 女の人が降りてきてそう言ってくれた。

「ありがとうございます!」

 わたしと玲央名くんは、声をそろえて頭を下げた。

「で、お前ら金は持ってんだろうな?」

 ジロリとにらまれて、はっと気づく。

「ごめんなさい……持ってません」

 はあー、とお兄さんは大きなため息を吐いた。

「ったく、ただでさえ地震でどこもばたばたしてんだから勘弁してくれよ」

「……ご、ごめんなさい」

 持っているものなんて、何もない。

 荷物は全部学校に置いてきちゃったし……。

「おい。早く乗れよ、忙しいんだから」

 お兄さんはぶつぶつ文句を言いながらも、親切に乗せてくれた。

 2人乗りの人力車は、並んで座ると、玲央名くんの肩とぴったりくっつく。

 ど、どうしよう。予想以上に密着してる……。

 心臓の音がバクバク鳴りすぎて、玲央名くんに聞こえちゃうんじゃないかと心配になる。

 緊張するわたしの横で、玲央名くんはすっかり街の景色に目を奪われている。

「すごいな。人力車と馬車が同じ道を通ってる」

「人力車が出たのは最近だからな。おれのクルマは最新型だよ」

 お兄さんがちょっと自慢げに言った。

 なんだか、不思議な光景だ。

 観光じゃなくて、ふつうにここで暮らす人たちが、ごく普通に人力車や馬車に乗って移動してる。

 だからなのか、街の景色全体が、どことなくのんびりしているように見えた。

 ここが、昔の日本。

 瑠璃ちゃんがいる街なんだ。

 でも、わたしの目にはのんびりしているように見えるだけで、このあたりでは昨日、大きな地震があったばかりなんだ。

 誰もいなかった学校を思い出して、胸がズキンと痛んだ。

 よく見ると、まわりの家も、ところどころ壁が崩れていたり、屋根が傾いたり。

 あちこちに地震の痕跡が残っていた。

「さっきの学校にいた人たちは、どうなったんでしょうか」

 玲央名くんが言った。

 お兄さんは人力車を引きながら、さあな、と答える。

「全部は知らねえが、怪我人は何人か出たって聞いてるよ」

 ひやりとした。

 怪我人。その中に、ひょっとしたら、瑠璃ちゃんもいるかもしれない。

「ほら着いたぜ」

 さっさと降りろとせかされて、わたしたちはお兄さんにお礼を言って人力車から降りた。

 その瞬間、心臓が破裂しそうなくらいの緊張感が、ふっとゆるんだ。

 じゃあな、とお兄さんは手を上げると、忙しそうに人力車を引いて去っていった。


 ☆


「ここが瑠璃ちゃんのおうち……」

 わたしと玲央名くんは、ぽかんとその大きな家を見上げた。

「でかいなあ」

「うん、でかいね」

 屯所で瑠璃ちゃんの名前を言うと、それならたぶん高浜さんちの娘さんだよ、と制服を着たちょび髭のおじさんが教えてくれた。

 瑠璃ちゃんの家がやっている『高浜呉服店』の場所も、地図で教えてもらった。

 高浜呉服店は屯所からすぐ近くだったから、なんとか歩いてたどり着くことができたけど……

 想像以上に大きかった。

 2階建ての昔ながらの建物で、まわりにある建物の何倍も大きい。

 そのどっしりとした店構えに、わたしたちは圧倒された。

「よし、行こう」

 玲央名くんが言って、扉をトントンと叩く。

 はーい、と中から声がして、扉が開いた。

「あらま、小さなお客さんだこと」

 瑠璃ちゃんによく似た女の人が、わたしたちを見て目を丸くした。すぐに、瑠璃ちゃんのお母さんだとわかった。

「どうぞ。入って」

 どう見たって怪しげなわたしたちを、何も聞かずに、にっこり笑って迎え入れてくれた。

 お店の中には、赤や青の色鮮やかな着物がずらりと並んでいた。

「すごい……」

 わたしは息を飲んで見つめた。

 瑠璃ちゃんのお母さんはわたしたちをお客さん用の部屋に通してくれた。

「暑かったでしょう。冷たいお茶どうぞ」

 そう言って、湯呑みをふたつテーブルに置いた。

「あなたたちは瑠璃のお友達? 珍しい服を着てるのね。すごく素敵だわ」

 どこの生地かしら、すごい縫製ねえ、と感心してわたしたちの服に見入っている。

 わたしと玲央名くんは、顔を見合わせて少し笑った。

 やっぱり、瑠璃ちゃんのお母さんだ。

 見慣れない、知らないものを“素敵”って言える人。

「この頃、瑠璃、お友達から変わったものを色々もらってくるのよ。瑠璃が作ったものと交換してるんだって。それが見たことがないものばかりだから、外国のお友達でもいるのかしらって思ってたけど、納得したわ。あれはあなたたちがくれたのね」

