第47話 自由恋愛
九条家から逃げ出した千晃は、全速力で教会へ向かう。九条家の屋敷は、以前周作と訪れた神社の裏手に位置する。距離はそこまで離れていないため、車がなくても行き来できた。
石階段を下り、商店街を抜けると、海沿いの通りに出る。目の前に広がる海は、夕日に照らされて茜色に染まっていた。過去にウィリアムとこの場所に来た時のことを思い出した。
あの日、ウィリアムは花嫁を迎えた理由について『殺すのではなく、愛したかったから』と明かしてくれた。今ならその言葉の重みが分かる。
ウィリアムは、千晃に希望を見出していたのだろう。奪うことしかできなかった彼が、唯一殺さずに愛した人間だったから。
ウィリアムには、たくさんの愛をもらった。それなのに、千晃自身はその愛を受け止めきれずにいた。
自信がなかったんだ。自分は愛される人間ではないと、心のどこかで否定していた。たとえ愛されていたとしても、その感情は一時的なもので、やがては失われてしまう。そんな悲観的な感情が渦巻いていたからこそ、傷つかないように予防線を張っていた。
その結果がこれだ。すれ違った挙句、ウィリアムを傷つけてしまった。
(どうしてウィルのことを信じてあげられなかったんだろうな)
ウィリアムの想いを素直に受け止めていれば、ここまで事態がこじれることはなかっただろう。卑屈な自分にほとほと嫌気が指す。
だけど、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。小説を読んだことで、ウィリアムに心から愛されていることを実感した。その愛は、簡単に消え失せるものではないことも。
まだ間に合うはずだ。今度は、千晃がウィリアムに愛を捧げる番だ。
◇◆
鐘塔の聳え立つ大聖堂を見上げる。異国の建築様式をふんだんに取り入れた大聖堂は、細部まで見入ってしまうほどに美しかった。
聖母像が見守る中庭では、正装姿の人々で賑わっている。結婚式の参列者だろう。千晃は正門の影から、中の様子を窺った。
(今の格好だと、どう考えても場違いだろうな……)
千晃は自らの服装を見て、溜息をつく。着流しに足袋。厳粛な式に参列するにはどう考えても不適切だ。敷地内に入っても、すぐにつまみ出されそうだ。
到着して早々、壁にぶち当たってしまった。屋敷から抜け出すことで頭がいっぱいで、抜け出した後のことは考えていなかった。
詰めの甘さを呪っていると、中庭である人物を見つける。トヨだ。「あっ」と声を上げたところで、トヨも千晃の存在に気付いた。
「まあっ」
トヨは驚いたように口元を覆い隠す。周囲を見渡してから、人目を忍んで千晃のもとに近付いてきた。
千晃は目立たないように、馬車の影に隠れる。トヨも意図を察したように、馬車の影までやって来た。対面すると、トヨは感極まったように千晃の肩に手を添える。
「アキさん! 心配していたんですよ! 突然九条家に引き取られてしまったので」
目元には涙が滲んでいる。どうやら心配をかけてしまったようだ。
「すいません。事前にお知らせすることもできず……」
「アキさんが謝ることではありませんわ! どうせ九条家の方に強引に連れて行かれたんでしょう?」
見事に言い当てられてしまい、苦笑いを浮かべる。その反応で事情を伝わったようだ。
「まあ、アキさん。草履も履いていないじゃないですか。もしかして自力で九条家から抜け出して来たのですか?」
「そんなところです……」
「やっぱり。大変でしたね……」
トヨはハンカチで目元を拭う。泣くほど心配させてしまい、心苦しかった。とはいえ、いつまでもしんみりしている訳にはいかない。
トヨには、ここに来た目的を明かすべきだろう。千晃は意を決して、トヨと向き合った。
「実は僕、これから酷いことをしようと思っているんです」
「まあ、酷いこと?」
「はい」
反対されるのも承知の上で、自らの目的を明かした。
「秋穂さんからウィルを奪いに来ました」
