第42話 不穏分子

 い草の香りが鼻腔をくすぐる。故郷にいた頃は、何度も嗅いだ香りだ。エイデン邸には畳の間は存在しないため、ひどく懐かしい気分になった。


 ハッと目を覚ますと、自分が布団に寝かされていることに気付く。真っ暗で視界は朧げだが、見覚えのない場所であることは確かだ。


 周囲の様子を伺うと、どこぞの屋敷の一室であることが分かる。床の間には立派な掛け軸と花が飾られていた。千晃は身体を起こしながら、ここに来るまでの出来事を思い返す。


(そうだ。大学を出たところで九条家に人に襲われて……)


 現状を理解すると、恐怖で身体が震えた。何の目的で連れてこられたのか分からないが、この場に留まるのは危険だ。立ち上がって襖を開けたところ、大学前で声をかけてきた男が外に控えていた。確か平塚と名乗っていたような気がする。


「お目覚めですか。小宮様」


 やけに丁寧な応対をされる。身構えていると、平塚は恭しく頭を下げた。


「不本意かとは思いますが、しばらくの間、小宮様の監視をさせていただきます」


「監視って……」


 物騒な発言が飛び出して息を飲む。平塚は表情が乏しく何を考えているのかまるで分からなかった。


「詳しいことは、旦那様からお聞きください」


「それは九条社長のことですか?」


「ええ」


 平塚は端的に肯定すると、千晃の腕を掴む。振りほどこうとしたものの、強く掴まれていてほどけなかった。


「ご案内します」


 有無を言わさず千晃は連行された。

 屋敷の広さに圧倒されながら長い廊下を進むと、奥の間で足を止める。


「旦那様、小宮様がお目覚めになりました」


「通しなさい」


 威厳のある声で許可されると、平塚は襖を開けて千晃を座敷に通した。中では、恰幅の良い中年男性が待ち構えていた。九条社長だ。


「よく来たね。とりあえず座りなさい」


 警戒していると、平塚に肩を掴まれて無理やり座らされる。どうやらこの場では拒否権はないようだ。


「そんなに緊張しなくてもいい。悪いようにはしないさ」


 九条社長は、肩を振るわせながら笑う。既に強引にこの場に連れてこられたのだから、信用なんてできなかった。


 一瞬たりとも気を緩めることはできない。千晃は気を強く持ちながら尋ねた。


「僕は何故こちらに連れてこられたのですか?」


 深いしわの刻まれた九条社長の目元を凝視する。するとこちらを嘲笑うかのように目元をぐにゃりと歪ませた。


「君のことを九条家の書生として迎えようと思ってね。悪い話ではないだろう?」


 何故そのような提案がされているのか分からない。そんな話は、今まで一度も出てこなかった。言葉に詰まらせていると、ふんと小さく鼻で笑われた。。


「心配しなくてもいい。君のご家族にもきちんと許可を取っている。お母様からは『どうぞご自由に』と言われているからね」


 まさか実家にまで根回しされているとは思わなかった。信じがたいが、梨都子ならあっさり承諾することも想像できる。千晃がどの家に行こうが、彼女にとっては興味がないだろうから。


「もちろん、彼にも許可を取っているよ」


「彼」という言葉に引っかかる。思い当たる人物は、一人しかいない。


「彼とは、エイデン様のことでしょうか?」


「そうだ。ここに連れてくる前に一報入れたところ、『彼が望むなら、そうさせてやってくれ』と言っていたよ」


 つまりウィリアムも千晃がこの場にいるのは承知しているということだ。既に話が通っているなら、心配をかけることはないのかもしれない。


 とはいえ、あれだけ千晃に執着していたウィリアムが、あっさり九条家に身柄を引き渡すというのは信じがたい。愛情が薄れた結果なのかと想像すると、胸が痛んだ。


「僕が帰りたいと言えば、解放してくれるのですか?」


「君がどうしても言うならね。ただ、よく考えて決断してほしい」


「どういうことですか?」


 含みのある言い方をされて、千晃は眉を顰める。九条社長は、千晃の反応すら楽しむかのように笑った。


「君は、彼の愛人なんだろう?」


 サッと冷や汗をかく。以前、九条社長が屋敷に訪れた際、ウィリアムは千晃に執心していると思わせる発言をしていた。関係性を怪しまれるのは、当然の流れだ。


 愛人というのは嫌な響きだ。ウィリアムからは花嫁だと言われていたのだから、愛人と称されるのは不愉快だった。だけど今となっては、その言葉が近しいのかもしれない。


 千晃が言葉を詰まらせたことで肯定と受け取ったのか、九条社長はにやりといやらしく笑った。


「彼は随分君に執心していたようだね。首元にそんなに痛々しい傷をつけるくらいなんだから、よっぽどのことだ」


 首元に不躾な視線が注がれて、咄嗟に両手で隠す。立て襟のシャツで隠していたが、傷のことは見抜かれてしまったようだ。九条社長は半笑いを浮かべながら千晃の瞳を見据える。


「だけど君だって知っているだろう? この国では同性との結婚はできない。残念だけど、君たちが結ばれることはないんだ」


 そんなことは言われなくても分かっている。この国にいる限り、千晃が本物の花嫁になれることはないのだ。だけど他人から現実を突きつけられると、少なからず落ち込んでいる自分がいた。


「彼は今、うちの娘を娶って幸せを掴もうとしている。彼の幸せを願って身を引くのが、愛というものではないのか?」


 九条社長は、くくっと肩を振るわせながら笑っている。明らかにこちらを小馬鹿にしている。その態度は、ひどく不愉快だった。


 向こうの目的は、薄っすらと察した。ウィリアムと秋穂の婚姻を進めるため、不穏分子である千晃を遠ざけようとしているのだろう。千晃が居たらウィリアムの気が変わるかもしれない。そう警戒してのことだと想像できる。


 こちらを丸め込んで身を引かせようとしているのなら、無意味なことだ。人から助言されるまでもなく、端から身を引くつもりだったのだから。


 偽物は本物には敵わない。それは嫌というほど思い知らされた。秋穂からウィリアムを奪い取る気概なんてさらさらなかった。


「お二人の結婚を邪魔するつもりはありませんよ」


 こちらの主張を伝えると、九条社長は何度も頷きながら笑う。


「やはり君は、賢い子だね」


 褒められたって不愉快だ。冷めた視線を向けていると、不意に九条社長が立ち上がった。身構えていると、千晃のもとににじり寄りながら言葉を続ける。


「君のことも、少しばかり調べさせてもらったよ。故郷では、さぞかし辛い思いをしてきたようだね」


 前触れもなく過去の話を持ち出されて、頭が真っ白になる。実家での諍いまで調べ上げられているとは思わなかった。九条社長はわざとらしく千晃の肩に手を置く。


「義理の母親から随分酷い仕打ちを受けていたようだね。その上、実の父親も息子には無関心。可哀そうにねぇ」


 薄っぺらい共感を示されても不快なだけだ。心の中に土足で立ち入られたような気がして、苛立ちを覚えた。


「そんな孤独な君に手を差し伸べたのが彼だった。彼に優しくされたから惚れたんだろう?」


 君の恋心など、その程度だ。そう指摘されているようだった。

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