「はい」

 わたしはうなずいた。

「わたしたち、瑠璃ちゃんに会うために、遠いところから来たんです」

「そう……」

 瑠璃ちゃんのお母さんは、辛そうに目を伏せて言った。

「瑠璃はね、ここにはいないのよ」


 ☆


 瑠璃ちゃんのお母さんと一緒に、馬車で病院に向かった。

 病院は街でいちばん大きな、洋風の白い建物だった。

 白い部屋に青い絨毯が敷かれた病室のベッドで、瑠璃ちゃんは眠っていた。

 真っ白な顔で、病院の白い服を着て。かけられた布団が、呼吸にあわせてゆっくりと動いていた。

「地震の後、すぐにここに運ばれたんだけど……ずっと、意識が戻らないの。意識が戻る可能性は低いって先生がおっしゃって……」

 瑠璃ちゃんのお母さんが声を震わせる。

 学校にいたほとんどの人が無事に避難できて、怪我人も出たけれど軽症ですんだという。


 ーー瑠璃ちゃん以外は。


「瑠璃は、裁縫室で倒れてたの。たった一人で……」

 授業が終わると、瑠璃ちゃんはいつも裁縫室に一人でいた。

 だから、一人だけ逃げるのが遅れてしまったのだ。

「瑠璃ちゃん……」

 わたしは、瑠璃ちゃんの手をぎゅっと握りしめた。

 ひとつしか歳が違わないのに、わたしよりずっと小さな手だった。

 玲央名くんも、わたしの手の上から、自分の手をそっと重ねた。

 涙が込み上げてくる。

「ごめんね……ごめんね……瑠璃ちゃん……っ」

 もっと早く地震のことを知っていたら。

 瑠璃ちゃんに教えてあげられたら。

 毎日会っていたのに、突然こんな日が来るなんて想像もしなかった。


『私はここにいるよ。この学校を卒業するまでは、毎日』


 瑠璃ちゃんはそう言った。

 瑠璃ちゃんが小学校を卒業するまであと半年。

 それまでは、学校がある日は毎日通うんだって思ってた。

『瑠璃色雑貨店』が好きだから。

 瑠璃ちゃんが作るものが大好きだから。

「俺は、瑠璃ちゃんのおかげで、自分の好きなものを素直に好きって言っていいんだって思えたんだ。ほかにも、俺みたいな子が、きっとたくさんいると思う」

 玲央名くんが言った。

「わたしは……勇気がなくて、自分に自信が持てなくて、いつも大事なことを言えなかった。でも、瑠璃ちゃんのおかげで勇気をもらえたよ」

 毎日お店に通って、瑠璃ちゃんが作ったものを見るたび、元気をもらえるんだ。

 手づくりのものは、作った人の思いがこもってるから。

「瑠璃ちゃんを待ってる子が、たくさんいるよ。わたしも、玲央名くんも、ほかにもきっとたくさんいるよ」

 違う時代に生きているわたしたちが会えたのは、奇跡だと思う。

 だから、どんなに不思議なことだって、可能性が低くたって、ありえないことなんて、きっとない。

 瑠璃ちゃんのお母さんが、両手で顔をおおって泣き崩れた。

 わたしは立ち上がって、瑠璃ちゃんのお母さんのほうを向いた。

「信じてもらえないと思うけど、わたしたち、130年後の未来から来たんです」

 わたしは言った。

 瑠璃ちゃんのお母さんに、嘘でごまかしたりしたくなかった。

「瑠璃ちゃんの学校の裁縫室と、僕たちの学校の家庭科室が繋がってるんです。僕たちは、そこで瑠璃ちゃんに会いました」

「未来……繋がってる……?」

 瑠璃ちゃんのお母さんは、困惑したように繰り返す。

「いきなりこんな話をしても信じられないと思うけど……」

「信じるわ」

 瑠璃ちゃんのお母さんは、涙を浮かべて首を振った。

「瑠璃が持ってた珍しいものは、どう考えてもいまのこの日本には存在しないものだからね」

 そう言って、少しだけ笑った。

「色のついたえんぴつとか、消しゴムなんて、見たことがないものばかりだもの。消しゴムが日本で作られるようになったのはまだほんの十年くらい前のことよ。外国のものだって、あんなに上等なものはどこを探してもないでしょうね」

