第43話 恋心の正体

 故郷にいた頃の千晃は孤独だった。義母からは疎まれ、父からは関心を持たれず、愛を知らずに育ってきた。そんな空虚な状態から救い出してくれたのが、ウィリアムだ。彼に優しくされたことで、空っぽだった心が満たされていった。


 惚れた根拠としては、理にかなっている。だけど本当にそれだけなのだろうか? 優しくされたから惚れたと片付けられると、どうにも釈然としなかった。


 千晃は改めて、ウィリアムへの感情を見つめ直す。


 確かに優しくしてもらったから心を開いたというのは事実だ。ウィリアムは、たくさんの愛情を与えてくれた。ウィリアムと過ごす日々は、とても幸せだった。


 だけどウィリアムは優しいだけではない。強引に迫ってきたり、嫉妬心を露わにしたり、意地の悪いことをしたりと、千晃の感情を何度も揺るがせてきた。


 挙句の果てに、血を吸い尽くして命まで奪おうとしてきた。その件に関しては、千晃にも落ち度があるが。


 それでも好きという感情は揺るがなかった。むしろ増長するばかりだ。


 恋心というものが、どこからやって来るのかは分からない。だけど、優しくされたから惚れたというのは、全てではないような気がした。


 九条社長は、こちらを見下したように嘲笑う。


「彼の代わりに、私が優しくしてあげてもいい。そうすれば君は満足なんだろう?」


 優しくされたから惚れた。もしウィリアムへの恋心がそれだけのものなら、別の人でも代替できるはずだ。


 だけど、そうではない。代わりなんて存在しないから、こんなにも苦しんでいたんだ。千晃は意思の籠った瞳で、九条社長を見上げる。


「確かに、最初は優しくされたことが嬉しかったんです。今まで誰からも大切に扱われてこなかったので」


 言葉にしながら、ウィリアムと過ごした日々を思い出す。帝都の街を案内してくれたこと、海に飛び込んだ千晃の身を案じてくれたこと、愛していると言葉にしてくれたこと、そのどれもが初めての経験で嬉しかった。


「だけど、それだけではないんです。優しくしてくれる人は、他にもたくさんいました」


 優しくしてくれたのは、何もウィリアムだけではない。トヨや滝沢、秋穂や周作だって親切にしてくれた。帝都で過ごす中で、この世界には優しい人が大勢いることを知った。だけど、彼らとウィリアムとでは決定的に違う。


「それでも、求められたいと思ったのは、ウィルだけなんです」


 屋敷に連れ戻された際、嫉妬に狂ったウィリアムに激しく求められた。通常ならば恐怖を抱く場面だが、あの時は求められていることが嬉しくて、胸が熱くなった。他の人が相手なら、絶対に抱かなかった感情だろう。


「優しくされたから惚れた。そんな単純なものではないんです。他の誰に優しくされようと、ウィルの代わりにはなり得ません」


 朧げだった恋心を言語化したことで、ウィリアムへの想いが確かなものになったような気がした。千晃の発言を聞いた九条社長は、不愉快そうに舌打ちをする。


「随分と奴に懐いているようだな。……まあいい」


 千晃から離れると、九条社長は正面に座り直す。


「娘の結婚式は、一週間後に行なう予定だ。それが終われば、結納金が支払われる約束になっている。それまではここで大人しくしていれば、何も文句は言わないさ」


 まだ金銭の受け渡しが行われていないのは意外だった。本来、結納金は結婚式の前に渡されるものだ。金額が金額だから用意するのに時間がかかっているのかもしれないが。


 九条社長としては、金銭の受け渡しがあるまでは、千晃をこの場に留めるつもりなのだろう。下手に逃げようとしても、こじれるだけなような気がした。


 それに、千晃が九条家に留まれば、ウィリアムだって屋敷に戻れる。この場にいることがウィリアムのためになるのなら、大人しく従うべきだろう。


「分かりました。一週間はこちらでお世話になります」


 千晃が承諾すると、九条社長はふんと鼻を鳴らした。


「分かればいいんだ」


 九条家に留まることを決めたものの、気がかりなことがある。ウィリアムへの血の供給についてだ。あと一週間も血を与えられない状況が続いて大丈夫なのか?


 心配になった千晃は、九条社長へある条件を提示する。


「一週間はここに居ます。その代わり、ウィルの容態を報告してくれませんか? 最近、元気がないと伺っていたので、心配なんです」


「想い人の身を案じるなんて健気だねぇ。まあ、それくらいなら構わないさ」


「よろしくお願いします」


 交渉成立だ。万が一、ウィリアムの容態が悪化したら屋敷を抜け出して血を与えに行くことも視野に入れているが、ひとまずは聞き分けの良い書生を演じることにした。


◇◆


 九条家での暮らしは思いのほか快適だった。食事は朝昼晩きっちり用意され、布団も天日干しされた清潔なものを与えられた。襖の向こうには見張りがいるが、部屋の中での行動を制限されることはない。大学にも送迎付きで通わせてもらった。


 九条社長からの報告によれば、ウィリアムの容態にも変化はないようだ。万が一、急変したら結婚式どころではなくなるだろうから、この報告は信頼できるものと踏んでいる。


 九条家にやって来た二日目の夜。千晃が部屋で暇を持て余していると、ふと滝沢から預かった書類のことを思い出した。昨日は九条家での出来事が衝撃的過ぎて、存在を忘れていた。


 封筒は鞄に入れっぱなしだ。すぐに取り出して封を切った。


 中から出てきたのは、瑛文で書かれた書類の束だ。ざっと目を通すと、小説であることが分かった。


 これまで訳していた小説の続きかと思いきや、冒頭を見た限り内容はまるで異なっていた。表紙には「ヴァンパイア・ロード」と題名が記されている。ウィリアムの著書にそのようなものはないはずだ。つまりこれは、オリビア・アレンの新作小説ということだ。


(なんでもっと早く開けなかったんだ!)


 憧れの作家の小説が手元にあったというのに、翌日まで寝かせてしまったことが悔やまれる。ウィリアムが何故これを渡してきたのかは分からない。だけどファンとしては読まずにはいられなかった。


 幸い瑛和辞典は手元にある。千晃は胸の高鳴りを感じながら、冒頭の一節から訳した。

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