トヨは「まあっ」と息を飲みながら、目を見開く。当然の反応だ。結婚式当日に、花婿を強奪するなんて正気の沙汰ではない。馬鹿なことはよしなさいと咎められることも覚悟していた。
だけど反対されても、やめるつもりはない。ウィリアムを救うためにも、諦めるわけにはいかなかった。
「やっと分かったんです。自分のやるべきことが。ウィルを幸せにできるのは、僕だけなんです」
感情のままに訴える。少し前だったら、こんな小恥ずかしいことは口にできなかった。だけどもう、隠すつもりはない。
「僕は、ウィルと一緒に生きたいんです」
はっきりと言葉にはしたものの、怖くてトヨの表情は見られない。トヨは秋穂と親しかったから、反対されるに決まっている。非難されるとを俯いていると、穏やかな声が聞こえた。
「アキさん、お顔を上げてください」
恐る恐る顔を上げると、トヨは目尻にしわを寄せて微笑んでいた。そんな表情をされるとは思っていなかったから驚いた。呆然としていると、トヨは静かに語り始める。
「この国は変わりましたね。私が若い頃は、親同士が決めた相手と結婚する他ありませんでしたから」
トヨは過去を懐かしむかのように目を細めている。千晃は、目を見開いたまま話に耳を傾けた。
「ですが異国の文化が入ってくる中で、自由恋愛という概念が生まれました。これからは、誰もが自由に恋愛ができる時代が来るのかもしれませんね。身分も家柄も国籍も性別も関係なく……」
トヨは目元にしわを寄せながら穏やかに微笑む。その表情から目が離せずにいると、そっと肩に手を添えられた。
「引け目を感じる必要なんてないんですよ。自分の心に正直になってください」
温かな言葉をかけられて涙が滲む。ウィリアムへの恋心を受け入れてもらえたようで嬉しかった。トヨはハンカチで千晃の涙を拭うと、ふと思い出したかのように補足する。
「それと、年齢も関係ないのかもしれないですね」
茶目っ気のある表情で付け足すも、千晃はきょとんと固まるばかり。瞬きをしていると、トヨは内緒話をするように告げた。
「旦那様はあれでいて、かなりお年を召した方だと思うんです。古いこともまるで自分で目にしてきたかのようにお話するんですもの。きっと私よりもずっと年上に違いありませんわ」
現実離れしたことを口にしているというのに、まるで畏れる様子はない。これは予想外だ。トヨはくすっと笑いながら言葉を続ける。
「きっと異国には、若返りの薬でも出回っているのでしょうね。もしくは旦那様は妖の類なのか」
核心を突くような言葉が飛び出して、ひやっとする。トヨは、千晃が来る以前からウィリアムのもとで仕えていた。共に過ごす中で、不審に思うことがあったのかもしれない。
言葉に詰まらせていると、トヨは場を和ませるように微笑んだ。
「冗談ですよ。年寄りの戯言だと思って聞き流してください」
冗談にしては鋭すぎるが、そういうことにしておこう。ウィリアムがただの人間ではないと勘付いていながらも傍で仕えているトヨは、懐が深いのかもしれない。だけどそれは、千晃も同じだ。
「たとえウィルが妖だったとしても、傍に居たいという気持ちは変わりません」
千晃は穏やかに微笑みながら心の内を明かす。ウィリアムが吸血鬼であっても、好きという気持ちは変わらない。きっと恋心は、種族の壁だって超えてしまうのだろう。
トヨにここに来た目的を伝えたところで、具体的な作戦を話し合う。千晃は中庭に視線を向けながら、現状の課題を伝えた。
「教会に忍び込んでウィルを連れ出したいのですが、今の格好だと目立ってしまいますよね?」
「そうですねぇ。流石にその恰好では……」
トヨは、口元に手を添えながら千晃の服装を上から下まで眺める。やはりこの格好では場違いだろう。どうしたものかと悩んでいると、トヨは決意したように力強く頷いた。
「微力ながら、私共もアキさんの計画にご協力させていただきますわ」
その言葉は、とても心強く感じた。
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