 えんぴつや消しゴムを見て目を輝かせていた瑠璃ちゃん。

 わたしたちが当たり前に使ってるものは、瑠璃ちゃんにとっては当たり前じゃなかったんだ。

 だからあんなに、宝物みたいに大事そうにしてたんだ。

「隠してるつもりなんでしょうけど、あの子、わざと見える場所に置くの。だからこれなあにって聞くと、目をキラキラして話すの。お友達がくれたのよって、すごく嬉しそうに話すの。話したくて仕方なかったのね」

 瑠璃ちゃんは、家に帰ってわたしたちの話をしていたんだ。

“友達”って言ってくれたんだ。

 嬉しくて、またそんな瑠璃ちゃんに会いたいと思った。

 でも……

「わたしたち、もう帰らなきゃいけないんです」

 いつまでもここにはいられない。

 ここは、わたしたちが住んでる世界じゃないから。

 瑠璃ちゃんが心配でも、帰らなきゃいけないんだ。

「瑠璃ちゃんのお母さん、お願いがあります」

 わたしは瑠璃ちゃんのお母さんのほうをまっすぐ向いて言った。

「わたしたちと一緒に、学校に来てもらえませんか?」


 ☆


 学校に戻ると、校庭のまわりにはロープが張られていた。

 瑠璃ちゃんのお母さんが貸してくれたらんたんを、玲央名くんが持って先頭を歩く。

「杏、しっかりついてて」

 玲央名くんが振り返って言った。

「う、うん……」

 怖い。ただでさえ夜の学校ってだけで怖いのに、昔の木造校舎だと、怖さが百倍くらいだ。しかも、窓が割れて破片が落ちていたり、教室の暗闇に何か隠れていそうで、すごくリアルなおばけ屋敷を歩いているみたい。

 でも、玲央名くんも、瑠璃ちゃんのお母さんもいる。

 怖くない、怖くない、と呪文のように心の中で念じながら、玲央名くんのあとをついていった。

 階段をのぼって、暗い廊下を歩きながら、あっと気づいた。


 ーー同じなんだ。


 2階の廊下の突き当り。

 わたしたちの学校の家庭科室と、瑠璃ちゃんの学校の裁縫箱は、同じ場所にあった。

 扉の前に、赤と黄色のうさぎの人形が、ちょこんと並んで座っている。わたしたちが帰ってくるのを待ってくれていたみたいに。

「よかったあ〜」

 わたしはうさぎの人形を抱きしめた。

「そのうさぎの人形……」

 瑠璃ちゃんのお母さんがおどろいたように言う。

「瑠璃も青色のを持ってるのよ」

「えっ」

「その青いうさぎはね、瑠璃がいちばん最初に作ったものなの。それからあの子裁縫に凝っちゃって、一時期うちの中がうさぎだらけだったから、お友達にあげたらって言ったの。まさか未来まで届いてるなんて想像もしなかったわ」

