第46話 逃亡計画
結婚式当日に九条家を抜け出すと決めてから、千晃は水面下で準備を進めていた。表向きには聞き分けの良い書生を演じ、屋敷の人間と良好な関係を築くよう努めた。
とくに見張りの平塚には、心を開いたように見せかけた。表情の乏しかった平塚も、千晃が笑顔で話しかけるとたどたどしく会話に応じてくれた。
周囲の警戒心が薄れた頃合いに、「世話になっているのに何もしないのは忍びないから、雑用を任せてほしい」と頼み込んだ。すると、あっさりと屋敷内の掃除を任せてもらえた。
それからは廊下の拭き掃除や庭の草刈りなどを率先して買って出た。作業をする中で、女中達から結婚式に関する情報も探った。
女中達の話によれば、結婚式は港の見える教会で執り行われるそうだ。異国の文化が入り交じる時世とはいえ、教会での結婚式を行なうのはかなり珍しい。莫大な資金がかかるため、財力を見せつけるためだろうと女中達は噂していた。
会場の情報を集めつつ、当日の逃走経路も確保する。掃除をしながら、裏口の施錠状況や見張りの有無を確認した。裏口は台所と接しているため、外に出ようとすると女中に見つかってしまう。だけど、結婚式当日は慌ただしくなるだろうから、隙ができると踏んでいた。
計画は順調だ。あとは結婚式当日に、平塚を出し抜いて逃げ出すだけだ。そこが一番の鬼門だが、何の策がないわけではない。この際だから、使えるものは何でも使ってやろう。
そして迎えた結婚式当日。予想していた通り、屋敷内は朝から騒がしかった。九条夫妻は、使用人を引き連れて身支度をし、準備が終わると使用人と共に会場へ向かった。
結婚式は夕刻に始まる。式を行った後は、立食パーティーを開くそうだ。
慌ただしかった屋敷内も、陽が傾き始めた頃にはしんと静まり返った。予想していた通り、使用人はほとんど出払っている。ただ、千晃の見張りを担っている平塚は式には参加しなかった。これも事前に知らされていたことだ。
さて、ここから一芝居打つことになる。千晃は小さく息をつき、覚悟を決めた。
「うぅ……ぐすっ……ぐすっ」
千晃は膝を抱えて嗚咽を漏らす。襖の向こうにいる平塚に聞こえるように、大げさに泣いて見せた。すると異変を察した平塚が襖を開ける。
「小宮様、どうされました?」
表情の乏しい平塚が、珍しく慌てている。千晃が泣いている姿を見て、困惑しているのだろう。第一段階は成功だ。千晃は目元を潤ませながら、平塚を見上げた。
「ごめんなさい、急に……。エイデン様が結婚されると思うと、悲しくて……」
同情を誘うようにおろおろと泣いて見せる。平塚も、千晃とウィリアムの関係はおおよそ察しが付いているはずだ。恋に破れて傷ついていることは、説明せずとも伝わった。
平塚は千晃の前でしゃがむと、清潔なハンカチを差し出す。
「涙を拭いてください」
「はい……ありがとうございます」
千晃はハンカチを受け取って、涙を拭う。さりげなく平塚の反応を伺うと、こちらを心配するように眉を下げていた。冷徹に見えた平塚だったが、情に訴えかければ絆されるようだ。計画通りに事が進み、密かに安堵する。
「平塚さんは優しいんですね」
千晃が涙を浮かべたまま微笑んで見せると、平塚は驚いたように目を見開く。かと思えば、頬を赤くして視線をあちらこちらに巡らせていた。
「いえ、そういうわけでは……」
動揺しているのは明らかだ。この調子なら、次の作戦も上手くいきそうだ。千晃は俯いたまま、平塚の肩にことんと頭を預けた。
「こ、小宮様!?」
平塚は肩を飛び上がらせて驚く。千晃がこんな行動に出るのは予想外だったのだろう。
平塚の手は、千晃の肩のあたりで忙しなく動き回っている。触れていいのか迷っているようだ。その行動で、彼が生真面目で初心な性格であることを察した。
千晃はさらに大胆な行動に出る。俯きながらズボン越しに平塚の内腿に触れてみた。誘うように、つーっと指先を這わせる。
「寂しいんです。慰めてくれませんか?」
向こうも意図を察したようで、慌てふためく。耳まで真っ赤に染め上げて恥じらっていた。
「何を仰ってるんですか!? いけません!」
「良いじゃないですか。屋敷には僕達しかいないんですよ?」
「そうですが……!」
こんな風に千晃から迫られるとは夢にも思っていなかったのだろう。だけど、理性が崩壊しかけているのは目を見れば分かる。無機質だった瞳には、明らかに熱が宿っていた。
千晃は、妖艶に微笑んでからその場で立ち上がる。
「汗をかいてしまったので、お風呂をお借りします。戻ってくるまで、ここに居てくださいね」
千晃は、平塚を残して部屋を出た。浴室に向かうふりをして、早足で裏口へ向かう。事前に部屋の外に隠しておいた荷物を回収することも忘れなかった。
平塚は追ってこない。まだ部屋で放心しているのだろう。この隙を逃すわけにはいかなかった。
台所には女中の姿もない。隙を突いて、千晃は裏口から脱出した。
屋敷を出てから、裏門へ走る。あいにく草履は見つからなかったため、足元は足袋だけだ。それでも走れないことはなかった。
事前に確認した通り、裏門は施錠されていなかった、おかげで難なく脱出できた。
作戦は成功だ。
自分が男を惹きつける容姿であることは、帝都に来てから嫌というほど思い知らされた。その性質を利用してやろうという作戦だ。
平塚を騙すような真似をしてしまったのは忍びないが、穏便に事を済ませるにはこれが最善の策だった。上手くいかなかったら、九条家に拉致された時のように物理的に黙らせることも視野に入れていたくらいだ。
こんな風に人を出し抜いたのは初めての経験だ。男を誘惑したことだって、もちろんない。失敗することも想定して代案もいくつか考えていたが、最も穏便な方法で片が付いて良かった。
とはいえ、ウィリアムに知られたら、手酷い仕打ちを受けるのは火を見るよりも明らかだ。このことは墓場まで持っていこう。
どうにか九条家から脱出した千晃は、教会へと急いだ。
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