第45話 覚悟

 すべてを読み終えた時、千晃は泣いていた。あらゆる感情が溢れ返って、処理ができなくなる。恐れも、怒りも、哀しみも、憐みも、悦びも、愛おしさも、一気に湧き上がった。


 原稿に綴られていた事柄が、創作なのか真実なのかは分からない。だけどただの創作と片付けるには、あまりに彼の境遇と酷似していた。


 もしもここに綴られていたことがウィリアムの過去だとするのなら、簡単には受け止めきれない。彼は数多の人間を殺めてきた。生きながらえるためとはいえ、到底許されることではない。考えるだけで吐き気を催す。


 だけど完全には拒絶できない自分もいる。胸の奥には、ウィリアムへの愛おしさも確かに存在していた。


 物語に登場した少年は、千晃のことだろう。自分の境遇とあまりに酷似していたからだ。


 ロードは少年を心から愛していた。それはつまり、ウィリアムが千晃を心から愛しているということだろう。その事実は、堪らなく嬉しかった。


 ウィリアムにとって、千晃は特別な存在だった。誰の血を吸っても苦痛を感じていた彼が、千晃の血だけは美味しいと思えた。偶然にも千晃の血は、ウィリアムの身体に適合していたのかもしれない。


 いつだったか、ウィリアムは千晃と出会えたことを「運命」と呼んでいた。今なら、その意味が理解できる。


 涙が原稿に零れ落ち、インクを滲ませる。一体ウィリアムは、どういうつもりでこれを渡してきたのだろう?


 もしも千晃自身が同じ立場なら、後ろめたい過去は絶対に明かさない。明かしたら最後、恐れられ、拒絶される未来が待っている。


 千晃は改めて、ウィリアムの真意を考える。すると、先日の吸血衝動に辿り着いた。


(もしかしてウィルは、僕に警告をしているのか?)


 自分は人を殺す化け物である。過去の罪を明かすことで、逃げるように促しているのかもしれない。


 愛する人の血を、吸い尽くしたくない。だから逃げなさい。ウィリアムに、そう忠告されているような気がした。


(そう言えば、九条家に留まるかどうかは、僕の意見を尊重するって言っていたな)


 この先も九条家の書生として世話になれば、ウィリアムから血を吸われることはなくなる。離れるための手段として、千晃の身柄を九条家に移そうとしたのかもしれない。


 ウィリアムのもとに戻ったら、また血を吸われることになる。先日のような激しい吸血衝動が起こったら、今度こそ血を吸い尽くされてしまうかもしれない。


 それはとてつもなく恐ろしいことだ。それなのに、千晃自身は殺されることにはさほど恐怖を感じていなかった。


 もともと自ら命を手放そうとしていたのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。あの時は気が動転するあまり、死んだ方がましだと思っていた。身勝手だけど、それが本音だ。


 だけどウィリアムは、千晃を生かそうとしている。それはウィリアムなりに、千晃を愛しているからだろう。


 ウィリアムは千晃を殺めてしまうことを恐れているが、果たして本当にそうなのだろうか? もしもまだ傍に居られる余地があるのなら、逃げたくはない。


 千晃は改めて小説を読み返す。原稿に綴られている内容を信じるなら、こうとも捉えられる。


 千晃は、ウィリアムが初めて生かした人間だ。奪うことしかできなかったウィリアムが、血を吸ってもなお生きながらえさせたのは千晃だけだ。


 初めて血を吸われた時、意識を失ったものの命までは奪われなかった。それは、千晃の血を美味しいと感じたからだ。全部吸い尽くすのは惜しい。その感情が、ウィリアムを思い留まらせた。


 だけど、今はそれだけではないような気がする。こう考えるのは烏滸がましいが、共に過ごす中で千晃が特別な存在になったからだろう。ウィリアムに心から愛されていたから、千晃は生かされてきた。それが今なお生き続けている理由だ。


 それにも拘らず、ウィリアムの吸血衝動を不用意に煽るような真似をしてしまった。その結果、彼を傷つけた。過去の罪を明かして千晃を遠ざけようとするほどに、彼を追い詰めてしまったのだ。


 もう二度と、あんな間違いは犯したくない。溢れる涙を拭いながら、千晃は自らの存在意義を見出した。


 ウィリアムは千晃を愛している限り、殺すことはできない。それは彼を救うための突破口になるような気がした。千晃の存在は、奪い続けるだけの運命から解放させるための鍵になる。


(もう誰も殺させない。そのためにも僕がウィルの花嫁になろう)


 本当は今すぐにでもウィリアムのもとに駆け出したいが、見張りを付けられている状況では逃げ出すことは困難だ。逃げ出したところで、すぐに捕まってしまうかもしれない。逃亡に失敗すれば、監視体制はさらに厳重になるだろう。


 屋敷を抜け出すなら、確実に逃げられる隙を狙ったほうが良い。いつなら実行可能か考えた時、ある出来事を思い出した。


 ウィリアムと秋穂の結婚式。


 二人の結婚式は、六日後に控えている。結婚式当日なら、監視が手薄になるかもしれない。逃げ出すには絶好の機会だ。


 現地に向かえば、ウィリアムにも会える。そこで決着を付けよう。


 これまでは、秋穂と結婚することが彼にとっての幸せだと信じていた。だけど違った。


 ウィリアムは、他の誰でもなく千晃の血を選んだ。だからもう、遠慮する必要なんてないんだ。

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