 瑠璃ちゃんのお母さんが思い出して涙を浮かべた。

 わたしも、初めて瑠璃ちゃんに会ったときのことを思い出して胸の奥がじんと熱くなった。

 玲央名くんに“ありがとう”のひとことが言えなくて落ち込んでいたとき、あの場所ーー『瑠璃色雑貨店』を見つけた。

 このうさぎの人形は、わたしと玲央名くんが、最初にあのお店で買ったもの。

 黒くてまん丸な瞳が呼んでるみたいで、思わず手にとったんだ。

 赤と黄色、そして青いうさぎが、一本の線で、わたしたちを繋いでくれているような気がした。

 離れていても、わたしたちはずっと一緒だ。

「じゃあ、行こうか」

 玲央名くんが言って、わたしはうなずいた。

 扉を閉めると、隙間から、ぽうっと光がもれだす。

 青い、瑠璃色の小さな箱。中には、昔といま、ふたつのこの場所を繋ぐ鍵が入っている。

 この鍵があれば、瑠璃ちゃんにまた会えるはず。

「瑠璃ちゃんのお母さん。瑠璃ちゃんが目を覚ましたら、この鍵を瑠璃ちゃんに渡してもらえますか?」

 瑠璃ちゃんのお母さんは、瑠璃ちゃんがわたしたちのところに来ることをよく思わないかもしれない。こんなことがあった後だから、余計に心配かもしれない。

 だから無理なことを言ってるってわかってた。

 でも……

 瑠璃ちゃんのお母さんは、しばらくわたしたち2人の顔をじっと見つめていた。

 そして、ふっと頬をゆるめて、

「ええ、きっと」

 そう言ってくれた。


 暗い裁縫室の中を、扉から白い光がこぼれるように明るく照らしていた。

 鍵穴に鍵を差し込んで、ガチャリと回す。

 扉を開ける。

 その向こうはいつもの、見慣れたわたしたちの学校。

「元気でね」

 瑠璃ちゃんのお母さんは優しい声で言った。

 わたしと玲央名くんは扉をくぐって、頭を下げた。

 あの鍵が、瑠璃ちゃんの手に届きますように。

 そして、いつかまた瑠璃ちゃんに会えますように。

 願いを込めながら、扉を閉めた。

 光は消えて、真っ暗な闇に放り込まれたみたい。

 そのとき、廊下からピカッと光がさして、わたしは思わずひゃっと叫んで玲央名くんに抱きついた。

「こら、何しとる。早く帰りなさい」

 用務員のおじさんだった。

 懐中電灯をこっちに向けて睨んでいる。

 涙目になりながらあわあわと慌てるわたしの手を、玲央名くんがバシッとつかんだ。

「行こ、杏っ!」

「え……う、うん!」

 用務員のおじさんの横をすり抜けて、階段をばたばたと駆け下りた。

 玲央名くんの手は、わたしよりずっと大きくて、力強い。

 同じ歳なのに、男の子の手だ、と思った。

 玲央名くんと一緒なら、暗闇だって、タイムスリップだって、やっぱり怖いけど、それでも大丈夫だって思えたんだ。

「ありがとう、玲央名くん」

「へ? 何が?」

「なんとなく、言いたくなったの」

「なんだそれ」

 玲央名くんがぷっと笑った。

「でも、俺も、ありがと。あっちにいたときの杏、いつもより堂々としてて、カッコよかった」

「そ、そうかな」

 きっとそれは、瑠璃ちゃんに会いたいって気持ちが強かったから。

 迷ってる暇なんてなかったからだ。

「まあ、こっち戻ったとたんいつもの感じに戻ったけど」

「だよねえ……」

 あははと玲央名くんが笑って、わたしはえへへ、と笑った。


 ☆


 短い梅雨が明けて、7月になった。

 放課後。

 グラウンドでは、玲央名くんたちがいつもみたいにサッカーをしている。

 あれから玲央名くんとは、瑠璃ちゃんのことを一度も話していなかった。

 玲央名くんはすごいな。

 明治時代に行ったことなんて嘘みたいに、ちゃんといつも通りの日常に戻ってる。

 わたしは、あの日から時間が止まってしまったみたい。

 何かしたいのに、わたしには何もできなくて、ずっとモヤモヤしてる。

 4時。わたしは時計を見て立ち上がった。

 教室を出て、廊下の突き当りに目を向けて、わたしは肩を落とした。

「……今日も光ってない」

 今日は、今日こそ、瑠璃ちゃんが戻ってきたんじゃないかって、毎日期待してしまう。

 でも、1か月経っても、家庭科室はいつもの家庭科室のまま。

 机いっぱいに色鮮やかな小物が並ぶことも、着物姿の女の子が座っていることもなかった。

『瑠璃色雑貨店』は、今日も閉まったままだ。

 今日も、明日も、その次もーーもう、開くことはないのかもしれない。

 そう思うと、胸が押しつぶされそうに苦しくなる。

 たしかめたくても、あの鍵がなければ、もうわたしたちは向こうに行くことはできないんだ。

「やっぱり、ここにいた」

 うしろから声がして、ビクッとする。

「あ、りんかちゃん」

「杏ちゃん、まだ瑠璃ちゃんのこと待ってるの?」

 りんかちゃんが言う。

「うん……心配だから」

 りんかちゃんは、わたしが初めてお店に連れていった友達だ。

 友達を連れてきてもいい? そう聞いたとき、


『ここにはね、このお店を必要としてる子しか来れないの』


 瑠璃ちゃんはそう言った。

 もしかして、もうわたしには必要ないってことなのかもしれない。

 それとも、1か月経っても、瑠璃ちゃんは目を覚ましていないのかも。目を覚ましていたとしても、動けないかも……。

 どんなに心配でも、鍵がなければあっちには行けない。

 確かめようがないんだ。

「心配なのはわかるけど、いつまでもそんな顔しててもしょうがないじゃん」

「そうなんだけど……」

「あっ、そうだ。明日休みだし、買い物行こうよ!」

 ねっ、とりんかちゃんがわたしの手をとって言った。


 ☆


 日曜日。

 わたしとりんかちゃんは、街でいちばん大きなデパートにやってきた。

 8階建てのビルに、いろんなお店が入っている。

 レストランに本屋、服やアクセサリー、そしてもちろん雑貨屋も。なんでもそろっている百貨店だ。

「お母さんにこれもらったんだ」

 りんかちゃんが、トランプのカードみたいに、2枚の紙をひらいて見せた。くじ引きの券だ。

「ええっ、すごい! 商品券1万円だって!」

「だよね、旅行とかお肉よりやっぱりそれだよね」

 わたしたちは手を取りあってはしゃいだ。

 1万円もあったら、ほしいものがなんでも買えるんだ。

 鞄も帽子もアクセサリーも、タオルも新しいペンも……

 くじ引きの券を握りしめてうっとりするわたしに、

「ま、当たらなきゃもらえないんだけどねー」

 りんかちゃんがサクッと釘をさした。


「どっちもはずれかあー」

 がっくりと肩を落とすわたしたち。

 日曜日のデパートは、人でいっぱいだった。

 お店に並ぶ洋服や靴がならぶキラキラした洋服や靴は、ちょっと大人っぽくて、わたしたちのお小遣いじゃ買えないようなものばかりだけど、雑貨屋ならわたしたちにも買える小物がたくさんあった。

「あっ、このレターセットかわいい」

「ほんとだ! このパンダのハンカチもかわいいね」

 かわいいものがたくさん並んでて、見ているだけでワクワクする。

 落ち込んでいる気分だって、持ち上げてくれる。

 やっぱりわたしは、雑貨が大好きだ。

「杏ちゃん?」

 ふいに名前を呼ばれて振り向くと、スーツ姿の女の人がにこにことほほ笑んでいた。

 長い黒髪をうしろでキュッとまとめて、バッチリメイクをしている。

 もしかして……

「樹里さん?」

 わたしは目を瞬かせて女の人を見上げた。

 大好きだった雑貨屋『アトリエコレット』の樹里さん。

 お店がなくなってから会っていなかった。髪の色も、格好も、雰囲気も、わたしが知っている樹里さんとは、全然違っていた。

「いま、わたし、ここで働いてるの」

「ええっ」

「ていうか、ここ、うちなんだけどね」

 ここが、うち? どういうこと?

「樹里さん、ここに住んでるの?」

「あはは、違う違う。わたし、ここの娘なんだ。将来はここ『高浜屋』の社長になるの。びっくりだよね」

「しゃ、社長!?」

 わたしはぽかんとして樹里さんを見た。

 近所で小さな雑貨屋をやっていたお姉さんが、この大きなデパートの社長?

 びっくりしすぎて頭がパニックだった。

 高浜ーー瑠璃ちゃんと同じ名前。

 瑠璃ちゃんのおうちの『高浜呉服店』。

 そしてここ、『高浜屋』。

 高浜屋は、わたしが生まれるよりずっと前からある大きなデパートだ。

 ただ名前が同じなだけ。関係ないかもしれない。

 でも、もしかしたらーー

「あのっ……」

 心臓が、ドクドクと大きく鳴った。

 こんな偶然、あるんだろうか。

 100年以上も前の、大昔のお店。それがいままで続いているかもしれないなんて、そんなこと全然、考えたことなかった。

 でも、もしかしたら、あるかもしれない。

 いまもどこかに、残ってるかもしれないんだ。

「高浜呉服店っていうお店、知ってますか?」

 樹里さんはキョトンとしてわたしを見た。

 そして、言った。

「知ってるわよ」

「えっ?」

 心臓の音が、さらに大きくなった。

 樹里さんが、高浜呉服店を知ってる?

 それなら、いまの時代にもまだあるってこと?

「高浜屋は昔、高浜呉服店って名前だったの。杏ちゃん、よく知ってるわね」

「それは……」

 それは、見たから。この目で、そのお店を見てきたから。

「代々続いた呉服店を、もっと誰でも気軽に入れるように、なんでも売ってるお店にって、大きくしようとした女の人がいたの。当時は女性の社長なんて珍しかったのにすごいよね」

「その女の人って……」

「高浜瑠璃っていうの。もちろん会ったことはないけど、私の憧れの人。プレッシャーに押しつぶされそうになってたとき、その人のことを知って、できるところまで頑張ってみようって思えたんだ」

 わたしは大きく目を見開いた。


 ーー瑠璃ちゃん。


 その名前を聞いた瞬間、わたしの目から、涙があふれた。

「どうしたの? 大丈夫?」

「瑠璃ちゃん……」

「え?」

 樹里さん、困ってる。

 わかってるけど、涙が止まらなかった。


 ーーよかった。


 もう二度と会えないかもしれない。

 そう思うと、怖くて、何も手につかなかった。

 瑠璃ちゃん、無事だったんだ。

 目を覚ましたんだ。

「杏ちゃん!? なんで泣いてるの? どっか痛い?」

 りんかちゃんも駆け寄ってきて、心配そうに見ている。

 わたしはぐしぐしと涙を手でぬぐって、首を振った。

「大丈夫。瑠璃ちゃんにまた会えるって、わかったから」

 ずっと昔に生きていた瑠璃ちゃんのことを、いまの時代にいるわたしや玲央名くんやりんかちゃん、樹里さんやたくさんの人が知っている。

 これってすごいことだ。

 偶然なんかじゃない。

 それは、瑠璃ちゃんが繋いでくれた奇跡なんだ。


 ☆


「玲央名くんっ!」

 ホームルームが終わって、わたしは真っ先に玲央名くんに声をかけた。

「あのね」

 言いかけて、はっと口をつぐむ。

「えっと……話したいことがあるんだけど、家庭科室に来てくれる?」

 玲央名くんはおどろいたようにわたしを見た。

「俺もちょうどそう言おうと思ってたんだ」


 はい、と玲央名くんが手を差し出した。

 手のひらには、カラフルな糸で編み込まれた紐が乗っていた。

 これって……

「これ、ミサンガ?」

「うん。作ってみたんだ。今度の土曜日、サッカーの試合があるから」

 ……ん?

 わたしは首をかしげた。

「それって、ふつう、逆じゃない? 応援するほうが頑張ってって渡すものじゃない?」

「そうかも。でも、杏に応援してほしかったんだ」

「わ、わたしに……?」

 ドキドキしながら、ミサンガを受け取った。

 器用に編み込まれたカラフルな糸。

 不器用なわたしじゃ、絶対こんなにきれいにはできない。

 でも、どうしてわたしなんだろう。

 もしかして、わたしだけとくべつに……?

「応援、するよ。これつけて、応援する……!」

「ほんと? ありがとう」

 玲央名くんの笑顔に、わたしの胸がキュンと音をたてた。

「なんか手づくりハマっちゃってさ、いっぱい作ったんだ」

「え? いっぱい?」

「妹の分と、瑠璃ちゃんと、あとは……」

 指を折って数えだす玲央名くん。

 わたしはガクッと肩を落とした。

 玲央名くんにとっての“とくべつ”になるのは、まだまだ遠そう。

 でも、いいんだ。

 好きなものを素直に好きって言える相手ってだけで、もう十分とくべつだから。

「で、杏の話したいことって?」

「あ、あのね……」

 昨日、デパートで樹里さんに会ったこと、樹里さんに聞いたことを話した。

「へえ。高浜呉服店が高浜屋の前身だったのか」

「びっくりだよね。しかも瑠璃ちゃんが創業者だって」

「そんなすごい人の子どもの頃と会ってたんだな、俺たち……友達とか言っちゃっていいのかなあ」

「いいよ。瑠璃ちゃんは、大切な友達だもん」

 わたしはきっぱりと言った。

「うん。そうだな。すごい人でも、瑠璃ちゃんは瑠璃ちゃんだよな」

 玲央名くんも笑ってそう言った。

 瑠璃ちゃんは、きっとまた戻ってくる。

 瑠璃ちゃんの学校の扉を開けて、この学校の家庭科室に。

 きっと、また会える。

 わたしは、そう信じてる。


 ☆


 青空の下、桜の花びらがひらひらと舞っている。

「杏ちゃん、写真撮ろーっ」

「こっちこっちー」

「うん!」

 わたしはクラスメイトのところに駆けていった。

 今日は卒業式。

 玲央名くん、りんかちゃん、みんなが笑ってる。

 わたしも満面の笑みで写真を撮った。

 今日でこの学校も卒業。

 楽しかったな。

 でも、寂しい。

 何が?

 みんなとは中学校でも一緒なのに。

 だけど、わたしの心には、ぽっかり穴があいたままだった。

 結局、瑠璃ちゃんには会えなかった。

 わたしの心には、ぽっかり穴があいたままだった。

 卒業したら、もう、毎日放課後家庭科室を見に行くことはできなくなる。

 もう、瑠璃ちゃんには会えないんだ。

 だめだ。笑わないと。写真なのに。笑わないと。笑わないと……

 でも、だめだって思うほど、涙さどんどんこぼれてくる。


 ーーなんで泣いてるの?


 誰かが呼んでる。

 どこで?

 この声、知ってる。


 ーーわたしはここにいるよ。


 はっとした。


 ……瑠璃ちゃん?


 ガバっと顔をあげて、ひっくり返りそうになった。

「あ、起きた」

「れ、玲央名くん」

 わたしはあわてて涙をぬぐった。

 4時になるまで教室で待ってるうちに寝てしまっていたんだ。

 時計を見ると、4時を過ぎていた。

「怖い夢でも見てた?」

 玲央名くんが心配そうに覗き込む。

 ドキドキして、さっきまで見ていた夢の内容が吹き飛んでしまった。

 なんだか、悲しい夢だったような……。

 そうだ。瑠璃ちゃんの声が聞こえたんだ。

「杏、瑠璃ちゃんに会えるよ」

「え?」

 わたしは目を見開いて玲央名くんを見上げた。

 あれから1年が経って、わたしたちは6年生になった。

 毎日、毎日、放課後は欠かさず家庭科室を見に行ったけど、相変わらず、家庭科室はいつもの家庭科室だった。

「会えるって……?」

「ほら。行こう」

 玲央名くんに手をつかまれて、わたしは立ち上がった。

 わけがわからないまま教室を出て、廊下の先に目を見張った。

 淡いオレンジ色に染まった廊下の突き当り。

 家庭科室の扉が、ぽうっと光っている。

「うそ……」

「サッカーしてたら、窓が光って見えたんだ」

 玲央名くんがにっとわたしを見た。

 さっき止まった涙が、またあふれそうになった。

 嘘、じゃない。

 ずっと、ずっと待っていた光。

 扉を開けると、そこにはーー

 赤や青や黄色、色鮮やかな小物たち。

 そしてその奥にちょこんと座る着物姿の女の子。

 おかっぱの黒い髪を揺らして、大人びた表情でにっこりと笑う。

「いらっしゃい」

 1年前と同じように、瑠璃ちゃんはそう言った。

「瑠璃ちゃんっ!」

 わたしは駆け寄って、ガバっと瑠璃ちゃんに抱きついた。

「よかった……よかったよぉ〜っ」

「お母さんから聞いたの。心配かけてごめんね。それから、鍵を渡してくれてありがとう」

 瑠璃ちゃんは1年間、意識が戻らなくてずっと病院にいたそうだ。

 やっと退院できて、真っ先にここに来たのだと言った。

「もう1回、4年生、やり直すことになったの。だからあと半年は、ここに来れるよ」

 あと半年……。


 ーーわたしはここにいるよ。


 そっか。あの言葉は……


「じゃあ、わたしたち、一緒に卒業できるんだね!」

 うん、と瑠璃ちゃんは嬉しそうにうなずいた。


 放課後、午後4時。

 オレンジ色の夕日に包まれた家庭科室が光に包まれると、巾着袋や髪飾り、ハンカチや人形。色とりどりの小物たちが机いっぱいに並んでる。

 ここは『瑠璃色雑貨店』。

 小さな着物姿の女の子がいる不思議な雑貨屋。

 光に手を伸ばして、わたしは今日もその扉を開く。

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学校の雑貨屋〜瑠璃色雑貨店〜 松原凛 @tomopopn

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